第一篇:日本のニュースについて,日本新聞,日語演講,日本汽車業(yè)
日本のニュースについて
12月14日、「日産、三菱自、提攜強化「軽」で合弁會社も」というニュースを読みました。
大手自動車メーカーの「日産」と「三菱」は50%ずつ出資して軽自動車の商品開発を共同で行う合弁會社の設立を検討しました。來年の早い時期に最終合意し、2012年には共同で開発した新車を発売したいとのことでした。
軽自動車は國內販売臺數(shù)の1/3を占めるなど重要な市場となっており、今回の提攜強化で、両社は軽自動車市場での競爭力強化を目指します。また、日産が三菱に小型商用車を供給し、これまで行ってきた相手先ブランドによる生産供給をさらに拡大する予定です。
軽自動車は、普通総排気量0.66リットル以下で、長さ?幅?高さがそれぞれ3.30メートル、1.40メートル、2.00メートル以下の小型自動車です。このような自動車は空間が大いに節(jié)約します。これだけではなく、排気量は少なくて、環(huán)境にも優(yōu)しいです。
日産と三菱の提攜することは日本の軽自動車の発展を促進するに違いません。自動車はもっと國民に普及し、就職する人も増えますし、目下の不景気も緩めます。大手らが手を繋いで、リストラを実現(xiàn)し、自分の実力も充実します。
今學期、私たちが「もしタクシー會社を経営することになったらどうしますか」というテーマについてチームを作り、皆は自分なりの考えを述べました。このニュースを読んだ後で、その発表のことを思い出しました。軽自動車の発展はタクシー會社にとってもよい知らせだと思います。軽自動車をタクシーに採用したら、コストの削減と利潤の増加が決まります。
第二篇:日本社會の家庭內暴力について
日本社會の家庭內暴力について 日本社會的家庭暴力
日本人鄰居交往。
日本家庭主婦間的交往。日本人の職場意識について 論日本人的工作意識
第三篇:[日語論文下載][認證會員sakura666分享]中日文化の違いについて
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要旨
中國の古代文化の日本への影響は週知の、日本の文字の中の漢字は無言の証拠であり。そして今直面して中日の2つの獨立した國は、中國の文化と日本の文化はきっと存在異同點。深い文化は民族の前提として認識しなければならない、理解があってこそ文化の內包を統(tǒng)一と違いインタラクティブ、相補的な文化交流雰囲気。重要文化分野研究と探求を理解を行う他民族の考え方や文化の根源を理解し、科學の國別文化の違いこそ、真の両國人民の友情や感情。日本の特殊な地理環(huán)境が日本の特殊な文化の特徴を通じて、文化と日本人の思想、飲食、茶道、甚だしきに至っては言葉でも見ることができる日本人は集団主義は強くて、人の教養(yǎng)などを重視する國。異國文化研究の意義は、他の國の文化を知ることによって、見て思想思惟、敵。精華を取って精華を取って、そのかす。正確な視文化、歴史認識できる。それによって研究を通じて日中両國の文化の間の異同の比較的には、日本という國がより深く理解。
キーワード
I 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
中日 文化の違い 影響 深刻
II 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
摘要
中國古文化對日本的影響是眾所周知的,日本文字中的漢字即是不言的鐵證。而如今面對中日兩個獨立的國家,中國文化和日本文化定會存在異同點。深意文化是認識一個民族的必須前提,只有理解文化內涵,才能建立統(tǒng)一與差異互動、互補的文化交流氛圍。要重視從文化范疇進行探索和研究了解其他民族的思維方法和文化根源,科學的理解國別文化差異,才能真正增進兩國人民的友誼和感情。日本特殊的地理環(huán)境也造就了日本特殊的文化特征,通過文化來看日本人的思想,比如飲食,茶道,甚至是語言,都可以看出日本人是一個集團主義強,注重個人修養(yǎng)等的國家.研究異國文化的意義,在于通過了解別的國家的文化,看其思想思維,知己知彼.取其精華, 取其精華去其糟粕.去正確的看待文化,看待歷史.從而我們可以通過研究中日兩國文化之間異同的比較,對日本這個國家能夠有一個更加深刻的了解。
關鍵詞
III 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
中日 文化異同 影響 深刻
IV 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
目次
要旨.........................................................I キーワード...................................................I 摘要.......................................................III 關鍵詞.....................................................III 目次.........................................................V はじめに.....................................................1 1.食事文化について..........................................2 1.1 食べ物への態(tài)度.................................................................................2 1.1.1 料理の食材...............................................................................3 1.1.2 調理法.......................................................................................4 1.2食事の道具.............................................................................................5 2 中國の茶文化と日本の茶道..................................7 2.1同質性と異質性.....................................................................................7 3.酒文化について...........................................8 3.1 中國酒と日本酒..................................................................................8 3.2 宴會で飲酒文化の相違.....................................................................9 4.風 俗...................................................12 4.1生活習慣...............................................................................................12 終わりに....................................................18 參考文獻....................................................20
V 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
感謝の言葉..................................................21
VI 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
はじめに
中國と日本とは、関係深い隣國であり、日本文化は中國文化より大いに影響を受けて、その影響はすでに日本社會の隅々にまで浸透していると言われる。たとえば、食生活の面において、豆腐を食べたり、お茶を飲んだりするようなことである。しかしながら、日本の食文化の中には、また日本特有な食物づくりの習慣が殘されている。それによって、日本式の食文化が作り上げられたのである。日本料理と中華料理の違いとは、一言でいうと、日本料理は総じて、あっさりしたものが主で、しかも食べ物の自然の風味や形などをできるだけ保とうとするところである。ところが中華料理は、材料の元の形を変えてしまうだけでなく、味も多様な調味料によって分からないようにわざと隠そうとすることが、ひとつの大きな特徴と言えよう。日中両國の食文化の違いは、おそらく地理的な環(huán)境や歴史的な條件などの違いから生じたものだと思われる。日本の中華料理、本番といっても、何か違う感じする。逆に中國の日本料理も何かおいしいと思う。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
1.食事文化について
1.1 食べ物への態(tài)度
中國の「美味追求」はあまりにも有名である。なかには文獻や話の上だけのものあるが、「熊の掌」、「ラクダのこぶ」、「蛭のスープ」と発想自體が飽くなき食願望の産物である。勿論、だれもがゲテモノを好むわけではないが、広州の蛇料理などは日本の鰻以上の市民権を持っていると言ってもよいであろう?!杆膜淖悚韦猡韦蠙C以外、飛ぶものは飛行機以外、水中のものは潛水艦以外なら何でも食べる」と言われるほど材料が多彩なこともさることながら、徹底的に凝った料理法も中國料理の特徴であろう。例えば、前記の「熊の掌」は熊の右手を粘土で包んで焼き、毛をむしる、そして三日三晩、薬草を加え湯を変えては煮上げる。日本料理も凝っていると言われるが、それはむしろ食べるより目で眺めて楽しむと言う蕓術品の世界ではないであろうか。そこにいくと中國料理はタップリ感いっぱいの御馳走なのである。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
1.1.1 料理の食材
中國の北方の主食は小麥やサトウキビを中心にしている。面食はマントウ、花巻など清蒸食品とユウティアオ、揚げソンピョンなどの揚げ物食品がある。南方の主食は米である、多く見えるのは細長い米である。また、正月にギョーザを食べる習慣がある。中國人が大晦日にギョーザを食べる原因は餃子形狀が金元寶の形である、人々は舊正月に餃子は財寶をもたらしいみを持つ。また、人々は各種の吉祥のものをギョウザに包んである、人々には新年の祈盼が寄託が見えるのであろう。食材を浪費しないことは中華料理の特徴である。食材にシレギが多いのも中國料理の特徴である。シレギに、山貨が包括したの種類が豊富で、生鮮食品とは違って、長期保存できるだけでなく、風味も悪くない。長期保存することができるため、季節(jié)の制限に受けないである、いつでも食べられている。筆者は日本と中國の水産品食材が全く違う主な理由は?風土によるものだと思う。勿論?中國にも海?島?湖、あるが、大陸が主な部分を占めている、そのため生ものを食べる環(huán)境ではない。古代中 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
國人は長い期間生魚?スシの類のものを食べていたが今日まで続かず?當然発展もしなかった。新鮮なものを食べられる自然環(huán)境ではないから?川?湖?海から獲れた魚介類は內陸地域に住む多くの人々にも食べられるように?魚類を乾燥して運ぶことが唯一の方法だった。
中國人は豚肉が特に好きである、豚肉を素材にした料理も多い。そしては冬に犬肉を食べことは健康にいいです。それ以外には、カモ、カエルや蛇にもなる食材を動物の內臓、血と軟骨も食材となれる。魚、エビ類中國人も好きです。特殊の食材として、アリ、ハエ、サソリの猴腦などである。なぜかというと、中國は多民族國家である。多種多様の生活習慣や地理環(huán)境でこの多種多様のものが食材にした。
日本人の食卓に欠かすことのできないものは米、大味噌汁と漬物だった。パンを食べている家庭も次第に増えている。日本人は海産物が好む、特に刺身(さしみ)だった。日本人も麺類が大好きである、ラーメンや蕎麥面などが含まれている。日本人は、大みそかや立春前夜に年越しそばを食べる。蕎麥が細く、壽命の延長と家の運縁起を象徴する。これは日本人の特有文化、新年への寄託である。中國の北の一部分の省においても麺食が好きであるが、これは自然環(huán)境の制限によると思う、日本の様に何かの象徴がないである。1.1.2 調理法
中國の地域が広がっていた。歴史は悠久なので、料理法の種類も豊富だ?;镜膜收{理法以外に、焼き?フン、蒸し、煎じる、氽、すすぎ、燴、烹などある。要するに、油濃いの料理が多く、そしてが使っているスパイスの種類も豊富だ。日本人が 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
知っていた唐辛子の外に茴香、八角、陳皮なども含まれている。日本は、天麩羅の以外に油濃い料理がない。日本料理に、五種の基本的な料理法で構成されている。加熱する必要がない、生食することも多かった。主要な調味料は醤油、お酒、醋、砂糖である。中國料理に対し、日本はその調理方法は単純だ。日本人の口で試食前には眼で食べた。日本料理の盛んでいることも重視しておる。色取りの組みも複雑である、日本料理の色の取り組みは季節(jié)と調和しておる。で、日本人が大好きの刺身を例として、赤色のマグロ、白色の鯛や綠の芥川黃色の菊などである。色だけではなく,すべての皿、グラス、茶碗なども精緻である。
中國人は主に強調するのは料理の味ある、これは中國人を重視しているのは実質である。日本人は外観を重視して、日本人は表面形式であるのであろう。
1.2食事の道具
食事するの食器に分けると、世界の食文化を指文化圏、ナイフとフォーク文化圏や箸文化圏の3つがある。指の文化圏では、主に東南アジアや中東、同じやアフリカ地域でもある、約44 %含まれ、範囲が最も広く。ナイフとフォーク文化圏とは、歐州や米國とロシアで約28 %を占める。箸文化圏では、中國、韓國、日本、ベトナム、タイ、シンガポールなど 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
で約28 %を占めている。中日両國はいずれも箸文化圏に屬するが、特色がある。中國のお箸端は平らであるが、日本のは尖っておる。中國人は、お箸と匙を一緒に使って、日本人は箸だけ使う。
中日両國はお箸を使うだが、そして日本のお箸は、中國から伝わってきた。その形や材質がいずれも違う。中國のお箸は長く、先端が丸く、箸身が変化ははっきりに見えない。材料は木と竹のほかにも、玉や象牙などが含まれている。中國人のお箸を使う長い。外國人は、中國の食文化と深い関係があると思う。中國の多くは揚げ物食品だ。昔に、中國人は一家の箸を見に貧富程度が判斷できるのだった。箸が長くなるほど、家産は更に富裕である、理由は簡単だ。大きな家に料理は多く、お箸は長くと、遠くの料理をたばられる。
日本のお箸は中國よりも短い。の前部に細くて尖っていて、材質が木や竹やある。まだが生漆だった。日本の大半が食べるにさいなまれてきた「定食」だった。すなわち「份兒飯」中國との共同に食事することでなく。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
中國の茶文化と日本の茶道
2.1同質性と異質性
中國茶も日本茶も同じツバキ科の茶葉から作られるが、製法が異なる。日本茶は茶葉を蒸すことで酸化を止めるが、中國茶は茶葉を炒る又は菱凋(茶葉を安置させて水分をゆっくり失わせ、葉を柔らかくして茶の香りを形成する過程)することで酸化(発酵)を止める。その結果一般的に中國茶は茶葉を見て楽しみ、香りと味を楽しむ事が出來る。一方日本茶は味を一番で楽しみ、次に香りを楽しむので順位が異なる。中國茶は日本茶と較べて特に香りが重視される。(1)同質性
陸羽『茶経』に「もし熱渇,疑悶、頭痛、目渋、手足の痛み、百節(jié)が伸びない時、茶を四、五口飲めば、醍醐(最高の乳製品)、甘露と抗衡(はりあ)うなり」とある。體を治し心を癒す飲み物が茶である。日本の茶の始祖栄西は「茶は養(yǎng)生の仙茶なり、延命の妙術なり」という有名な言葉で始まる『喫茶養(yǎng)生記』を著し、喫茶を長壽の薬として推奨した。(2)異質性
中國の茶文化は香りと味が大切で、いわゆる工夫茶はいかに手間をかけてお茶を美味しく飲むかが重要となる。一方日本の茶道は『もてなし』と『しつらい(飾り付け)』の美學だと言える。「亭主」は、まず露地という庭園を整え、茶室の中に,掛物や水指、茶碗、釜などを用意して、演出の準備をする。日本の風土が育ったんできた結晶がそこにある。そして「亭主」ち客の間に通う人間的なぬくもりがある。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
3.酒文化について
3.1 中國酒と日本酒
中國人は食べ物の味についてはあれほどうるさいにもかかわらず、酒の味についてはおおざっぱなのではないであろうか。中華料理の奧の深さに比べると中國の酒は種類も尐ないし製造法についての研究も行き屆いていない。參考までに中國の酒は大きくいって白酒と老酒に分かれる。色で分類するのはいかにも即物的ですが「白」は白色ではなく無色透明の意で蒸留酒のことである。有名なものには「マオタイ酒」(53度)をはじめ「五糧液」(60度)「汾酒」(50~60度)などが有名である。
黃酒は醸造酒でコハクいろからきた名前であろう。これは老酒とも言う。よく熟成したという意味から來たものであろう。なんといっても紹興酒(13~18度)が有名である。黃酒は地域的には長江以南が多いようである。しかし、その味については実に大ざっぱである。そこに行くと日本料理では「酒の肴」として魚をナマとか、塩焼きとか、煮て食べるとなると、味は淡白ですから肴の相棒をつとめる酒となるとどうしてもソフトな日本酒となる。それも甘口、辛口といった分け方のほかに、デリケートな味の違いのある地酒が色々とあるようである。酒の味わい 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
方はフランス料理に対するワインの関係と大変似ているのではないであろう。
3.2 宴會で飲酒文化の相違
出來ないと思われる。
日本人の場合は、どうもこれと正反対のようである。飲んでも羽目を外さない人は「腹を割って話合ってくれない」とか「つき合いが悪い」「薄気味悪い」などという理由で評価が下がるようである。そして醜態(tài)をさらした人間の方が何となく信頼出來ると評価されるようである。
第三のタブーは「宴會中國人は料理についてはグルメだとしても酒の味に関する限り日本人やフランス人の足元にも遠く及ばないのではないであろうか。味については今まで述べたとおりであるが、この酒の飲む禮儀が中國と日本では違う様である。中國の宴會には大きく言って三のタブーがある。第一のタブーは「マイペースで飲んではいけない」ということである。手酌などはご法度である。飲む場合には必ず誰かと乾杯をしなければならない。目と目を見交わせながら飲むのが中國流の宴會の基本である。日本人の乾杯は宴會の始まるときだけで、あとは皆自分勝手に飲むようである。ところが中國人は必ず誰かを誘って一緒に飲む。例えば、十二人でテーブルを囲んだ場合、その日のホストが杯をあげて「さあ、皆さん、今日は本當によくいらっしゃいました。乾杯」とやる?!盖工趣先毡救摔韦瑜Δ吮颏ⅳ菠七m量飲むことではなく、文字通り杯を乾かしてしまう事を言う。だから一滴も殘らないように全部乾かしてしまわなければならない。最も理想的なのは全員と乾杯するという方法である。自分の右隣の人から一人ずつ乾杯して全員と酌み交すことである。當然のことながら、全員が「人數(shù)分マイナス1」の回數(shù)だけ乾杯 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
することになる。なるべく全員が同量の酒を飲むと言うのが中國流の宴會の重要な作法である。しかし、こうやって酒を酌み交わしていても、絶対にやってはいけないことがある。それが第二のタブー「絶対に酔っ払ってはいけません」である。
中國人の宴會では、とにかくありとあらゆる口実を使って酒を飲まされる。しかし、どれだけ酒を飲まされても酔った様子を表に出してはならない。宴會が終わるまでシャンとしてはならない。すなわち、たとえ酒の場であっても絶対に緊張をくずさず、最後まで崩れない人こそが、中國の社會では尊敬されるのである。だから、うっかり気を緩めて泥酔でもしようものなら二度と宴會に呼ばれないようなる。日本人からすれば信じられないことかもしれないが、宴會の場に於いて酔うような人間は信頼でまじめな話をしてはならない」ということである。特に政治向きの話などはもってのほかである。同じようなことは歐米のパーティーでも言われるようであるが、中國の場合とかなりニュアンスが違う。歐米の場合は思想信條が違う人がいると議論になってしまい、白けるから政治の話や宗教の話はしない方が良いという意味のようである。だが中國の場合、もし政治批判の話が飛び出した場合、それを聞かれた方は窮地に陥ってしまう。中國人は言質を取られるのを極端に怖れる。他人から攻撃されたとき、言質を取られていると逃げ道がなくなるからである。だから中國人はなるべく面倒なことになりそうな話は避けたがる。ところが宴會の場で、酔った勢いで政治批判の発言をした人間は勿論弱みを握られるわけであるが、それを黙って聞いていたと言うのも同罪と見なされるのが中國社會の常識なのである。黙っているのは賛成の証拠だろうと言われるからである。かと言って反論を仕掛けるのもおろかしいことで反論をすればその発音によってまた言質を取られることになる。だから宴會の席に置いては絶対に政治の話をしてはいけないのである。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
小聲で隣りの人と話をするのは何にか企みごとをしているのではないかと疑われるし、無禮なことだと思われる。馬鹿話を大きな聲でしなければならない。
日本人からすればこんな宴會のどこが楽しいのかと思うであろう。中國人だって楽しくて飲んでいるのではない。宴會とは娯楽ではなく自分がいかにしっかりした立派な人間であるかを証明するための、ある意味に於いては「戦の場」なのである。だから絶対に酔ってはならない、我慢競爭に勝ち続けることが、中國社會では尊敬される條件なのである。つまり中國人にとっての宴會とは、もう一つのビジネスなのである。來る日も來る日もパーティーに出つづけ、そこで酔いを見せることなく帰ることによって、他人の信頼を勝ち得ていく。これが中國社會の付き合い方なのである。何度も同じ人に宴會で會いその人物が酔わずにしかもいつもたわいのない話をしている姿を見て「なるはど、この人は一緒に仕事をしても安心だ」と判斷するのである。だから中國人の社會において宴會に呼ばれなくなるというのは社會的な死を意味することである。あいつは羽目を外す、だらしのない奴だという烙印が押されると言うことなのである。まとめてみると、中國人の酒文化は日本人のように日本料理を楽しむ或いは引き立てるために飲むものではなく、宴會を通じて自分を信頼させるために飲むものである。中國料理を楽しむ或いは生かすためのものではないという事なのである。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
4.風 俗
4.1生活習慣
中國人と日本人は顔つきもあまり変わらないし、漢字を共有してもいます。日本の文化は中國から多くのものを得てきています。それだけにお互いに中身も簡単にわかるように思いますが、そうはいかない。とくに表にあらわれない中身や意識や考え方など、日本と中國の間にはかなりの違いがあるようです。風俗習慣でも形は同じだが、中身は違うというものが多い。例えば、十二支は中國から渡って來たもので、動物に結びつけるのも十二支と同じです。だが、違うのが一つあります。豬年は日本ではイノシシ年だが、同じ「豬」でも中國の「豬」は「ブタ」、つまり「ブタ」年という意味です。
日本で女性に「あなたはブタ年ですね」などと言ったら怒られるが、逆にイノシシは中國では「野豬」の意味です?!袱ⅳ胜郡弦柏i年ですね」と言ったら失禮と思われるでしょう。中國人は日本人もお正月には餃子を食べるのだろうと思っています。また日本人の「おじぎ」をする習慣も珍しい。
言うまでもありませんがマナーは形だけでなく心の問題です。それだけに目に見えない微妙なものがあります。日本ではレストランなどで勘定書をテーブ 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
ルの上に必ず裏返して置く、これは「さり気なく請求することであり、またお金を払う人以外に金額がわからないように配慮する」という事だそうですが、どうしてわかってはいけないのでしょうか。中國では親しい人と飲食したときなど、おごられた方が「いくらでした」と聞くのはいっこうにさしつかえない。そして「安かったですね」という。それはお金の使い方が上手であると言うほめ言葉なのです?!父撙盲郡扦工汀工扦蟼幎韦吮趣伽啤ⅳ蓼氦盲郡趣いκ陇摔胜盲皮筏蓼い蓼?。
日本人の「ワリカン」の習慣が中國にはありません。私は日本に來て最初に年上の同僚から「ご飯を食べに行きませんか」と開かれたので、當然その人が御馳走してくれるのだと思い喜んでついていきました、しかし、食事が終わったら「あなたはいくらですよ」と言われてビックリしました。自分の分は自分で払うのだそうです。そんなことなら一人で自分の食べたいものを食べるんだったと腹が立ちました。中國には「ワリカン」と言う習慣はありません。目上、年長者、上司が勘定を持ち又同じ仲間であってもその日誘った人が払うというのが普通です。
「すみません」に対する中國語は「対不起」(トイフチ)と言いますが、これがどうも分かりにくいのです。日本ではすぐ「すみません」と言います。道を聞くときに「すみません」。これはまあ相手の足を止めさせて申し訳ないという気持ちの表れとしてまあよしとしますか。レストランでの「すみませんお水を下さい」もお手數(shù)をかけるのであるからわからないでもない。しかし「すみません勘定 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
して下さい」は変です。御馳走して貰うならすみませんでしょうが、代金を払うのになぜ謝る必要があるのでしょうか。
などというのは野暮な話のようですね。今の日本語の「すみません」は陳謝語と言うより呼びかけ謙譲語と言ったほうがいいようです。ところが自動車接觸事故を起こした場合などは「すみません」と言わないほうがいいと教えて貰いました。謙譲語のつもりで言ってもこちらの非を認めたことになり、示談の時に條件が不利になるのだそうです。味気ない話ですが、これが社會の現(xiàn)実でしょう。
さらに「すみません」には政治上の大きな問題があるとして戦爭関係のことで時々新聞紙上をにぎわしているようです、犠牲を與えた相手に対して明確な謝辭の「すみません」ではなく「遺憾であった」等です。
このように日本人の「すみません」には「謝罪」と「呼びかけ」の二つの意味があるようです。一方、中國の「対不起」ですが、「対不起」には呼びかけ語としての役割はありません。中國のサービスについては問題がありますが、サービス部門であまり「対不起」が聞かれないのは、それを口にすると責任を追及される事を恐れるからだという説もあります。また文化大革命の後遺癥も尐しはあるでしょうが、実際は社會主義的市場経済がまだまだ未成熟なのではないでしょうか。しかし、実際に悪いと思ったときは素直に「対不起」と言います。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
贈り物などのとき、日本では奇數(shù)をよしとするようですが、中國では全て偶數(shù)を喜びます。これは対になっていることを好む習慣とも関連があるのかもしれません。北京の故宮博物院は建物が整然とした左右対象に配置されています。対になっていないと安定感が得られないと中國人は考えます。偶數(shù)好みは、その延長線にあると思われます。酒の贈り物も一本ではなく二本であることが望ましいのです。結婚祝いのジャーなどを一つしか贈らなかったら常識を疑われるか、わざと嫌がらせをしたとしか思われません。二個が常識なのです。招待されてつぎに會ったとき、日本人は「先日はどうも御馳走さまでした」と言います。これが日本の常識のようです。しかし、中國人はあまりこれをやりません。招待を受けたときに感謝の言葉はすでに述べており、日を変えてそれをまた繰り返すのは、「また御馳走をして下さい」と言う謎をかけたことになるからです。手土産の習慣は中國にもあります。日本人は「手ぶらでは悪いから」と何か持って行くことが多いようですが、中國人の場合はそんな曖昧なプレゼントはしません。感謝とか依願とか目的が明確な場合に手土産を持って行きます。
4.2義理人情
中國人はお金に敏感な國民だとよく言われます。まず第一に、節(jié)約をし無駄なお金は絶対に使わない。長い歴史のなかでお金しか頼りにならないことが身に染みて判っているからです。ですから、貯金率は非常に高い、貯金とは毎月の収入の中から使い殘したお金を殘しておくといったノンキなことではありません。使いたいお金を我慢して優(yōu)先的に殘しておくことです。またお金の使い方についても大変厳しく節(jié)約できそうなお金は一切使わないし、使わなければならない場合でも安くすませる方法はないかと智恵をしぼります。ですから、買い物に行っても必ず値切ります。中國人は人前でも平気でお金の話しをします。それが日本人と一番違うところでしょう。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
この違いはお金に対する中國人と日本人の哲學の違いから生じたものではないでしょうか。お金が必要なことは子供でも知っています。だからお金の話しをすることは恥ずかしいことでも何でもなく、お金がないからといって人に隠すことはないと中國人は思っています。しかし、どうも日本人はお金を「必要悪」の一つとしてとらえており、お金のことを口にすることも、ましてお金がないことを口にするのは恥ずかしいことだと思い込んでいるようです。
昔から日本の支配階級であった「サムライ」たちは一般的に経済知識に乏しく、いつも貧乏していたようです。それでも人の上に立つ以上物乞いしたり、お金が欲しいと口に出しては言えないそういった気風が、日本人全體の気風となって上から下までお金のことは口にしないようになったのではないでしょうか。ではなぜこれほど経済観念の発達した中國人が義理人情を大切にするのでしょうか。それは中國人と比べて一番違うところは中國人の行動原理が利己主義(家族を含めた)ものを中心としているに対して、日本人はグループの利益もしくは公益を優(yōu)先させているためではないでしょうか。とくに戦後の日本で法人優(yōu)遇の稅制が導入され個人で店を経営したり個人で財産を所有しているよりも會社で経営した方が有利ということになれば小さな商店も會社に変わり、會社が儲けたお金も資産として大半が會社に蓄えられるようなシステムが日本人は社會を一つのユニットとしてチームワークをとり、そしてそれを強くさせる事に成功したのでしょう。そして會社という組織が普通化すると日本人は社會をトリデとして社會生活を営むようになり、お金の流れも交際費の支払も文化活動のスポンサーも全部會社中心に変わってしまい、サラリーマンは會社に忠誠を誓い公益もしくは団體の利益を優(yōu)先させなければ生きて行くことができなくなったのではないでしょうか。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
これに対して中國人は結局あてにできるのは家族の延長線上にある人間関係が一番であると考えます。ただ社會を乗り切ることはできません。だから自分らを守るためには各方面にネットワークを築いておく必要があります。
子供たちの結婚を通じて姻戚関係をつくるのもその一つだし、官界で派閥に加盟するのもその一つです?!感浃工旰悉Δ馑慰F」と言われますが、中國人が一番大切にするのはそうした「人縁」です。友達に紹介されて知り合いになったばかりの人でも中國人は大切にします。友人の紹介狀を持って訪ねてきた。人に初対面でも下にもおかぬ扱いをした上に御馳走までしてくれると言う例も尐なくありません。これは紹介狀を持參した人を大事に扱うのは紹介狀を書いた人に対する禮儀であって、紹介狀を持參した人を最初から尊重している訳ではありません。
中國人は人間関係を最も重要視します。ですから、自分が親しくしている人からの紹介であれば真っ先に考えることはその友人の顔を立てることです。そうした丁寧な扱いを受けた人が帰って「本當に親切していただきました、とても助かりました」とお禮を言ってくれればその友人もこちらに対して色々と面倒を見てくれるようになり、その絆がますます大きくなる、そしてそうやって新しくできた友人も勿論大切にします、そうゆう新しい人間関係をつくることを非常に大切に思っています。
この厳しい社會にあって一番頼りになるのは血のつながりのある家族だし次が味方になってくれる友人です。本當の友人なんてそんなに沢山いるものではありませんから、縁あって友人になってくれた人を中國人はことのほか大切にします。こういう面の中國人の禮儀正しさと利害をこえた親切さは、グループ主義の日本人には一寸とわからないところでしょう。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
終わりに
今まで文化について中日の差を見て來た。そして同じような文化でありながらその內容はかなり違うのだと言う事も判斷できた。日本と中國は末長く仲良く付き合っていかなければならない隣り同士である。そして仲良く付き合って行くためには二つの側面があると思う。一つは共通點を見出すことである。それによって親近感が生まれる。もう一つは相違點を知る事だと思う。それによって理解が生まれ、認め合う前提となる。共通點は見出しやすいのですが、違いを知って理解をすると言うことはなかなか難しいことだと思う。この相互理解を深めるためには、まず今まで述べたように尐なからぬ誤解があることに気づく必要があるのではないであろうか。目や肌の色のちがっている者同士だったら、はじめから違うという認識があるからかえっていいのではないであろうか。ところが同じような顔で、同じ漢字文化圏でお互いに、分かっていたようなつもりになっているところに問題があるのではないであろうか。日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站 日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
參考文獻
1.譚玲著.『飲食文化対比』[M].成都:四川大學出版社, 2001.5-20 2.胡智鋒.『日中飲食発展史』[J].北京.北京廣播學院出版社,1999,4:1-10 3.張惠臨著.『日本と中國の食文化』社,2006.36-39
山西: [M].山西人民美術出版日本語社區(qū) www.nihonngo.net 日語畢業(yè)論文免費下載網站
感謝の言葉
この度、卒論執(zhí)筆に當たって、先生は論文の添削指導までなさってくださいました。先生が助けて下さらなければ、私は完成することができないだろうと存じます。ここで、先生のご苦労に対して、心から感謝の気持ちを表したいと思います。
いつの間にか、大學の時間がなくなりました。また、今年六月末に、卒業(yè)することになります。大學に入ってから、先生のおかげで、私の日本語の能力はだんだん上手になりました。ここに謝意を表します。この論文の作成に當たり、始終不変な禮儀のご指導,ご鞭撻を賜った指導先生、大學の日本語科の先生に対して衷心より感謝の意を表します。この論文の遂行に際して、いろいろな助言と激勵及びご配慮頂いた先生に厚くお禮を申し上げます。
一言で言えば、ここに先生への感謝の意を表します。
第四篇:日本語における曖昧表現(xiàn)についての研究_日語畢業(yè)論文
吉林大學公共外國語教育學院
畢業(yè)論文
(2009級)
日本における曖昧表現(xiàn)についての研究
日語中暖昧語的研究
姓
名:馮子義 專
業(yè):應用日語 二〇一〇年十月
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日文摘要
曖昧語の特色は、婉曲であり、含蓄があり、人々に愉快的、優(yōu)しい人間関係を持つので、日本人は大好きだ。環(huán)境の影響から、日本は個島國で、それは明らかに大陸教養(yǎng)ある言語の特徴と違って、明らかな差別があって、単一の民族、単一の言語。これに獨特である言語環(huán)境には、日本人に言語方面を交流することを考えることによって恵まれた好都合があって、互いの間に率直に言いたくなくて、ただあいまいな婉の回った言葉がすぐ真髄を味得したことをとる。大陸文化の影響から、日本文化は儒家の考えた影響が深さを受けて、貴とすることと”、“禮は正義でありへりくだる”は日本人の処世として考えて、今日に依然として重點的に求めた作用を発揮する。關鍵詞
婉曲 人間関係 貴とすることと 禮は正義 中文摘要
曖昧語的特色婉轉,因為其具有暗示性,能給人們帶來愉快的、和善的人際關系,因此日本人非常喜歡。日本人很熱衷于不明確的表示態(tài)度,以及使用比較曖昧的表達方式。他們總是回避問題的實質,用這樣的方法來避免矛盾的激化。從環(huán)境的影響看日本是個島國,它有著明顯區(qū)別于大陸文化的語言的特征,有著明顯的差別,單一的民族、單一的語言。從大陸文化的影響看,日本文化受儒家思想的影響很深,“和為貴”、“禮義謙讓”作為日本人的處世思想,在今天依舊發(fā)揮著重要的作用。關鍵詞
婉轉 人際關系 和為貴 禮義謙讓
目錄
第一章
開始···································3 第二章
日常對話的曖昧表現(xiàn)·····················3 第三章
分析日本人用曖昧語的原因···············4 第四章
第五章
曖昧與態(tài)度·····························6 總結···································7 主要參考文獻···························8 2
日本人は曖昧な言語を喜ぶから、食い違いを隠すには、問題の実質を回避して、衝突に矛盾の激化を避ける。曖昧語は日本文化中の最も重要な特點の一つで、日本社會のいろいろな特徴を発見すべきである。本文は日本語を持って背景として、言語のこの鏡によって、日常生活中のあいまいな表現(xiàn)を描寫し、さらにあいまい語を生じる原因を分析する。従って、日本の伝統(tǒng)文化を尊重し、日本人は含蓄で、「和を以って尊重する」の性格の理解する。
一、はじめに
芳賀は「日常言語では、語て他の語の意味の境界,けじめがはっきりしなかったり、一つの語の意味內容が確定しにくかったり、あいまいである。」という。(1996.1)これは曖昧語の定義であろう。日本人はよく曖昧語を使っている。曖昧性は日本本言語の重要な特徴だけでなく、日本人の伝統(tǒng)生活の態(tài)度を反映する。同時に日本民族の文化個性および生活倫理も反映する。
曖昧語の特色は、婉曲であり、含蓄があり、人々に愉快的、優(yōu)しい人間関係を持つので、日本人は大好きだ。しかし、多くの外國人は理解できない。実は、世界的範囲から見えば、中國語でも、英語でも、曖昧な表現(xiàn)のない言語はどこにも存在しないように思うが、ただ日本人は特に曖昧語を喜ぶ。
どうして日本人はそんなに曖昧語が好きなのか、ここでは日本人が普段何気なく使っている言葉を例に日本人の曖昧さを捉えていく。
二、日常會話の曖昧の表現(xiàn) 1.挨拶の類
日本人が町で知人と出會いの時は、常に公式化したあいまいのあいさつの語を使用する。たとえば、A:こんにちは。おでかけですか。
B:こんにちは、ちょっとそこまで。
A:そうですか、気をつけて。
B:どうも。
その會話での表した「ちょっとそこまで」中の「そこまで」はいったいどこかわからない。答え者のBははっきりと言わない。それと同じように尋ねるAの人は実際にBの人がどこへ行くことか質問せずに、同様に相手もどこかが行くことがさっぱりわからない。答え者のBも一體どこへ行くかと返答しない。しかも日本人は相手「どちらへお出かけですか」と質問しているのは、決して相手の行き先が知りたいわけではない。ただ知人の間の挨拶する。答え者のBは直ちに心で悟る「ちょっとそこまで」に回答する。こちらの「ちょっとそこまで」、実は「ご心配なく」の同
義語であろう。相手に自分で行くの具體的場所を告げることがない。したがって、問い者は相手が具體的にどこへ行くかが質問しなく、ただ関心することを示して、こちらが當然で根掘り葉掘り聞いたのではなくて、直ちに「そうですか、お気をつけて」と答える。そのあいさつの仕方は歐米の人にふさわしくない?;イ酥椁胜と摔耸褂盲工欷?、相手を怒らせることがかもしれない。歐米の人は個人が「どこへ行くか」というのは完全に私的自由で、問い詰めることは相手を干渉して道理がない行為であろう。各國の歴史と文化背景が違うからそれぞれの民族の間、形成された心理黙契の程度あるいは思惟の方式も違う。
2.多義語の類
日本人はよく「どうも」を使っている。たとえば、「どうもだめな」、「先日はどうも」、「先ほどはどうも」、「どうもありがとう」、「どうもすみません」、「これはどうも」、「どうも、どうも面倒をおかけしました」などあげればきりない?!袱嗓Δ狻工摔膜い普{べていると、「どうしても」、「いかにすれでも」、「まったく」の三つの意味がある。つまり、仕方がない、どうしてよいかわからない、なすすべがないといったの意味がある。
多義語であるがゆえに、日本人特有な語感、つまり、さまざまな意味をひとつの語句で表現(xiàn)したがために、外國人には曖昧だという印象を與えてしまったのであろう。こんな言葉や表現(xiàn)が日本語に數(shù)多く存在している。たとえば、「くやしい」という言葉には、「試合に負けて悔しい」、「彼はやりたい事はやった?;冥筏に坤扦悉胜ぁ工胜嗓卫ⅳ?。あるいは、「しかたがない」という日本語には、「女だから仕方がないんじゃないのといってあきらめてしまう場合もある」「選挙に負けたのだから、文句をいってもしかたがない」「娘がかわいくてしかたがない」などである。
日本語には類似の表現(xiàn)は多いので、あげればきりがない。日本人特有な語感は外國人たちにとって、非常に難しく理解と考えている。
なぜ日本人はそんなに曖昧な言語を好むのだろうか。これから具體的な原因を述べたいと思う。
三、日本人の曖昧さの原因を分析
1.「以心伝心」の交流方式
「以心伝心」の意味は「思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること」(広辭苑による)あるいは、言葉や文字を使わないで心から悟った內容を伝えることであろう。日本人は日常生活で、一般的に言うことは曖昧だという印象を與えている。はっきりしなく、含み、婉曲で、これは事実であろう。日本人と話し合うす
る時に、言葉の中にあらわしていない一部分を理解し、既に、心寫真宣「以心伝心」のあの一部分の意味であろう。ときどきに、確かに人に推測し判斷し難くする。多義語を広範な使用を見つけることができる。
日本人は明確に態(tài)度を表明せずに、あいまいであることを喜び、?!─?、食い違いを隠すには、問題の実質を回避して、衝突に矛盾の激化を避ける。だが、言語文字そのものはあいまいで、含み、絶対的に日本の固有のものではない。少しの日本と外國の學者が特に日本を強調するこのあいまいさとロジックに合わない性と、実は、この現(xiàn)象は中國人と他の外國人の言語生活中にも少なくない。ただ日本語はもっと目立つことであろう。
私の考えでは、日本人のあいまいな特徴は日本人が単一の民族から構成した農耕型島國であると関係がある.実は、あいまいであることは、ただ外國人の立場から見るとあいまいさがある。日本人はたくさんのものは前もってすでに文化圏內の常識になるから、何にも話しなくで、すぐわかることができる.しかし、外國人と付き合う時に、彼らは外國人と「以心伝心」を完成しにくいと見つける。それで、多くの人が外國人と付き合いたがらない。どんな事でも全部はっきり話して、白と黒を分けるということは日本人にとって、苦しくと感じている.しかし、現(xiàn)在は経済上で外國と離れられない。だから彼らは外國人と付き合うためにいろいろな努力をしているそうである.2.直接的に「いいえ」を話さない民族
日本の公衆(zhòng)のところでは常に耳にするのは「遠慮」という言葉である。たとえば、「電車中に攜帯電話の使用を、ご遠慮ください」の布告。この語の第一の意味は中國語と同じように、「じっくりと考える」の意味もあるが、ただこちらにかえって「電車のなかで攜帯電話を使用しない」と理解することが當然だ。日本人は「遠慮」こんな婉曲勧告の型の話しぶりを用いることを喜ぶのに対して、他の言語中に強烈であり直接的話しぶりを用いる表した文型である。こんなにはっきりしない文型はただ恐らく日本人にしか適合しないであろう。
たとえば、中國の公衆(zhòng)場所ではこういう布告がはっきりと書いてある:「空港內に禁煙する」、「痰を吐くことを厳禁する」、「博物館內に撮影することを禁止する」。しかし、日本人が「空港內に喫煙をご遠慮ください」」という言い方に換えて、「痰を吐くのをご遠慮ください」、「博物館內に撮影をご遠慮ください」。しかし、中國人はこれを「喫煙できるが、避けたほうがいい」などと誤解しまう。
「いいえ」を話さなくて、人に直接に拒絶しないで、それで相手に対する傷害を避けられる。だが、直接に拒絶しないとは絶対に拒絶しないというわけではない。それは巧みで丁寧な言い方だから、相手に困らせないと思うわけである。これはいわゆる日本人の特有の特技と物事を処理する技巧で、同様に彼らの集団意識の一種の
屈折した表現(xiàn)である.3.「和を以って尊重する」の性格
日本人の価値観といえば、もっとも顕著なものは「和を以って尊重する」というものだと思う。この日本人の座右の銘が、日本人社會に同質性と集団性を特徴つけたと思われる。集団の中では、日本人は何よりも「和」を重んじているので、周囲の人や、話の相手に傷つけたり、困らせたり、恥をかかせたりなどといった言語行動を極力避けているのである。この行為を美徳としている日本人の中で、「爭わない」、「遠慮する」ことが多い。この「和」は帰納して二點がある:第一は、大和民族の重んじるのは団結することである;第二は、外國文化を十分に吸収し、調和する.日本人は二個の方面で他人の羨望を集めるほど成就を取得する。日本史上の第一部の憲法-「十七條の憲法」中の第一條は、中國論語の中から「和をもって尊重する」を取ったという.これを見たら、日本人は非常に「和」を重視するのがわかった。これは日本人の神通力を持つ寶器であろう。四、曖昧語の態(tài)度について
1.外國人の態(tài)度
よく「日本語はとても曖昧である」という批判を耳にする。これは、日本人社會のみならず、世界にも、もはや定著した見方のように思われる。日本人の行為と態(tài)度のあいまいさは誰でも知っている。この言語、行為と態(tài)度上のあいまいさは時々外國人の不理解を受け取る。日本人の態(tài)度をつかみにくいと感じている.例えば:日本人ははっきり自分の想念を主張しないで、同様に「イエス、ノ」も明確に切り出すことができなく、それで國際時代のものと呼ばれている今日、國と國の間で、人と人が交流が発展しつつあり、多くの外國留學生は日本へ行って日本語を勉強し、直接的に日本人と觸れる機會に多くなっている。しかし、仮に非常に日本語を身につけても外國人にとっては日本語の言語の習慣が深く理解できないが、まっすぐに言い表すことをとって、雙方が良く交流不能なことの情況が常に引き起す。特に日本語中のあいまい語は私たちにとって理解することが難しい。[あいまい]の意味は「はっきりしなく、曖昧な」、言い表したいと考える事情を直接に言わないで婉曲で言い表し、相手に推測させ、意味を推察させる。これはよく日本語の表す習慣と日本文化を深く理解できない外國人を戸惑わせることになって、誤解することを引き起こすことに至る。2.日本文化を尊重する
つまり、日本人の曖昧さの原因も二點がある:
一、人の感情を傷つけたくないということ?!赶婴铯欷毪韦驑O度に恐れているので感情をあまり出せない」たとえば、「以心伝心」の交流の方式と「いいえ」を話さない性格。
二、良い人間関係を築きたいということ?!溉摔戎伽瑜碎g関係を形成する」。これは「和」を保つこと
を希望するのである。たとえば、「和を以って尊重する」という性格である。
日本語は曖昧だとよく批判されていると思うが、その理由もわかるわけである。しかし、これは日本語の文化の一部だけで、長い間の人間の交流の成果である。あいまいさは日本語言語文化の著しい特點の一つである。それは日本人の伝統(tǒng)的な生き方を反映するばかりでなく、同様に全體日本民族の文化の生活倫理を反映している.日本語のあいまいな表現(xiàn)形式上の多様さは、內容は充実する.屈折して回って、人に愉快な社會環(huán)境を調和した人脈ができ、日本人は非常に喜ぶ。日本の獨特な社會環(huán)境と生活條件はこの獨特な言語文化を創(chuàng)造したのである.それで、日本人の曖昧さを尊重しなければならない。
五、おわりに
日本人が話すときに相手の心理を非常に重視し、換言すれば充分に相手の気持ちを考慮していて、できるだけ相手を傷かないように、再三措辭を練てから、また言い表し出す。曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理解しなければいけないと思う。
私たちは日本語科の學生としてこの言語のあいまいさを把握するべきだ。それはすでに日本語その言語の性格を反映し、日本社會文化の一種の體現(xiàn)であろう。それを分析する時、私たちは日本語をいっそうよく認識性ばかりでなく、同時にまだ日本文化のいろいろな特徴を発見すべきである。しかし、私は知識が淺いので、本文はまだ表層の現(xiàn)象しか分析できない。これからもっとこの問題を研究していきたいと思う。
參考文獻:
1、李兆忠 曖昧的日本人 金城出版社 2005
2、徐昌華 語用、認知與日語學習北京大學出版社 2006
3、林樺 剎那櫻花——一個中國白領的日本印象 中信出版社 2007
4、魯思.本尼迪克特 菊花與刀 九洲出版社 2005
5、大江健三郎 我在曖昧的日本 南海出版社 2005
6、加藤周一 夕陽妄語 朝日新聞社 2004
7、真田信治 日本社會語言學 中國書籍出版社
8、張丹宇 日本人的曖昧表現(xiàn)及其心理 日語知識 2002
第五篇:企業(yè)的所有者(會社の所有について)----日語小論文范例
會社の所有について
名前:
學籍番號:
キーワード:會社の所有、社會、社會産物、株主、従業(yè)員
要旨:経済の発展とともに、會社は今経済発展の主役として不可欠である。しかし、會社は一體だれのものか、株主のものか、従業(yè)員のものか、あるいは會社のものか。こういう問題について、この文章は歴史的な原因から現(xiàn)代的な視點にかけて述べる。
最近、「會社は誰のものか」という問題をめぐって、さまざまな議論を出てくる。総じていえば、會社における支配問題は、「経営者支配論」とこれに対する「所有者支配論」との論爭として展開されてきた。普通にはこの問題に対して、「株主のである」、「従業(yè)員のものである」、「社會のものである」という三つの考えが出てくる[1]。
この三つの考えに対して、それぞれ説得できる點があるが、より現(xiàn)実的な視點から見ると、企業(yè)はどうやって生まれたか、企業(yè)の目的は何か、また現(xiàn)在企業(yè)目的を遂行するための具體的な経営活動を視実に擔當している経営者をいかに把握するか、この三つの點から考えなければならない。この三つの視點をよく比較すると、「社會のものである」という観點が最も説得だと思う。なぜかというと、以下の理由から説明させていただきたい。
まず、會社というのは、今世界中の企業(yè)とも呼ばれているものである。しかしながら、企業(yè)はもともと世界での産物ではなくて、人類文明を発展するとともに生まれたものである。人々の暮らしは、昔からすべて自給自足であった。生活に必要なものはすべて自分で採集して自分で加工してモノを作って、食糧や生活の道具とした。もし自分で作られたもので余裕があれば、ほかの人と自分がほしいものを交換した。こうして物々交換経済が始まって、様々なモノが流通してから貨幣が生まれ、売買を始めてきた。経済の主な客體は「商品」である。社會の発展するとともに、商品の種類は豊かになってきて、人が集まっていて取り引く場所(市場)も形成し、大量生産?大量販売にいい條件を提供された。こうして、大量生産?大量販売する人を豪商と呼ばれ、この豪商はやがて時間を経て現(xiàn)代の「企業(yè)(會社)」になっていく。つまり、こういう社會條件がなければ、會社というのも形成できないわけだ。したがって、會社と人類社會進歩に密接する関係と認識され、言い換えると、會社というのは社會進歩の産物である。
會社の歴史的な由來とわかった以上は、會社に対する最も重要な依存物は社會人と市場である。こうすると、株主と従業(yè)員がいても、買い手がなれば、商品が売れなくなって、會社も倒産になるでしょう。社會産物に屬している市場の面から見ると、買い手がいても、取引場所がなれば、販売も成立できないわけだ。ほとんどの企業(yè)は営利的な目的と確立したものとあって、利益はなかったら企業(yè)も生きられない。非営利的な企業(yè)も人々の福祉とか、救済とか、こういう目的に存在しているからこそ、社會が存在しなかったら、こんな企業(yè)も生きられないでしょう。企業(yè)體が必要としているのは、中央と各部門に対してともに純固たる経営職能と権利を與える原理だとしている。一方、この原理としている分権制の展開は必ず、その中に単一的な市民意志を必要とする。つまり、市民意志がなければ、企業(yè)は生きられがたいとわかる。
日本では、「會社は従業(yè)員のものである」という考えを持っている人が多いが、しかしながら、少數(shù)のリーダー(株主)を除いて、多數(shù)の従業(yè)員人たちは企業(yè)の方策に決定権が持っていない、つまり、企業(yè)の営業(yè)方向を把握できない狀態(tài)である。だから、こういう考えも厳重な欠點がある。
しかしながら、「會社は株主のもの」という考えは説得でしょうか。確かに、株主は會社の決定権利が持っているが、決定は現(xiàn)実の社會に通じるかどうか、これは一番大事なことである。石油、鋼鉄、銀行などの企業(yè)は國の命脈のような大切である。しかし、このような企業(yè)は完全に私的な企業(yè)ではない。銀行を例として、獨占禁止法は、1953年の大改訂までは、銀行そのほかの金融機関の持株を相手の企業(yè)ごとに5%以下に制限されたから、銀行の持株に基づく支配力はまだ目立つものではなかった。このような狀況から経営者支配は所有者支配に代って拡大し、これによって、會社は社會的性格を強めてゆくものとわかる。また、高度成長の15年を経った1970年において、大企業(yè)株式の所有構造では個人と會社は所有に比べると、前者は30%臺に減少し、後者は60%臺に増大した。このことはバーリ?ミーンスツによって、後退的と見された。つまり、「少數(shù)者支配」および、「複數(shù)者支配」の問題を日程にのせた。効用問題に対して、宮崎義「寡占」(1972年)、同上「現(xiàn)代の日本企業(yè)を考える」(1974年)は「會社による所有と支配」を行う生身の人間たる経営者は、會社という支配的所有者の代理人であり、支配的経営(あるいはその集団)は所有者支配の執(zhí)行者にすぎないことになる。
今、世界中の會社からみると、株主も従業(yè)員も會社にとって重要なパートだが、最も重要的核心的なものといえない。なぜかとういうと、「経営」と「支配」は本質的な違いがあるからだ。今の世界は買い手、市場、株主、従業(yè)員が全部存在している世界だが、誰でも企業(yè)の支配権を持っていなくて、人民を持っている。したがって、國のリーダーは、一人ではなく、民衆(zhòng)意向に最も合意する政策をつくらないわけにはいかない。こういう民衆(zhòng)意向は人類文明のシンプルの一つで、社會進歩の産物である。そうして、會社の経営は國の方針に基づいて、社會に支配されている。それらの理由によって、「會社は社會のものである」とはっきり認められるでしょう。
腳注:
[1] ほかに、會社は「取締役のものである」、「取引先のものである」という考えがある。(築山公認會計士事務所 トップページによる)