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      西安旅游名跡日語(yǔ)導(dǎo)游詞

      時(shí)間:2019-05-13 13:14:14下載本文作者:會(huì)員上傳
      簡(jiǎn)介:寫(xiě)寫(xiě)幫文庫(kù)小編為你整理了多篇相關(guān)的《西安旅游名跡日語(yǔ)導(dǎo)游詞》,但愿對(duì)你工作學(xué)習(xí)有幫助,當(dāng)然你在寫(xiě)寫(xiě)幫文庫(kù)還可以找到更多《西安旅游名跡日語(yǔ)導(dǎo)游詞》。

      第一篇:西安旅游名跡日語(yǔ)導(dǎo)游詞

      西安碑林博物館

      西安碑林博物館は西安の南城門(mén)の東にある三學(xué)街にあります。碑林とは石碑が林のように立ち並んでいることから、名づけられたそうです。西安碑林博物館は唐には太學(xué)でしたが、宋の時(shí)代に西安の孔子廟として建てられました。1950年に陝西省歴史博物館として増築されましたが、新しい陝西歴史博物館の開(kāi)設(shè)とともに、出土文物がそちらへ移されたために、現(xiàn)在、ここは完全に石碑の博物館となりました。碑林博物館は敷き面積が三萬(wàn)平方メートルあまりで、陳列內(nèi)容が西安碑林と石刻蕓術(shù)の二つの部分に分けられています。展示されている作品は三千點(diǎn)もあるそうです。中國(guó)の伝統(tǒng)的な習(xí)慣によれば、門(mén)は南向きであるはずなのに、この門(mén)はどうして東向きとなっているのか、皆さんはたぶん不思議に思われるかもしれません。それは孔子廟だからなのです。ここだけではなく、すべての孔子廟の門(mén)は東西にあります。これは「禮門(mén)儀路」と言われ、「禮儀の門(mén)」と言う意味だそうです。

      東の門(mén)を入ると、まず目に入ってくるのは日本の鳥(niǎo)居みたいな建物です。これは中國(guó)では「牌樓」と言われるもので、徳望のある人の功績(jī)を稱えるために造ったものです。最初の門(mén)を入ると、東西両側(cè)には展示室が続いています。前は真ん中の小道の両側(cè)には馬を繋ぐ用の石柱が28?jìng)€(gè)ありました。ここは昔は今の駐車所みたいなところだそうです。

      もっと奧のほうへ行きますと、もう一つの門(mén)があります。そのもんを入ると、両側(cè)にはそれぞれひとつの亭があります。東の亭には大きな鐘が置かれ、唐の景雲(yún)年間に造られたもので、「景雲(yún)鐘」と呼ばれています。景雲(yún)鐘は重さが6トン、鐘の銘は18行、292字、內(nèi)容も道教の神秘さを稱えたもので、唐の睿宗の真筆、文章も睿宗のです。中央ラジオ放送局から放送される「除夜の鐘」はこの景雲(yún)鐘の録音だそうです。西の亭にはある石馬は424年に造られた夏の時(shí)代のものです。夏は21年しか続かなかったので、この石馬はきわめて珍しいものです。もうちょっと前のほうへ行きますと、碑林のシンボルとなっている石碑が見(jiàn)えます。それは皆さんによく知られている石臺(tái)孝経です。この石碑は高さ、5.7メートル、四つの石から成り立っていて、碑林博物館の中では一番大きな石碑だと言われています?!感⒔U」は孔子の弟子の曾參と言う人が書(shū)かれた親孝行についての本です。唐の玄宗皇帝が孝経を注釈し、序を寄せ、隷書(shū)で書(shū)いたもので、自ら「孝」と言う思想で國(guó)を治めたいということを表しています。碑額の題字は皇太子?李享の書(shū)だそうです。

      これから石碑の展示室をご案內(nèi)します。あわせて七つもありますが、それぞれ大きさも內(nèi)容も違っています。展示の石碑は漢の時(shí)代から清の時(shí)代までの各時(shí)代の代表作が揃っています。石碑には歴史実録や、仏教、古代の名作などが刻まれています。

      第1陳列室には、「開(kāi)成石経」が収められています。それは唐の文宗の開(kāi)成2年に長(zhǎng)安城の國(guó)子監(jiān)、つまり皇族、貴族の子弟の教育機(jī)関?太學(xué)に立てられました。これは、封建社會(huì)の知識(shí)人の必ず読書(shū)?學(xué)の経典12経の全文65萬(wàn)252字を114の石碑の両面に彫ったもので、清代に「孟子」3萬(wàn)余字が17面に彫り加えられ、あわせて13経68萬(wàn)字余となりました。學(xué)の経典には「周易」「尚書(shū)」「詩(shī)経」「周禮」「儀禮」「禮記」「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「論語(yǔ)」「孝経」「爾雅」など12経が含まれています?!搁_(kāi)成石経」わが國(guó)における唯一完全保存されている石刻経典です。

      第2陳列室に展示されているのは唐代の有名な書(shū)道家が書(shū)いた石碑です。後世の書(shū)法の手本となったものばかりです。初唐の歐陽(yáng) が書(shū)いた「皇帝誕碑」、その息子の歐陽(yáng)通の「道因法師碑」顔真卿の書(shū)「多寶塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。

      第3陳列室には歴代の各種の書(shū)體があります。篆書(shū)、隷書(shū)、楷書(shū)、行書(shū)、草書(shū)の五つの書(shū)體が含まれています。これらの石碑を通じて、中國(guó)文字の変遷が分かっていただけます。「偏旁部首字源表」は『説文』の中の部首で、偏旁540が篆書(shū)で書(shū)かれ、楷書(shū)で注釈をついています。宋の時(shí)代の夢(mèng)英という和尚の書(shū)です。また、「千金文」「大観聖作之碑」などが保存されています。第4陳列室には、主に歴史を記録している有名な石碑が展示されています。これらの石碑は明?清時(shí)代の苦しい生活と陝西省の人民が奮起し抵抗した反抗の歴史を表しています。第5陳列室には宋、元、明、清の各時(shí)代の寺院の改修記録、功労の記録、橋や城壁改修の記録や詩(shī)文など、當(dāng)時(shí)の地方史研究における貴重な資料があります。第6陳列室には、元明清の各時(shí)代の詩(shī)文の石碑があります。第7陳列室は、1982年建てられたもので、「宋淳化秘閣帖」を?qū)熼T(mén)に保存しています。全部で10巻ですが、前の5巻は歴代帝王と名臣、有名な書(shū)家の楷書(shū)、草書(shū)、と古書(shū)各體で、後の五巻は王羲之と王獻(xiàn)之の草書(shū)です。

      石刻陳列館は1963年に建てられたもので、先生省各地に散在していた前漢時(shí)代から唐代までの作品70點(diǎn)余を集め、墓石と宗教石刻に大別し、年代順に並べました。陳列室には石棺、仏像、石刻の動(dòng)物などの貴重なものが集められています。漢、唐の石刻は質(zhì)量とも抜群で、中國(guó)彫刻史上飛びぬけて高い地位に立っています。中國(guó)における石刻蕓術(shù)の起源を示す貴重な資料となります。

      簡(jiǎn)単ですが、以上は碑林博物館にいての説明です。ご靜聴,どうもありがとうございました。

      大雁塔

      大雁塔は西安の南の郊外にある「大慈恩寺」の境內(nèi)にあります?!复蟠榷魉隆工?48年に唐の高宗?李冶がその亡くなった母親の冥福を祈り、慈恩を報(bào)いるために建立したお寺です。當(dāng)時(shí)の「大慈恩寺」は僧侶部屋が千八百九十七室で、僧侶三百人が住んでいたが、唐代の末期の戦火のために焼き払われてしまったので、今大きさはそのときの十分の一に過(guò)ぎません?,F(xiàn)在の境內(nèi)のある建物は大雁塔だけが唐のもので、後はほとんど明や清の時(shí)代の造りなおしたものです。さて大雁塔が建てられた由縁は何でしょうか。皆さん中國(guó)の古典名作の「西遊記」をお読みになったと思いますが、その中の主人公の玄奘三蔵法師ははるばるインドへから持ち帰った経典をここで翻訳したのです。大雁塔はその貴重な経典を保存するために當(dāng)時(shí)このお寺の住職さんだった玄奘三蔵法師の提案と皇帝の援助によって652年に境內(nèi)の西院に建てたものです?!复蟠榷魉隆工沃肖摔ⅳ毪韦恰ⅰ复蟠榷魉工趣夂簸肖欷皮い蓼?。皆さんご存知のように「大雁塔」の本名は「慈恩寺塔」ですが、なぜ今の「大雁塔」という名前に変わったのですか。それについては二つの言い方があります。その一ですが、『慈恩寺三蔵法師伝?巻三』にマガダ國(guó)に寺があり、ある日、雁が群れを成して、空中を飛びすぎたが、突然その中の一羽が地に落ちて死んだ。僧侶たちはこれに驚き、それを菩薩だと思い、衆(zhòng)議の末、雁を埋め塔を建てようと決めたと記されています。このことからこの塔を大雁塔と呼ぶようになったと伝えられています。もう一つの言い伝えですが、仏教には大乗教と小乗教がありますが、大乗教は肉を食べてはいけないことですが、小乗教は食べても構(gòu)わないことになっているそです。そのころのインドで、ある日小乗教の僧侶たちが肉の無(wú)いことに悩んでいる時(shí)、、誰(shuí)か一人が“今日はお釈迦様が貧しい人に施しをする日だ”と思い出した。そこで、皆で「お釈迦様、お助けください?!工瘸à蓼筏?。そのとたん、一羽の雁が彼らの目前に落ちてきました。これを見(jiàn)て、僧侶たちはびっくりして、まさか彼らの食欲を満たすためにお釈迦様が自分の身を捨てて、雁に変身されたではないかと悟りました。お釈迦様が私たちのために自分の身も捨てましたが、私たちもお釈迦様のために何かしないといけないと思って大乗教を信じ、肉を食べないことにしました。そして、その雁の落ちたところに、「雁塔」を建て、お釈迦様の慈悲の心を後代に伝えようということです。以上はいずれも美しい伝説ですが、資料によりますと、唐のこの大雁塔が玄奘三蔵法師がインドの雁塔に基づいて設(shè)計(jì)したものなので、「雁塔」と名づけられたそうです。その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられましたが、これは小さかったので、「小雁塔」と呼ばれ、「大慈恩寺」の「雁塔」を「大雁塔」と呼ばれるようになったのです。

      先ほど申しました玄奘三蔵法師が日本人の中でも馴染み深いの高僧ですが、彼は629年に27歳のとき、皇帝の許可ももらわずに一人で長(zhǎng)安を立ち西へのたびを始めました。シルクロードを通って、西域百二十カ國(guó)を歴訪し、インドでの遊學(xué)を終えて、16年後の657年に彼は115粒の仏舎利、八體の仏像と657部の経典とともに長(zhǎng)安に帰り著き、持ち帰った経典はこの寺で十二年間にかけて翻訳されました。唐代は仏教のとても盛んな時(shí)代でしたから、仏教に力を盡くした玄奘法師も非常に人望がありました。彼の功績(jī)を稱えるために、唐の高宗と太宗はそれぞれ絶賛と感謝の意を込めた文章を書(shū)かれました。この文章は唐の有名な書(shū)道家?ちょ遂良によって石碑に刻まれ、今も大雁塔の上に保存されています。彼が著した『大唐西域記』は後世の人々に西域諸國(guó)研究、特にヨーロッパの考古學(xué)調(diào)査

      研究に対して、欠かせない貴重な資料となっているものです。いわば、『世界考古案內(nèi)?天竺篇』と言ったところでしょう。前にご案內(nèi)したように大慈恩寺の中の建物は大雁塔を除いて、大體は明清のものです。中の鐘樓と鼓樓はお寺に住んでいる僧侶たちに時(shí)刻を知らせるために造られたものです。お寺には二つの建物がありますが、一つは「大雄寶殿」と呼ばれ、その中にはお釈迦様の三身佛が祭られております。もう一つは法堂という建物で、その中には阿彌陀仏の像が祭られています。特に法堂の東の壁には玄奘三蔵法師が晝も夜も休まずに歩き続けてインドから帰國(guó)するときの拓本が掛けてあります。この拓本を見(jiàn)たら玄奘が一生懸命仏教にしたありさまを偲んでいただけると思います。法堂を通って、大雁塔の真下に著きます。史書(shū)によりますと、大雁塔は最初に煉瓦で外側(cè)を固められた五重の正方形の建物でしたが、則天武后の長(zhǎng)安年間に大改造を行ったので、十層になりました。しかし、その後の戦亂などで七層から上が崩壊し、殘った七層をレンガで表を固めて修復(fù)し手、今の姿になったのです?,F(xiàn)在の塔は高さが64メートルで、中には螺旋狀の階段が付いており、一番上まで登って頂いたら、西安のきれいな町風(fēng)景が見(jiàn)られます。大雁塔にはすでに千三百年の歴史があり、その間震度七級(jí)以上の地震に二度見(jiàn)舞われていますが、無(wú)我氏の雄姿をそのままに見(jiàn)せています。

      大雁塔と同じ毎日數(shù)多くの國(guó)內(nèi)外の観光客を迎え、その大唐の雄姿を見(jiàn)せています。

      華清池

      華清池は西安の東にある驪山の麓にある観光地です。ここは都にも近いし、溫泉も沸いているから昔から皇族たちの行楽地として栄えてきたのです。

      ここで、溫泉に入ったりして行楽を始めたのが今から3000年ほど前の西の周――西周時(shí)代の國(guó)王?周幽王でした。しかし、當(dāng)時(shí)はまだ宮殿などの建物がなく、お風(fēng)呂も「露天」の狀態(tài)で、星が見(jiàn)えていたので、「星辰湯」と呼ばれていました。これが華清地の初めての名稱でした。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の愛(ài)情物語(yǔ)は誰(shuí)でも知っているでしょう。そのラブストーリの舞臺(tái)はここ華清池でした。

      華清池は西、中、東の三つの部分からなっています。九つの龍の池――九龍池を中心とした西の部分は20世紀(jì)の50年代に再建されたのです。

      九龍池は面積5300㎡で、九龍という堤防に分けられ、上下二つの部分になっています。一つの大きいな龍と八つの小さいな龍の頭が造られ、水が龍の口から池へと流れ込んでいます。これが、九龍池の名稱の由縁でもあります。九龍池の北には、「飛霜殿」を中心とした建築群があります。それは玄宗皇帝と楊貴妃の寢殿――と言われています。両側(cè)にあるのは「沈香殿」、「宜春殿」です。

      1982年4月、ここで建築工事を始めたところ、華清宮御湯遺跡が発見(jiàn)されたのです。後の考古學(xué)発掘では、4200㎡に及ぶ範(fàn)囲內(nèi)において、星辰湯、蓮花湯、海棠湯、太子湯、それに尚食湯という五つの溫泉風(fēng)呂があったことが判明しました。1990年10月に「華清宮御湯遺跡博物館」がオープンしました。

      蓮花湯は皇帝専用で、蓮の花の形をしています。

      海棠湯は楊貴妃の専用のものだから、貴妃池ともいいます。また満開(kāi)した海棠の花のような形もしているから、どこからとなく女性らしさが漂っています。

      太子湯は文字通り太子が入浴する場(chǎng)所で、尚食湯は大臣など皇族以外の人が使うお風(fēng)呂です。星辰湯はいわば露天風(fēng)呂のことであるが、唐の時(shí)代から使い始めたものではありません。

      現(xiàn)在、溫泉の泉は四つあり、一時(shí)間あたり112トンのお湯が湧き出ています。

      昔からここの溫泉が皮膚病やリュウマチには治療効果があることに気づき、利用してきました。

      望湖樓の北側(cè)には蓮池があります。池の中に造られている高殿も「蓮花閣」と呼ばれてきました。「蓮花閣」の南西にある建物は「飛霜殿」です。また、楊貴妃が溫泉からあがるたびにここで髪の毛を乾かしていたと伝えられきました。

      秦の始皇帝陵

      秦の始皇帝陵は、西安市の東に臨潼という町から東へ5キロ行った所に位置しています。2200年ほど前に造られた秦の始皇帝陵は長(zhǎng)年風(fēng)雨にさらされ、地上の建築などほとんどなくなってしまったが、関中平野を見(jiàn)下ろすその威容はいまだに始皇帝の栄光と威厳を物語(yǔ)っています。秦の始皇帝陵は中國(guó)史上初めての皇帝の陵であり、世界おいても最大級(jí)のものです。また、これに埋められている珍しい文物はいったいどれほどあるかは計(jì)り知れなくて、いまだに未知數(shù)のままです。

      秦の始皇帝陵を見(jiàn)學(xué)するに當(dāng)たって、まず秦の始皇帝はどういう人物かを知っておく必要があるでしょう。秦の始皇帝姓は名は嬴政で、紀(jì)元前259年に生まれ、13歳で國(guó)王になりました。しかし、10年後22歳で自ら政務(wù)を執(zhí)り始めたのです。実権を手にした秦の始皇帝は改革を斷行することによって、國(guó)力を急速に強(qiáng)め、10年というわりと短い期間で、他の六つの國(guó)を滅ぼして中國(guó)全土統(tǒng)一という快挙を成し遂げ、自ら始ての皇帝――始皇帝と稱しました。紀(jì)元前210年7月、地方視察の途中で倒れてしまい、50歳で亡くなりました。

      秦の始皇帝は傲慢で、決斷力があり、権力闘爭(zhēng)に長(zhǎng)じていると同時(shí)に非常に冷酷的で殘忍でした。一方、秦の始皇帝が歴史上最も勤勉な皇帝の一人です。秦の始皇帝に対する評(píng)価は昔から分かれており、今でも論爭(zhēng)の対象となっています。しかし、これだけは弁論の余地のない事実でしょう。彼は中國(guó)歴史の進(jìn)行に極めて重大な影響を與えた人物であり、2000年も続いていた中央集権政治の創(chuàng)始者で、史上始めての皇帝です。

      秦の始皇帝陵の平面図はほぼ正方形しています。底辺の長(zhǎng)さは、南北350m、東西は345mです。もちろん、この數(shù)字は現(xiàn)存の陵墓のものであるから、當(dāng)初はもっと大きかったにちがいません。

      秦の始皇帝陵は、実は敷地面積が200萬(wàn)㎡を超えた巨大な霊園でした。漢字の回?cái)?shù)の「回」という形をしている二重の城壁がありました。城壁の東西南北にはそれぞれ城門(mén)が一つずつ、四つの曲がり角には「角樓」という建物が造られていました。當(dāng)時(shí)天下無(wú)敵の秦の軍隊(duì)がこの城壁で物々しく警備していたでしょう。

      內(nèi)側(cè)の城壁に囲まれていた部分は內(nèi)のお城――「內(nèi)城」といいます。內(nèi)城の中心は言うまでもなくし皇帝の陵墓です。秦の始皇帝は、狹い寢殿が天下始ての皇帝という身分にはふさわしくないと思ったでしょう。

      內(nèi)側(cè)の北側(cè)では寢殿遺跡のほか、「便殿」という格式のランクが一つ低い宮殿の遺跡も発見(jiàn)されています。

      では、秦の始皇帝がなぜ國(guó)を挙げて陵墓を造ったのでしょうか。それは昔中國(guó)では、「死ぬ」とはもう一つの世界に旅たつことであり、「死んだ後」でもあの世で暮らしをすることができると考えられていました。秦の始皇帝陵はあの世における秦の都であるといえるかもしれません。

      兵馬俑

      兵馬俑は秦の始皇帝陵から東へ1.5キロのところにあり、1987年、ユネスコによって世界文化遺産に指定されたのです。皆様のご存知のように、兵馬俑は秦の始皇帝が自分の陵墓の東に造った大規(guī)模な?軍隊(duì)?です。それを造った目的は何だったでしょう?!杆泪幛问澜纭工蚬踏扭袱皮い壳丐问蓟实郅献苑证瘟昴工颉傅叵陇味肌工韦瑜Δ嗽欷辍ⅳⅳ问坤扦饣实郅颏浃昃Aけたいと思っていました。

      兵馬俑を保存して、展示するため、遺跡の発見(jiàn)された現(xiàn)場(chǎng)に「秦の始皇帝陵兵馬俑博物館」が造られています。これは中國(guó)における最大級(jí)の遺跡博物館であり、一號(hào)館、二號(hào)館、三號(hào)館と言う三つの遺跡現(xiàn)場(chǎng)展示室と、出土文物展示室や秦の始皇帝陵銅車馬展示室など、五つの部分からなっています。

      秦の兵馬俑の発見(jiàn)は偶然とも言えるでしょう。1974年、西安一帯は激しい日照りになりました。干害に悩まされていた地元の農(nóng)民たちが井戸を掘りました。工事を始めた農(nóng)民が3Mほどの深さまで、掘ったときに、まず焼かれた土がそれから炭や灰が次から次へと出てきました。ちょっと不思議に思った彼らは昔の煉瓦を作る窯元に出會(huì)ったと思い、井戸を掘り続けていました。ところが、5mの深さまで行くと、今度は西側(cè)の壁から人間の顔をしている埴輪の破片が現(xiàn)れてきました。時(shí)は1974年3月29日のことでした。秦の兵馬俑がこのようにして見(jiàn)つかったのです。この大発見(jiàn)を記念するため、一號(hào)館には農(nóng)民たちが掘った井戸も遺跡として保存されています。パッチファイルセット

      さいきん

      秦の始皇帝陵については「史記」や「漢書(shū)かんしょ」などの史書(shū)ししょがその記録を殘しているが秦の兵馬俑については何の記録もありません。そのため、兵馬俑坑の正確な建造年代がわからないです。しかし、兵馬俑坑から出ている煉瓦から手がかりをつかむことができるでしょう。兵馬俑坑の地面が大量の煉瓦によって舗裝されています。これらの煉瓦の製造元はいずれも秦の始皇帝が中國(guó)統(tǒng)一した後の宮廷専屬の窯元ですから、兵馬俑坑の工事が中國(guó)統(tǒng)一してからのことであると考えられます。もし、兵馬俑坑の工事が中國(guó)統(tǒng)一したの紀(jì)元前221年から始まって、農(nóng)民蜂起が全國(guó)に広まった年の紀(jì)元前209年に終わったとすると、およそ10年間続いていたことになります。

      兵馬俑坑は発見(jiàn)された順序に一號(hào)坑、二號(hào)坑、三號(hào)坑と名づけました。今、皆様がご覧になっているのは一號(hào)坑です。

      一號(hào)館は秦の始皇帝兵馬俑博物館最初の建物で、1979年10月1日の國(guó)慶節(jié)に博物館は正式に開(kāi)館しました。東西210m、南北62mの長(zhǎng)方形をしているもので、発見(jiàn)された三つの俑坑の中では規(guī)模の最も大きい遺跡です。地面から4.5m~6.5mの深さに1000あまりの兵隊(duì)の埴輪が立っています。戦闘馬車8臺(tái)と馬の埴輪32體も出土しています。九つの行列になっています?,F(xiàn)在、ここの発掘はまだ継続中なので、埴輪の數(shù)が正確には分からないが、今までの調(diào)査結(jié)果から推定すると、たぶん6千體くらいあるだろうと思われます。線を引くかれる

      一號(hào)館の兵馬俑は、歩兵ほへいを中心とした主力部隊(duì)です。その役割から見(jiàn)ると、先頭部隊(duì)や主力部隊(duì)、それから側(cè)面部隊(duì)や後衛(wèi)部隊(duì)に分けられます。戦闘部隊(duì)は文字通り一番先のほうにあります。秦の兵馬俑は當(dāng)時(shí)の軍隊(duì)をモデルにして造られたものだから、軍の階級(jí)なども埴輪はにわからはっきり判斷できます。階級(jí)の一番低い兵士は、髪の毛を高く束ねて、短い戦闘服を著、鎧よろい(鎧甲)を著けず、ゲートルを巻いています(扎裹腿)。これより階級(jí)ちょっと高い兵士は、髪の毛を高く束ねたばね、小さい丸い帽子をかぶり、長(zhǎng)い戦闘服を著て、黒の長(zhǎng)い鎧をつけています。最も目立つのは何いっても將軍俑です。將軍は、先端が巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためのリボンが顎の下で丁寧に結(jié)ばれ、胸まで格好よく垂らされています。また、鎧も獨(dú)特な形をして両肩と胸のところでリボンによって結(jié)ばれています。

      次に、入るのは二號(hào)館です。二號(hào)館の兵馬俑はの遺跡は?ルフ?ベットの「w」の形をしており、東西最も広い所の幅は96mで、南北は84mです。四つのブロックに分けられています。弓を持っている努兵、戦闘馬車、歩兵、騎兵からなっています。この陣立ての形は攻めることも守ることも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい場(chǎng)所がありません。二號(hào)館の建物は秦の始皇帝兵馬俑博物館における最も近代的な建物で、1994年竣工し、オープンしたのです。

      1987にオープンした三號(hào)館で展示されている兵馬俑は1976年に発見(jiàn)されたものです。三つの兵馬俑坑の中で、唯一発掘が完成したのが三號(hào)館のほうです。三號(hào)館の兵馬俑坑が東西が17.6m、南北が21.4mで、規(guī)模としても一番小さいほうです。

      ここからは馬車1臺(tái)、馬の埴輪4體、武士の埴輪68體、それに34點(diǎn)の青銅製兵器が出土されています。専門(mén)家たちは三號(hào)館の遺跡は宿衛(wèi)軍全體の統(tǒng)帥する司令部であると推定しています。一號(hào)館、二號(hào)館の兵馬俑坑はみな激しく焼かれた痕跡あります。これは項(xiàng)羽が咸陽(yáng)に入って阿房宮とともに焼いたのではないかと推測(cè)されています。しかし、不思議なのはこれと違って三號(hào)館の兵馬俑坑が焼かれた痕跡はまったくありません。そのおかげで、ここの兵馬俑が出土されたとき、皆鮮やかな色彩が著いたままでした。殘念なのはこれらの色を保存する技術(shù)が無(wú)く埴輪が出土してから三日ほど経つと、水分が蒸発して色が全部落ちてしまったのです。

      1980年12月、秦の始皇帝をさらに掘り進(jìn)めて見(jiàn)ると、陵の西側(cè)20mのところから、副葬の銅製の馬車が二臺(tái)発見(jiàn)されました。大きさは実物の二分の一です。始皇帝は皇帝になってから5回全國(guó)を巡視したが、その時(shí)使用した乗り物はこのような銅車馬であったことだろうと伝えられています。

      1號(hào)車は先導(dǎo)車で、「高車」と呼ばれます。車體は長(zhǎng)方形です。御者は、馬の手綱を手にし、前方を望んで立っています。腰には剣、頭に冠をかぶっています。車の中には鏃、弓、盾などがあります。ここに裝備されるものから、この1號(hào)車は2號(hào)車の安全を守る護(hù)衛(wèi)の車だということが分かります。車體には傘がついており、鍵で開(kāi)いたり、閉じたりできます。二號(hào)車は「安車」と呼ばれ、壁によって、前の御車席と後ろの主人席の二つの部分に分けられています。車體には、小さいな窓が三つあり、溫度によって開(kāi)閉する自動(dòng)式です。扉はハンドルであけるようにしていますので、現(xiàn)在の自動(dòng)車のド?と同じ仕掛けなのです。銅車馬は大きさが実物の二分の一ですが、実物の車や馬、人物をモデルにして、製作されたものなので、まったく実物の馬車と同じです。馬も御者も生き生きとしています。銅車馬は3400點(diǎn)の部品から組み立てられています。構(gòu)造が複雑で、細(xì)工は精巧を極めています。車體には、金銀のメッキが施され、車體の彩色畫(huà)も色鮮やかで、上には四角形、雲(yún)、龍、鳳凰などが浮き彫りにされています。2號(hào)車の屋根の面積は2.3㎡で、青銅で一度鋳造されて最も薄い所で1cmで、厚い所でも4cmです。車馬の裝飾に使われている銅線は、直徑0.5ミリから1ミリほどしかないです。これで當(dāng)時(shí)の伸線技術(shù)がたかったことが

      分かるが、いったい、どのようにして太い銅線を細(xì)くしたのか、まったくの謎です。銅馬で注目されるのは、金銀の飾り物です。金は747點(diǎn)、銀は847點(diǎn)ありますが、特に、金銀だんだらの管の環(huán)は、どのようにして溶接されたものか、想像がつきません。金銀は溶解點(diǎn)が異なるので、當(dāng)時(shí)の溶接、冶金技術(shù)の高度さが注目されるわけです。銅車馬は中國(guó)における最も大きな青銅器としてますます世界に広く知られるようになっていくでしょう。

      陝西歴史博物館

      皆様、今日見(jiàn)學(xué)のは陝西歴史博物館です。陝西歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の國(guó)立歴史博物館です。皆様のご存知のように、陝西省は都として1100年の歴史があり、また、周、秦、漢、唐のような繁栄していた時(shí)代でした。ですから、陝西の歴史はある程度中國(guó)の歴史を演じています。

      館內(nèi)に入って、まず目につくのは、大きな石の獅子ですが、これは則天武后の母親の墓?順陵の獅子の模造品です。

      第1展示室は、約115萬(wàn)年前の舊石器時(shí)代、藍(lán)田猿人から始っています。藍(lán)田猿人は西安市東南の藍(lán)田県から出土しました。西安市東郊外の半坂村から発見(jiàn)された半坂遺跡は、仰韶文化の村落遺跡です。約6000年くらい前のものと推定されています。その集落が居住區(qū)、製陶區(qū)、埋葬區(qū)などに分かれていることです。彼ら、は農(nóng)耕作業(yè)をし、家畜を養(yǎng)い、魚(yú)を釣り、弓矢で獣を捉えるなど、生産のための道具を駆使しています。陶器は、彩りの鮮やかな彩色陶器です。半坂人は、母系會(huì)社です。獣の骨で、こしらえたネックレス、そして、ブレスレット。また、人面魚(yú)紋を始とする美しい陶器の模様。

      今から約5000年ほど前の龍山文化は、新石器時(shí)代の晩期に當(dāng)たり、父系社會(huì)の始まりでした。この時(shí)代において、男性は女性に代わって社會(huì)の中心となり、支配地位を占めるようになりました。

      ここに展示されているのは、舊石器時(shí)代や新石器時(shí)代の代表的な文物で、先史時(shí)代の人々の生活ぶりを現(xiàn)しています。

      周の時(shí)代は、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時(shí)代なので、「青銅器時(shí)代」とされています。青銅器は、銅や錫との合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになりました。博物館に展示されている青銅器は祭禮の楽器、生産、生活用具、実戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文內(nèi)容の重要さなど、世界美術(shù)史上も貴重なものです。陝西省から出土した青銅器は全部で3000點(diǎn)あまりで、そのうちの2000點(diǎn)あまりがこの博物館に保存されています。青銅器のほかに、鉄製農(nóng)具の使用によって農(nóng)業(yè)生産力が増大し商工業(yè)が発達(dá)したこともこの時(shí)代の特徴なのです。

      この展示室では、秦の足跡を展示しています。春秋戦國(guó)時(shí)代の秦の都は、雍(現(xiàn)在の風(fēng)翔県の南)でした。秦は、戦國(guó)時(shí)代末期(前221年)6國(guó)を制覇して、中國(guó)最初の封建統(tǒng)一國(guó)家です。時(shí)の秦王?嬴政は自ら始皇帝と號(hào)し、郡県制、通貨統(tǒng)

      一、度量衡統(tǒng)

      一、文字統(tǒng)

      一、法令統(tǒng)一を始、車の轍まで統(tǒng)一すると言う、徹底した法治主義を貫き、思想言論にも、弾圧を加えました。

      展示品の中には、雍城の遺跡や咸陽(yáng)の宮殿遺跡から発掘した瓦、煉瓦などの建築材料をはじめ、鉄や青銅の生産用具、武器などが並んでいます。始皇帝の事業(yè)の一つ、通貨の統(tǒng)一をあげることができるが、當(dāng)時(shí)の貨幤関係の資料も展示されています。

      秦が滅亡してから、西暦前202年、漢王朝の時(shí)代となりました。漢代の都?長(zhǎng)安城は中國(guó)の歴史における初めての國(guó)際的大都會(huì)で、當(dāng)時(shí)、ローマ帝國(guó)の都?古ローマより2倍ぐらい広かったと言われます。ここに展示されている陶製の水道管は、漢の長(zhǎng)安城遺跡からの出土品で、現(xiàn)在我々が使っている水道管とよく似ています。そこから、當(dāng)時(shí)の長(zhǎng)安城はすでに立派な排水システムを用いたことが分かります。紙の発明はかなり古く、西安?灞橋の漢墓などからも、植物織維で造った紙が発見(jiàn)されていますが、さらに、良質(zhì)の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。漢の第7代皇帝?武帝の時(shí)に開(kāi)かれたシルクロードは、東西文化交流のかけ橋としてよく知られています。シルクロードを通じて中國(guó)から、絹、漆器、鉄器の作り方や井戸の掘り方などが西方に伝えられ、西域、中央?ジ?からは、ザクロ、ブドウ、胡桃、蠶豆、香料、寶石などが大量に入ってきました。

      西暦220年から581年にかけてのこの時(shí)期は、強(qiáng)力な中央政権を欠き、王朝の交替がしきりであって、社會(huì)的な混亂に明け暮れた時(shí)代でした。220年から280年にかけては三國(guó)時(shí)代でした。263年、蜀は魏に滅ぼされ、ついで魏と呉は晉に滅ぼされて三國(guó)時(shí)代は終わりました。戦亂に苦しむ庶民の解脫願(yuàn)望によって、仏教は大幅に広め、大変盛んになり、したがって、陝西省からこの時(shí)期の石窟、仏像などが數(shù)多く発見(jiàn)されたのです。ここにある仏像はいずれも傑作です。

      隋は、589年の成立です。隋は短命で、わずか2代38年で、滅びます。李淵が子の李世民に勧められて挙兵、長(zhǎng)安を占領(lǐng)し、618年に唐を建國(guó)し、初代皇帝?高祖となりました。唐は引き続いて、長(zhǎng)安城を完成しました。日本の古代都市平城京や平安京はもともとこの長(zhǎng)安城をモデルとして、造営されたといわれています。しかし、その規(guī)模を比較すると、長(zhǎng)安城は平城京の約4倍、平安京の約4倍の広があり、都長(zhǎng)安は唐の盛時(shí)には人口100萬(wàn)、世界最大の都市として繁栄しました。

      隋?唐展示室では、金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など當(dāng)時(shí)の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。特に、1970年に西安南郊外から発見(jiàn)された大量の金銀器具は唐代の絢爛ぶりを示すものです。中でも、五足の銀の透かし彫の薫爐は、実用品でありながら、極めて蕓術(shù)性の高いものになっています。

      法門(mén)寺から出土した大量の唐代の寶物も陳列されています。これらの金や銀の細(xì)工物は、精巧、華麗で、思わず嘆聲が洩れるほどです。唐三彩は、西安、洛陽(yáng)一帯に分布していますが、出土數(shù)が大変少なく、大変珍しいものです。陳列されている馬、駱駝、宮女、各種生活用品など、題材も豊富です。工蕓水準(zhǔn)も大変高いものです。葬式の行列に使う冥器などでも、工蕓水準(zhǔn)は大変高いものです。

      宋元明清の時(shí)代は、政治、経済、文化の中心が東に移りましたが、陝西地方は重要な軍事地區(qū)であり、西北地方の政治、軍事、経済、文化の中心でした。

      展示品の中では、宋の磁器が注目されます。上薬は青が主で、蓮花の紋様が最も多く、そのほかに、牡丹、鶴、鳳凰、魚(yú)、鴨などもあります。

      皆様、陝西歴史博物館の解説はこれで、終わりました。ご靜聴ありがとうございました。

      第二篇:西安旅游導(dǎo)游詞

      秦始皇兵馬俑秦始皇兵馬俑是在1974年發(fā)現(xiàn)的,隨后在這里建了一個(gè)規(guī)模宏大的博物館,于1979年國(guó)慶節(jié)開(kāi)放。舉世罕見(jiàn)的秦兵馬俑博物館開(kāi)放后,很快就轟動(dòng)了中外,被認(rèn)為是古代的奇跡,是當(dāng)代最重要的考古發(fā)現(xiàn)之一。秦兵馬俑以其巨大的規(guī)模,威武的場(chǎng)面,和高超的科學(xué)、藝術(shù)水平,使觀眾們驚嘆不已。兵馬俑坑在秦始皇陵?yáng)|側(cè)約1公里半,先后發(fā)一、二、三號(hào)三個(gè)坑。一號(hào)坑是當(dāng)?shù)剞r(nóng)民打井時(shí)發(fā)現(xiàn)的,后經(jīng)鉆探先后發(fā)現(xiàn)二、三號(hào)坑。一號(hào)坑最大,東西長(zhǎng)230米,寬612米總面積達(dá)14260平方米。在這個(gè)坑內(nèi)埋有約6000個(gè)真人大小的陶俑,目前已清理出的有1000多個(gè)。在地下發(fā)現(xiàn)形體這么大,數(shù)量這么多,造型如此逼真的陶俑,實(shí)在是一件令人難以置信的事。走進(jìn)博物館的大廳,只見(jiàn)在地下5米深的地方,整齊地排列著上千個(gè)像真人大小的武士全身呈古銅色,高1.8至1.97米,一個(gè)個(gè)威武雄壯,真是氣象森嚴(yán),令人望而生畏。陶俑具有鮮明的個(gè)性的強(qiáng)烈的時(shí)代特征。這批兵馬頌是雕塑藝術(shù)的寶庫(kù),為中華民族燦爛的古老文化增了光彩,也給世界藝術(shù)史補(bǔ)充了光輝的一頁(yè)。

      西安城墻西安唐時(shí)稱長(zhǎng)安城,元朝時(shí)曾一度叫奉元城,現(xiàn)在的西安城墻是明洪武三年(1370年)至洪武八年(1375年)在唐長(zhǎng)安城的基礎(chǔ)上改建的。西安城墻周長(zhǎng)13.7公里,東西長(zhǎng)約2.6公里,南北長(zhǎng)4.2公里,呈長(zhǎng)方形。城高12米,頂寬12—14米,底寬15—18米。城墻的外側(cè)是護(hù)城河。有4座城門(mén):東為長(zhǎng)樂(lè)門(mén),西為安定門(mén),南為永寧門(mén),北為安遠(yuǎn)門(mén)。在4座大城門(mén)外各建有1座半圓形甕城即月城。在月城和大城門(mén)上各建有1座宏偉高大的歇山式城樓,兩樓相對(duì),嚴(yán)密監(jiān)守著城周圍一切動(dòng)態(tài)。城墻上隔120米有延伸出城墻12米、寬20米、和城墻頂齊平的墩臺(tái)98個(gè),俗稱馬面。其作用是便于觀察敵情,作戰(zhàn)時(shí)能三面殺敵。城墻上還有垛口5984個(gè),作了望、射擊之用。另外還有登城馬道10處。整個(gè)城墻是用石灰、土和糯米汁混合砌成的。西安城墻已有600余年的歷史,規(guī)模大,保存較完整,很值得一游。

      華清池位于西安臨潼縣驪山北麓。相傳西周的周幽王曾在這里建離官。秦、漢、隋各代先后重加修建,到了唐代又?jǐn)?shù)次增建。名曰湯泉宮,后改名溫泉宮。到了唐玄宗時(shí)又大興土木,治湯井為池,環(huán)山列宮殿,此時(shí)才稱華清宮。因?qū)m在溫泉上面,所以也稱華清池。唐代華清池是帝王妃嬪游宴的行宮,每年十月到此,年終返回。華清池大門(mén)上方有郭沫若書(shū)寫(xiě)的“華清池”匾額。進(jìn)了大門(mén)就見(jiàn)兩株高大的雪松昂然挺立,兩座宮殿式 建筑的浴池左右對(duì)稱,往后是新浴池,由新浴池往右行,穿過(guò)龍墻便是九龍湖,湖面平如明鏡,亭臺(tái)倒影,垂柳拂岸,湖東岸是宜春殿,北岸是飛霜殿為主體建筑,沉香殿和宜春殿東西相對(duì),西岸是九曲回廊。由北向南過(guò)龍石舫,再經(jīng)晨旭亭、九龍橋、晚霞亭,便到了仿唐“貴妃池”建筑群。在星辰湯后面還有溫泉古源。出了貴妃池向前行便進(jìn)望湖樓,先見(jiàn)荷花池然后經(jīng)飛霞閣,傳說(shuō)此閣是貴妃浴后觀景及涼發(fā)之處。接著來(lái)到五間亭,震驚中外的西安事變發(fā)生時(shí)蔣介石曾在此居住過(guò)。后面驪山的半腰間虎斑石處還有一座“兵諫亭”,高4米,寬2.5米,水泥鋼筋結(jié)構(gòu),兵諫亭匾額是用貴重的藍(lán)田玉制成。走出望湖樓,向右可沿著一條磚砌的臺(tái)階上行,直登蒼翠蔥綠、美如錦繡的驪山游覽。

      再現(xiàn)唐詩(shī)山水園林新意境

      西安曲江曾是中國(guó)歷史上久負(fù)盛名的皇家園林,興起于秦漢,繁盛于隋唐,是歷史留給西安最寶貴的文化遺產(chǎn)。曲江新區(qū)就是建立在這塊中華歷史文化故地之上的新興城區(qū)。經(jīng)過(guò)近5年的快速發(fā)展,曲江新區(qū)充分挖掘歷史文化內(nèi)涵,塑造盛唐文化品牌,成為以盛唐文化為特色定位、構(gòu)筑盛唐文化風(fēng)格的城市新區(qū)。曲江新區(qū)管委會(huì)將歷史與今天、傳統(tǒng)與現(xiàn)代、古典與時(shí)尚有機(jī)結(jié)合起來(lái),先后投入資金80多億元,開(kāi)發(fā)建設(shè)了大雁塔北廣場(chǎng)、大唐芙蓉園等一批重大項(xiàng)目。7月1日同時(shí)向市民和游客免費(fèi)開(kāi)放的曲江池遺址公園、唐城墻遺址公園、唐·大慈恩寺遺址公園就是最重要的組成部分。

      三大遺址公園總占地面積2100余畝,總投資25億元,均是在唐代的古跡舊址之上重新規(guī)劃建設(shè)的,恢復(fù)重現(xiàn)的歷史景觀與現(xiàn)代自然人文景觀結(jié)合的渾然天成,呈現(xiàn)出曲江新區(qū)的歷史風(fēng)貌和唐詩(shī)意境,從而達(dá)到“青林叢復(fù),綠水彌漫”的獨(dú)特景觀體系。

      曲江池,是古都長(zhǎng)安最著名的風(fēng)景區(qū),是中國(guó)歷史上久負(fù)盛名的皇家園林和京都公共區(qū)。盛唐時(shí)期,曲江池的繁盛達(dá)到了頂峰時(shí)期,當(dāng)時(shí)的皇親國(guó)戚、達(dá)官貴人、文人墨客、平民百姓常聚于此,是京都游人的最佳去處。曲江池遺址公園依循山水格局,以秦、漢、隋、唐曲江池遺址為基礎(chǔ),最大限度地恢復(fù)了曲江池歷史水系的原貌。整個(gè)公園以曲江池水面為中心,分為八大景區(qū),總占地面積1500畝,水域面積近700畝。

      唐城墻遺址公園位于唐長(zhǎng)安城外郭城的東南部,是在唐長(zhǎng)安城外郭城遺址上建成的開(kāi)放式城市公園。在歷經(jīng)1400多年風(fēng)雨的唐城墻遺址之上,曲江新區(qū)立體構(gòu)建了以唐詩(shī)為主線,以書(shū)法、雕塑、繪畫(huà)、工藝美術(shù)、園林景觀為表現(xiàn)手段,以唐詩(shī)人物和唐詩(shī)意境展示為主題,集詩(shī)歌、哲學(xué)、美學(xué)體驗(yàn)、生態(tài)園林為一體的休閑文化長(zhǎng)廊。

      唐·大慈恩寺遺址公園坐落在唐代大慈恩寺遺址上,具備得天獨(dú)厚的歷史價(jià)值、景觀特色和宗教意蘊(yùn)。園區(qū)前身是曲江春曉園,經(jīng)曲江管委會(huì)重新進(jìn)行藝術(shù)定位、改造,更名為唐·大慈恩寺遺址公園。經(jīng)過(guò)建筑大師張錦秋的悉心指點(diǎn)和參與設(shè)計(jì),園區(qū)充分結(jié)合了傳統(tǒng)北方景觀、皇家園林和佛教境界與深意。

      書(shū)院門(mén)570多米長(zhǎng)的街道,集中了上百家店鋪。在二三層雕欄樓閣上,掛著一色的黑底金字牌匾,書(shū)寫(xiě)著文萃閣、醉書(shū)軒、聚香齋、皓月宮等店名。這里的店鋪門(mén)面既不像江南商號(hào)那樣纖巧秀麗,也不同于北京大柵欄那樣富麗堂皇,而是古樸敦厚,門(mén)面很少有繁瑣的裝飾,牌匾、楹聯(lián),還有深狹的門(mén)道,顯示了一種儒雅祥瑞、深藏若虛的氛圍。商家所售的商品有各種旅游紀(jì)念品、工藝品等。然而墨香的古文化街最能體現(xiàn)特色的商品當(dāng)屬種類繁多的文房四寶、書(shū)法字幅、國(guó)畫(huà)卷軸、碑帖拓片、藍(lán)田美玉,以及古老的樂(lè)器“塤”。

      懂行的人到書(shū)院門(mén)是看“書(shū)”的。這“書(shū)”涵蓋書(shū)、畫(huà)及相關(guān)的一切。這里賣字畫(huà)的店鋪多,里面不僅有許多民間書(shū)畫(huà)愛(ài)好者的作品,也有不少名家名作;但是也有贗品。略往書(shū)院門(mén)的街深處走,賣字畫(huà)的店鋪便越來(lái)越多。還有許多臨街?jǐn)[設(shè)的攤位,其實(shí)就是張書(shū)桌,上備文房四寶以及展示有主人寫(xiě)畫(huà)好的作品。主人就在此或?qū)懽?,或作?huà),也出售作品,但是更享受這種陶冶情操和相互切磋技藝的生活。其中不乏功力深厚、作品絕佳的高人。每年都會(huì)大批書(shū)畫(huà)名家會(huì)聚西安,在這里舉辦各種展覽陳列數(shù)十次。

      書(shū)院門(mén)與關(guān)中書(shū)院

      書(shū)院門(mén)的地名起源于在街內(nèi)的關(guān)中書(shū)院。關(guān)中書(shū)院是明、清兩代陜西的最高學(xué)府,也是全國(guó)四大著名書(shū)院之一,西北書(shū)院之冠。古時(shí)明代工部尚書(shū)、經(jīng)學(xué)大師馮從吾得罪皇帝被革職回家,在寶慶寺講學(xué)。后來(lái)又與陜西省當(dāng)時(shí)的最高行政長(zhǎng)官汪可受一同進(jìn)行“聯(lián)鑣會(huì)講”,聽(tīng)講人數(shù)多達(dá)數(shù)千人,長(zhǎng)安府長(zhǎng)官便下令在寺中劃出一塊地修建“關(guān)中書(shū)院”。之后,向東又陸續(xù)修建了長(zhǎng)安縣學(xué)、西安府學(xué)和文廟(今碑林所在地),形成了文化一條街。書(shū)院建筑規(guī)模宏大,中間講堂6間曰“允執(zhí)堂”,左右房間眾多。講堂后有假山,三峰聳翠,宛若小**。講堂前半畝方塘,豎亭于中,砌石為橋。書(shū)院有門(mén)兩重,大門(mén)二楹,二門(mén)四楹,郡丞劉孟直書(shū)“八景詩(shī)”以壯其觀,學(xué)者王大智書(shū)隸字為書(shū)院題名。

      關(guān)中書(shū)院建成以后不久,魏忠賢滅了東林書(shū)院,關(guān)中書(shū)院也被殃及。熹宗時(shí),關(guān)中書(shū)院被下旨拆毀。到康熙3年,關(guān)中書(shū)院重建。光緒時(shí),改建成陜西省師范大學(xué)堂,成為當(dāng)時(shí)西北5省的最高學(xué)府。民國(guó)時(shí)改為省立師范學(xué)校,直至解放?,F(xiàn)在的關(guān)中書(shū)院依舊古色古香,遺憾的是作為西安師范學(xué)院及附小的所在地,謝絕非校內(nèi)人員進(jìn)入?yún)⒂^的,只能從大門(mén)外感受一下里面的古韻書(shū)香。

      回民街歷史

      說(shuō)回民街過(guò)去是商業(yè)繁華之街,商賈云集,風(fēng)光無(wú)兩,街上名店鱗次櫛比,名產(chǎn)馳譽(yù)全國(guó)。據(jù)說(shuō)有108家糧行,有宰牛、宰鴨、宰驢的數(shù)10位,無(wú)論是不是趕集,都熱鬧非凡?,F(xiàn)在,矮矮的民居屋頂,如蜘蛛網(wǎng)一樣的電線,四通八達(dá)縱橫交錯(cuò),卻又那么觸手可及:觸到的是木板里遺留的草根氣質(zhì),但那種人聲鼎沸的鼎盛場(chǎng)面,早就無(wú)法企及。

      這條街的歷史也已經(jīng)很久了,據(jù)說(shuō),原來(lái)國(guó)外的使節(jié)和來(lái)長(zhǎng)安做生意的商家們聚居在這里,不斷地繁衍生息,現(xiàn)在的坊上人大都是這些古老移民的后裔。他們用自己的宗教形成了高度的凝聚力,在漢人占主流的社會(huì)中,頑強(qiáng)地堅(jiān)持了自己特有的文化生活圈子,他們的血液中還保留著精明商人和貴族的遺傳因子,一直到了今天。在一千多年前的漢朝,這里就曾經(jīng)作為絲綢之路的起點(diǎn),迎來(lái)了回民的先民--來(lái)自古阿拉伯、波斯等地的商人、使節(jié)、學(xué)生。歷史記載,許多人沿著絲綢之路來(lái)到繁華熱鬧的長(zhǎng)安城后,在這一區(qū)域經(jīng)商、留學(xué)和做官,一代代繁衍生息。今天,這里成為6萬(wàn)多回族穆斯林群眾的聚居區(qū)。

      作為伊斯蘭文化的傳承之地,這一區(qū)域今天仍然有唐代含光門(mén)、明代西城門(mén)樓群、眾多保存完好的清真寺和道教城隍廟、佛教西五臺(tái)、喇嘛教廣元寺等眾多文化遺跡。街區(qū)內(nèi)眾多街道具有濃郁的伊斯蘭風(fēng)格,清真飲食城、民族購(gòu)物中心和清真寺、回民生活區(qū)“相映成趣”。

      西安鐘樓是我國(guó)目前規(guī)模最大,建筑最宏偉,保存最完整的明代建筑之一。它以其金碧輝煌的雄姿踞于西安城中心,東西南北四條大街的交匯處,是古城西安的標(biāo)志建筑,被譽(yù)為“古城明珠”。

      明洪武十七年(1384),明太祖朱元璋下令在全國(guó)各城市興建鐘樓,以鎮(zhèn)天下。西安鐘樓初建時(shí)原址在今西安大街廣濟(jì)街迎祥觀,與鼓樓東西對(duì)峙。當(dāng)時(shí)此地與南北城門(mén)正對(duì),是城中心之所在。后擴(kuò)建西安城,隨著城中心的東移,鐘樓的位置就與中心偏西,故明神宗萬(wàn)歷十年(1582)在陜西巡撫龔懋賢主持下,命咸寧、長(zhǎng)安二縣縣令將其遷建于現(xiàn)址。遷建時(shí)“樓惟筑基外,一無(wú)改創(chuàng)”。鐘樓落成后,龔懋賢寫(xiě)了《鐘樓歌》刊石嵌于鐘樓內(nèi)。以后清乾隆五年(1740),樓又經(jīng)巡撫張楷重修,仍按明初年的原結(jié)構(gòu)修建,唯將原室內(nèi)懸掛的唐代“景云鐘”移出室外,以使報(bào)時(shí)之聲遠(yuǎn)揚(yáng)。此外,樓上奉祀文昌帝君。鐘樓的命名,也因每天清晨擊鐘報(bào)時(shí),故稱之。

      鐘樓是一座重檐三滴水四角攢尖木結(jié)構(gòu)建筑,面積1377平方米。建筑基座為正方形,高8.6米,寬35.5米,用青磚、白灰砌筑而成,四面正中各有高、寬6米的券形門(mén)洞,與四條大街相互慣穿。鐘樓從地面至金頂通高36米,基座上面有四面空透的圓柱回廊,樓分兩層,重檐三層,屋頂覆以綠琉璃瓦,樓體為木質(zhì)結(jié)構(gòu)。由磚臺(tái)階踏步上到磚基座大平臺(tái)而進(jìn)入一層大廳,面闊7間,進(jìn)深3間,大廳四面有門(mén),周為平臺(tái),頂有方格彩畫(huà)藻井。由第一層大廳內(nèi)東南角扶梯,可盤(pán)旋登上四面有木隔扇門(mén)和直通外面回廊的二層大廳。二層梁架結(jié)構(gòu),采取砌上明造,用通柱,攢尖頂采用抹角梁和井口枋,梁柱節(jié)點(diǎn)有宋元做法痕跡。

      整個(gè)建筑通體彩繪,樓內(nèi)貼金彩繪,畫(huà)梁雕棟。四面漆紅大門(mén),各層門(mén)扉還有64幅精美的木雕故事,有“木蘭從軍”、“嫦娥奔月”、“西廂聽(tīng)琴”、“伯樂(lè)相馬”、“柳毅傳書(shū)”、“八仙過(guò)?!钡?,構(gòu)圖優(yōu)美,雕工精細(xì),有很高的藝術(shù)價(jià)值。樓翼角飛翹,下懸鐸鈴。樓頂端琉璃蓮花寶座上置有6米高的圓形鎏金寶頂,更顯莊嚴(yán)和富麗堂皇,顯示了明代建筑藝術(shù)的獨(dú)特風(fēng)格。

      鐘樓在國(guó)民黨反動(dòng)派統(tǒng)治時(shí)期,曾成為拘押進(jìn)步人士和革命青年的臨時(shí)牢獄,樓上駐扎軍隊(duì)。鎏金寶頂?shù)你~葉被人揭去盜賣,樓體累遭破壞。1953年至1958年,國(guó)家對(duì)鐘樓進(jìn)行了大規(guī)模的全面維修,加固了樓的臺(tái)基座,拆換了樓梯、地板和部分柱子,增添了欄桿,翻修了全部門(mén)窗。樓的內(nèi)外進(jìn)行粉刷油漆,并按原樣裝置了鎏金頂和增加了避雷設(shè)施。1980年以后,又進(jìn)行了多次維修。1996年西安市為進(jìn)一步開(kāi)發(fā),利用文物資源,促進(jìn)文化事業(yè)的發(fā)展,決定仿制唐景云鐘。唐景云鐘鑄于唐景云二年,原為唐景龍觀所用,唐睿宗李旦親自為其撰書(shū)銘文,明初移至鐘樓用以報(bào)時(shí)。該鐘現(xiàn)為國(guó)家級(jí)文物,現(xiàn)藏于西安碑林。西安市文物管理局多次走訪有關(guān)單位,商討仿制事宜。仿制的景云鐘外觀與原鐘近似,通高2.45米,重6.5噸,鐘裙外徑 1.65米,紋飾、銘文酷似原鐘,音質(zhì)嘹亮雄渾,可與原鐘媲美。經(jīng)多方努力,1997年1月30日,沉寂了數(shù)百年的晨鐘暮鼓再次在古城響起。仿制的景云鐘現(xiàn)掛于樓基座的西北角。

      1956年8月6日,陜西省人民委員會(huì)公布鐘樓為省級(jí)文物保護(hù)單位。1996年11月20日國(guó)務(wù)院公布鐘樓為全國(guó)重點(diǎn)文物保護(hù)單位。同時(shí)公布保護(hù)范圍:其重點(diǎn)保護(hù)區(qū)為鐘樓基座四周邊內(nèi);一般保護(hù)區(qū)為由重點(diǎn)保護(hù)區(qū)外延36米;建設(shè)控制地帶為由一般保護(hù)區(qū)再外延72米。

      鼓樓

      西安鼓樓位于西安城內(nèi)西大街北院門(mén)的南端,東與鐘樓相望。

      鼓樓始建于明太祖朱元璋洪武十三年(1380),清康熙三十八年(1699)和清乾隆五年(1740)先后兩次重修。樓上原有巨鼓一面,每日擊鼓報(bào)時(shí),故稱“鼓樓”。歷經(jīng)歲月滄桑,如今巨鼓早已不存,惟余鼓樓巍然聳立。

      西安鼓樓是目前所存在全國(guó)最大的鼓樓。它的建筑形式是歇山式重檐三滴水。高臺(tái)磚基座東西長(zhǎng)52.6米,南北寬38米,高7.7米,南北正中辟有高和寬均為6米的券洞門(mén)。樓建筑在基座的中心,面闊7間,進(jìn)深3間,四周另有走廊。第一層樓身上置腰檐和平座,第二層樓重檐歇山頂,上覆綠琉璃瓦。樓的外檐和平座都裝飾有青綠彩繪斗拱,使樓的整個(gè)建筑層次分明,渾雄博大。登樓的青磚階樓設(shè)在磚臺(tái)基兩側(cè),在第一層樓的西側(cè)有木樓梯可登臨樓的第二層。在樓的南檐下正中,懸掛有“武盛地”藍(lán)底金字匾額,是陜西巡撫張楷重修此樓峻工后,摹仿乾隆皇帝的“御筆”。北檐正中懸掛有“聲聞?dòng)谔臁必翌~,筆力挺拔,相傳系咸寧李允寬所書(shū)。兩匾不僅說(shuō)明了建筑物的意義,而且猶如畫(huà)龍點(diǎn)睛,使樓生氣盎然,更顯得宏偉壯麗,但在“文革”十年浩劫中遭毀,現(xiàn)文物管理部門(mén)已著手修復(fù)。

      從50年代開(kāi)始,人民政府曾多次修繕鼓樓,90年代又貼金描彩,進(jìn)行了大規(guī)模的維修,為進(jìn)一步開(kāi)發(fā)和利用文物資源,促進(jìn)文化旅游事業(yè)的發(fā)展,恢復(fù)“晨鐘暮鼓”,1996年西安市決定重制鼓樓大鼓。重制的大鼓高1.8米,鼓面直徑2.83米,系用整張優(yōu)質(zhì)牛皮蒙制而成。鼓腹直徑3.43米,重1.5噸。上有泡釘1996個(gè),寓意1996年制,加上4個(gè)銅環(huán)共2000年,象征公元2000年,催人奮進(jìn),跨入21世紀(jì)。該鼓聲音宏亮、渾厚,重槌之下,十里可聞,是目前中國(guó)最大的鼓。在鐘樓和鼓樓之間,開(kāi)辟為鐘鼓樓廣場(chǎng),綠草紅花點(diǎn)綴其間,造型獨(dú)特的聲光噴泉不時(shí)變換,是古城人民休閑、娛樂(lè)的好去處。

      ] 回民街在西安鼓樓的邊上,街的北頭是一座厚重的城墻。它斑駁的拱門(mén)、大塊大塊的城磚,總是使人聯(lián)想到那種大塊吃肉大碗喝酒的豪爽俠氣。曾有人說(shuō)過(guò),只要到過(guò)回民街,你對(duì)西安的小吃就不會(huì)有遺憾。

      回民街不長(zhǎng),也就500米左右,兩旁開(kāi)滿了正宗的回民飯店。大多數(shù)店家門(mén)口,總是能見(jiàn)到幾個(gè)戴著回民白帽的小伙子在扇火烤肉羊串,陣陣的烤肉香味足以令你垂涎欲滴,然后決定進(jìn)去大爽一把,以飽口福。

      牛、羊肉泡饃:用優(yōu)質(zhì)牛(羊)肉、牛(羊)骨,配以花椒、大茴、草果、桂皮等調(diào)料,入鍋內(nèi)煮至內(nèi)酥爛、湯汁濃備用。用優(yōu)質(zhì)水調(diào)面團(tuán)烙成饃,掰成碎塊。炒鍋置入濃汁湯,再添適量水煮開(kāi),放切好的熟牛(羊)肉和適量濕粉絲稍滾,再將掰好的饃塊倒入,加調(diào)味品煮1—2分鐘,淋熟羊油盛人碗中。食用時(shí)佐以糖蒜、辣子醬、芝麻油、香菜等。傳統(tǒng)作法有三,一曰“干泡”,通過(guò)煮制,湯汁完全入饃內(nèi)。此饃筋而韌、粘而滑;二曰“口湯”,煮的饃酥綿光滑,吃完碗內(nèi)留湯一口;三曰“水圍城”。寬湯煮饃,碗四

      黃桂稠酒:源于唐代,是以優(yōu)質(zhì)糯米特釀而成,純天然發(fā)酵,色澤如玉,酒味醇香,酸甜可口,具有止喝、生津、活血、健脾、開(kāi)胃、潤(rùn)膚、滋肺、營(yíng)養(yǎng)等功效,冷熱均可飲用,是老幼皆宜的上等飲品。杜甫詩(shī)中“李白斗酒詩(shī)百篇,長(zhǎng)安市上百家眠”所言之酒即指此酒。

      千層油酥餅:唐僧歷經(jīng)艱險(xiǎn),從印度取經(jīng)回到長(zhǎng)安后,即專心致志翻譯經(jīng)書(shū)。唐高宗李治為表彰唐玄奘百折不撓的毅力和一絲不茍的精神,當(dāng)唐僧譯經(jīng)達(dá)千卷時(shí),特命御廚做“千層油餅”予以賞賜。這種餅就在長(zhǎng)安風(fēng)靡起來(lái)。后經(jīng)歷代相傳至今。此餅以層次分明,色澤金黃,脆而不碎,油香不膩而著稱,被譽(yù)為“西秦第一點(diǎn)”。

      涼皮:又稱“釀皮子”,從唐代冷淘面演變而來(lái)。其面皮選料精良,工藝嚴(yán)謹(jǐn),調(diào)味講究,以“白、薄、光、軟、筋、香”而聞名,味酸、辣,涼爽可口,宜于夏天食用。如今是關(guān)中西府的重要名吃。

      黃桂柿子餅:以臨潼特產(chǎn)“火晶柿子”和特粉攙和作皮,再配以黃桂、玫瑰、桃仁、白糖、冰糖、青紅絲,上等板油攪拌作餡,用木炭火架起整鍋烘烤而成,表面呈金黃色,吃在嘴里,綿軟香甜,是每年秋冬季節(jié)時(shí)令佳品。相傳明末李自成起義,在西安建立大順政權(quán)后,立即率義軍進(jìn)攻北京。時(shí)值荒年,糧食短缺,農(nóng)民便把臨潼的火晶柿子和面粉烙成餅子,供給義軍食用,以充軍糧。后來(lái)農(nóng)民為了紀(jì)念闖王李自成,每年都烙柿子餅,經(jīng)多年加工改進(jìn)而成為西安的獨(dú)特風(fēng)味。

      梆梆面:是漢中市的風(fēng)味食品,由上等面粉精制而成。用醬油、醋、味精、花椒等佐料調(diào)入面湯,撈入面條,淋上豬油即成。其特點(diǎn)是酸辣鮮香。真正的陜西話叫做“biangbiang面”。是很地道的秦地風(fēng)味(辣),吃起來(lái)十分過(guò)癮!

      炒粉魚(yú):一種形似小魚(yú),狀如蝌蚪的食品,是西安市有名的風(fēng)味小吃,也是夏令時(shí)節(jié)理想的消暑食品。其風(fēng)味特點(diǎn)是滑潤(rùn)綿軟、蔥花噴香、物美價(jià)廉。扯面:關(guān)中地區(qū)的傳統(tǒng)面食小吃,已有300多年的歷史。主要原料為上白面粉、雞蛋、菠菜、紅蘿卜、調(diào)味品等。制作時(shí)先將面粉用鹽水和好,用濕布蓋好放置1小時(shí)以上,再調(diào)到較軟程度后搟成較厚較寬面片,然后手拿兩端,扯成薄而未斷的面片,入沸水鍋煮熟撈出,加調(diào)料和辣子粉,用燒熱的油潑后攪拌食之。特點(diǎn)是色澤協(xié)調(diào)、光滑柔韌、淡雅清香。

      鍋盔:始創(chuàng)于唐代。傳說(shuō)修乾陵時(shí),工程浩大,人數(shù)眾多,造膳難,工士自用頭盔烙食而成,現(xiàn)用鐵鍋烙制。料選精粉,細(xì)面壓桿,慢火淺鍋烘烤,體呈圓狀,直徑尺多,厚約寸許。鍋盔外表斑黃,切口砂白,酥活適口,能久放,便攜帶。

      賈三灌湯包子:名頭最大、字號(hào)最為響亮的西安小吃之一。賈三灌湯包子形狀就像石榴,特具西安特色,飽含著對(duì)人們的美好祝愿。包子烹制工藝考究,以秦川牛肉為餡,骨髓配湯,皮薄如紙,晶瑩剔透,餡嫩含湯,佐料濃香。以小籠強(qiáng)火快速蒸熟,趁熱上桌,再配以八寶粥或黑米羹,將美味盡皆包裹,色香味俱全,妙不可言。

      酸湯水餃:是一種歷史古老的風(fēng)味小吃,具有1000多年的歷史。酸湯水餃?zhǔn)前蜒蛉馑湻旁谔刂频乃釡珒?nèi)食用。酸湯含蝦皮、熟芝麻、香菜末、韭菜末、牛油、香油、雞油、甜醋、醬油等13種調(diào)料。肉夾饃:在西安,老樊家?guī)缀醭闪伺D汁肉的代名詞。臘汁肉起源于戰(zhàn)國(guó),當(dāng)時(shí)稱“寒肉”,經(jīng)世代流傳、演變,遂成今日之秦味臘汁肉。樊記臘汁肉已有近百年歷史,由一姓樊小販所創(chuàng)。由于其選料精、調(diào)味全、火功到,又經(jīng)長(zhǎng)時(shí)間煨制,顏色紅潤(rùn)、軟爛醇香、久貯不變。食者有“肥肉吃了不膩口,瘦肉無(wú)渣滿口油,不用牙咬肉自爛,食后余香久不散”之贊譽(yù)。近年來(lái),在制作工藝上嚴(yán)格執(zhí)行操作規(guī)程,加大了瘦肉比例和香度,使其更加濃郁噴香,深受食者歡迎。用剛出爐的白吉饃夾著吃,則饃香肉酥,回味無(wú)窮。

      歧山面:陜西的臊子面歷史悠久,清代已經(jīng)很馳名。以薄、筋、光、煎、稀、汪、酸、辣、香而聞名,用精白面粉、豬肉、黃花菜、雞蛋、木耳、豆腐、蒜苗等原料和多種調(diào)味品制成。其基本制作工藝是:面條要用手搟成,并達(dá)到面薄條細(xì)、筋韌光滑、軟硬適度的標(biāo)準(zhǔn)。做臊子是先將豬肉切成薄片,入熱油鍋烹炒,同時(shí)加入生姜、食鹽、調(diào)料面、辣面和陳醋炒透即成。把豆腐、黃花菜、木耳炒好為底菜,雞蛋攤成蛋皮,切成棱形小片,加切小的蒜苗做漂菜。吃時(shí)先將面條煮熟撈入碗內(nèi),打入底菜,再澆湯,放臊子和漂菜。

      岐山面要求寬湯,即湯多面少,并突出酸辣味。所謂煎、汪即面條要熱的燙嘴、油要多,才能體現(xiàn)此面的特色。岐山面是一種高碳水化合物、高飽和脂肪酸的地方特色面食。

      西安有名小吃全功略~ 1.羊肉泡饃

      a 弘伊興泡饃館。位于長(zhǎng)安南路西側(cè),陜西師大對(duì)面。走進(jìn)飯館,找一個(gè)靠墻的位置坐下(便于防賊。沒(méi)有菜單。又多了半斤酸湯水餃。后來(lái)一問(wèn),5元錢半斤,30個(gè),泡饃要羊肉的還是牛肉的?普通的還是優(yōu)質(zhì)的?饃要不要小炒?湯多還是湯少?水盆,口湯還是干拷?

      b 西安本地人最喜歡的是北廣濟(jì)街的老劉家和小皮院的老米家泡饃,絕對(duì)正宗,5元一碗,吃泡饃普通的即可,除非很愛(ài)吃肉。北廣濟(jì)街是西大街向北的一條路,從鼓樓向西走大概200米就到。進(jìn)去不遠(yuǎn)就能看到老劉家的泡饃,再向北一直走大概150米就是老米家泡饃。兩者相比老米家要更好些。最好不要飯口去,人很多。菊花園老馬家得最好吃,南稍門(mén)的“建基”也不錯(cuò)。

      c 南大街和湘子廟街口有一牛羊肉小炒泡饃,5元一碗兩個(gè)饃,湯濃味正,特好吃。d去胡家廟菜市場(chǎng)對(duì)面的泡饃館去吃!要優(yōu)質(zhì)得!打車去都知道司機(jī)!8元/碗 e 同盛祥的羊肉泡饃(13.80元/份), 很膩, 吃了1/3就放棄了, 感覺(jué)還是它附送的蒜頭好吃些, 還點(diǎn)了水盆羊肉(13.80元/份), 盡管羊肉蠻多的也燒的很酥, 因?yàn)楹孟蠛脱蛉馀蒺x的湯是一樣的, 還是覺(jué)的膩味, 據(jù)說(shuō)同盛祥的口味還算是清淡的了。f 回民街上“老四家的牛羊肉泡饃店”,他家烤的羊肉又新鮮又大塊,咸辣適中。2.2.賈三灌湯包子

      賈三湯包位于回民街。6元一籠10個(gè)小包子,餡只有羊肉、三鮮、牛肉等。賈三灌湯包子老店 西羊市西段121號(hào) 7279114 賈三灌湯包子新店 北院門(mén)111號(hào) 7257507 八寶甜粥★2.5元是最好的。除糯米外有百合、蓮子、荸薺、紅豆、花生仁、枸杞、山楂等,還有一種叫不出名字的植物柔軟的細(xì)根。回民街已經(jīng)拆遷,原有許多小吃店都搬遷了,現(xiàn)在那里十分荒涼。賈三灌湯包搬到中間一條小街了。2.3.肉夾饃

      a“老樊家”是正根,“樊記”有欺名盜世之嫌,而“老樊家”不好找,“樊記”就在竹笆市,乘由長(zhǎng)安芙蓉園開(kāi)往火車站的610,在鼓樓站下車即是(千萬(wàn)別坐反了,這段路是單行)。普通饃2.5元一個(gè),優(yōu)質(zhì)的4元一個(gè)。樊記臘汁肉夾饃:鐘鼓樓廣場(chǎng)南麗晶酒店西側(cè)第一個(gè)路口往南拐,阿房宮電影院旁邊。建議吃優(yōu)質(zhì)饃,4元一個(gè),里面有叫撈糟,實(shí)為酒釀。配上雞汁餛飩 1.5元/碗, 再加上杯熱稠酒(1元/杯, 它家的也很好喝)。

      西安樊記臘汁肉店(鼓樓對(duì)面)竹笆市45號(hào) 7273917 b 王老三肉夾饃,就在楊家村口,普通的1元一個(gè)。

      c竹笆市王恒肉夾模。一個(gè)肥瘦的,一個(gè)全瘦的,各五塊和四塊五。

      d 秦豫肉夾饃,搬到騾馬市街上了。秦豫肉夾饃(東木頭市,碑林北面)、劉峰肉夾饃(南門(mén)外振興路口)2.4.新華甜食店

      新華甜食店:大麥?zhǔn)薪帧?/p>

      直到那碗鎮(zhèn)店之寶的蜜汁八寶稀飯端出來(lái)后 用宮廷式的碗裝著,里面的米一粒粒清晰可見(jiàn) 八寶就是葡萄干,枸杞,蓮子,山楂,紅棗

      東南亞甑(zèng)糕王:北廣濟(jì)街和西羊寺交叉的路口。

      用棗泥和著糯米,有新鮮的還有真空賣,這家店斜對(duì)面有一家很小的甜點(diǎn)店,很有名。豌豆黃,是用豆泥夾著棗肉,切成三角形一塊?!瓣怠弊帧饕侵刚舾獾娜萜?,據(jù)傳在原始社會(huì)后期已經(jīng)產(chǎn)生。

      滾雪球牌小奶糕,號(hào)稱是鐘樓牌新包裝,有五種口味,香竽、原味最濃郁,個(gè)人覺(jué)得是用羊奶做的。柿餅,用柿泥煎的餅,像南瓜餅的做法。2.5.葫蘆頭泡饃

      a西安最有名的葫蘆頭泡饃當(dāng)屬“春發(fā)生”,位于粉巷,南大街向南走?!按喊l(fā)生”最有名的是“肥腸葫蘆頭泡饃”,12元一碗,兩個(gè)饃。吃葫蘆頭有一點(diǎn)要注意,不能像羊肉泡饃那樣把饃掰的那么碎,只要掰成蒜瓣那么大就好了。較之羊肉泡饃,葫蘆頭的要清淡許多,更適合口味較輕的人食用。葫蘆頭的菜單和其他炒菜的菜單是分開(kāi)的,但有意思的是葫蘆頭菜單一概沒(méi)有定價(jià),不嫌麻煩,您就挨個(gè)問(wèn)服務(wù)員吧。平心而論,炒菜的味道還不錯(cuò),尤其是以肥腸為原料的那幾種,但如果您就是為了吃葫蘆頭,路邊小店5元一碗,百分之九十的可能性比“春發(fā)生”強(qiáng)。從竹笆市向南走到頭到粉巷右拐100米就到了。2.6.紅紅酸菜炒米

      (在鼓樓的仿古街中間)——就是牛肉絲、青辣椒以及白菜做的泡菜炒米飯,4元一份。另外酸梅湯杯子比較有特色;酸梅湯: 1元一杯,不過(guò)還是“紅紅”家的最好喝。

      2.7.定家小酥肉 8元。(在大皮院尾)—羊肉切成一條條的,然后每條都有用淀粉裹住,用紗布包好上蒸籠蒸。一般都是一瓷盆肉加一碗米粉。建議在西安的第二天之后再去吃,比較能品出滋味來(lái)。這家店另外一個(gè)亮點(diǎn)是飲料—酸梅湯。2.8.餃子宴

      a德發(fā)長(zhǎng),位于鼓樓邊上,以餃子宴和新派海菜著稱。一樓大廳就是餃子快餐,配零星涼菜??墒且燥溩友缰Q的德發(fā)長(zhǎng)一樓,卻只供應(yīng)三鮮和羊肉兩種餡。一盤(pán)三鮮(6元15個(gè)),一盤(pán)羊肉(5元15個(gè)),然后拿著取餃子的條就坐在位子上耐心等待。一會(huì)兒,一個(gè)服務(wù)員推著一輛裝滿餃子的小車就過(guò)來(lái)了,車上掛著一個(gè)牌子,上書(shū)“羊肉”兩字。服務(wù)員接過(guò)餃子條,很麻利地拿起一個(gè)空盤(pán)子,往里就倒了一盤(pán)子餃子。

      挑了那家鼎鼎大名的德發(fā)長(zhǎng) 結(jié)果,這家是我西安行中最最失望的一家!!2.9.烤肉

      a高家烤肉館(在大皮院口)據(jù)觀察來(lái)這里吃的都是當(dāng)?shù)厝?,而且他們家的東西很便宜,比如烤魚(yú),人家一條就賣15元,他們家兩條串在一起算一串,才10元。另外,他們家不是那種在街邊有門(mén)面的,在路邊你只能看到一個(gè)窄窄的路口,有個(gè)燈箱寫(xiě)著高家烤肉館,順著巷子走進(jìn)去,會(huì)看到一戶人家,這里就是了。羊肉0.2元一串,牛肚0.3元一串,酸梅湯1元,八寶稀飯2.5 b平娃烤肉館(仿古街中間)最少十串!烤肉評(píng)價(jià)不高

      c 西安的燒烤是很有名的,北院門(mén)一條街都是燒烤,煙熏火燎,嗆得你喘不過(guò)氣來(lái),烤肉、烤魚(yú),只要有胃口,你就吃吧。我挺喜歡吃烤馬面魚(yú),就是貴點(diǎn),15元一條。

      注意:北院門(mén)的幾乎所有店鋪都不免費(fèi)提供餐巾紙,好像是五毛一包。

      d 強(qiáng)烈推薦文藝路建西街路口的山羊烤肉莊, 價(jià)格和平娃一樣, 量卻是平娃的一倍, 而且口味適中, 羊肉1元/串, 牛肉0.5元/串,涮牛肚0.5/串 , 還有很好吃的烤油餅2元/個(gè), 胃口好的還能點(diǎn)個(gè)烤羊排, 涼菜里的黃瓜蘸醬(醬是甜的, 很特別),涼拌金針菇和蕨菜涼粉都不錯(cuò), 也就6,7元/盆, 手抓羊肉(20元/小份)和狗肉鍋?zhàn)?20元/鍋), 還有超好喝的漢斯菠籮味果啤(3元/瓶),青島啤酒出的, 很清爽的口感。

      2.10.烏家小炒

      (在大皮院中間)—其實(shí)就是泡饃,羊肉丁、西紅柿、青菜、碎饃等放在一起,對(duì)于吃不慣西北泡饃的朋友來(lái)說(shuō)這是不錯(cuò)的改良泡饃。比老孫家吃的要好多多了。

      2.11.岐山面

      建國(guó)路上北頭的一家岐山面館。服務(wù)員介紹的時(shí)候說(shuō)一份6碗10元錢,結(jié)果面上來(lái)是湯碗一樣大的6個(gè)碗,紅紅的,酸酸辣辣的湯。還好后來(lái)發(fā)現(xiàn)里面的面條果然只有兩大口的樣子,其余都是各種各樣菜和肉的臊子。胖嫂面館★:在東大街靠近鐘樓北邊一條案板街。鮮艷的橙紅色湯面上漂浮著四季豆、土豆、胡蘿卜、肉丁、豆腐丁、西紅柿等,紅黃白黑青,花花綠綠。賈平凹的“ 西安小吃小識(shí)錄”,文章里寫(xiě)到歧山面有九字令:韌柔光,酸辣汪,煎稀香。韌柔光是指面條之質(zhì),酸辣汪是指調(diào)料之質(zhì),煎稀香是指湯水之質(zhì)。在鐘樓國(guó)際青年旅社里可以叫到正大歧山臊子面的外買,是偶然發(fā)現(xiàn),味道很好。他家還有臊子夾饃,非常好吃。不過(guò)這里送外賣沒(méi)有碗,要自己借大面碗。外賣是用塑料袋裝的。2.12.清真小吃

      從鼓樓仿古街直下走到頭是市政府,向西拐就是大皮院。

      清真小吃街在鼓樓的北面,也叫北大街,而漢民的小吃街,在城東的東新街上。西安的清真小吃街在鼓樓的到市政府那街上。

      牽人麻辣粉:就在德福巷口,很好吃的麻辣粉,在西安開(kāi)有好幾家分店,粉巷這家是總店,雖然門(mén)面很小。

      鹵汁涼粉:大皮院走到頭正對(duì)著那家。天冷了不賣的。

      糊辣湯:是很多西安人最愛(ài)吃的早點(diǎn)。西安到處是賣糊辣湯的,但還是回民坊上的好吃。老李家糊辣湯非常好,記住,是早點(diǎn)?;孛窠掷镉幸环N叫肉丸糊辣湯的,很多見(jiàn),也是泡饃吃的。湯呈藕粉狀,里面有肉丸、土豆丁、胡蘿卜丁等等,算是蔬菜最多的一種面食了,而且很便宜,加上饃一共2元錢。

      清真炒菜:小庭院比較好,價(jià)格公道,味道不錯(cuò),吃不慣別的就去他家吧。需要注意的:西安的回民街有不少回民小吃(別在回民的地方吃豬肉和喝酒)?;孛窠种虚g有一個(gè)炸柿子餅的!0.5元/個(gè),有各種味道的!它是用面活柿子榨成的!

      一分利面館的牛肉哨子面。

      回坊人家,回民街里最大的一家餐館,價(jià)格比其他家稍貴,但很干凈。

      回民不用點(diǎn)菜下單的,服務(wù)員端來(lái)什么你想吃就拿,不分客人進(jìn)來(lái)的先后,所以有些點(diǎn)了也等不到。土特產(chǎn)在回民街買價(jià)格較便宜,品種也較多。象核桃(買28元/斤的較好吃),彌候桃干,清真臘牛肉,大棗。2.13.冰峰汽水

      冰峰汽水,除了大飯店,到處都有賣的,1塊錢1瓶。是西安本地產(chǎn)幾十的汽水了。

      2.14.小奶糕

      冷飲:在東大街把口的開(kāi)元商城下面買的鐘樓小奶糕,真的很好吃,特別推薦花生的,也很有特色。5毛錢的價(jià)格很值。2.15.米皮&粉蒸肉&其他

      南大街第一個(gè)向西去的巷子,朱選民米皮。

      在一家很老的回民館吃了粉蒸肉,一碗大概有3兩多,是牛肉塊和江米面蒸出來(lái)的,需要趁熱吃,味道很有特色。

      還有雜羔湯,就是羊雜碎湯泡饃。一大碗3塊5,特實(shí)惠,里邊有很多大塊的羊雜,味道鮮極了。

      抵達(dá)北廣濟(jì)街,沿街向北,在廣濟(jì)街與廟后街交界路口 其他:

      回味樓,大盤(pán)雞、丁丁炒面、碎肉炒面、一品蛋酥,都不錯(cuò)。涼糕是糯米粉做的,上下兩層糕中間夾著棗泥,和另一種白糯米做成大個(gè)粽子狀,切成一塊塊的,涂上很多蜂蜜和豆沙放入飯盒,可以用牙簽邊走邊吃,也不錯(cuò)!八寶鏡糕2元。鏡糕是糯米粉蒸熟后壓在小模具里,放在小屜上蒸幾分鐘,熟了后放點(diǎn)蜜餞,蘸上白糖,雖然只有薄薄圓圓的一片,桂花香飄,遍地都有,很隨意的小吃。蜂蜜涼糕、蜜汁涼粽子,3元一份,還不錯(cuò)。

      老徐家柿子餅鋪?zhàn)印铮簭陌偈⑴赃叺谋睆V濟(jì)街去回民街。賈永信柿子餅★★:走過(guò)西羊市來(lái)到北院門(mén)。

      柿子餅是用西安臨潼產(chǎn)的新鮮火晶柿子(比核桃略大,無(wú)硬核),去皮摘蒂和上面粉成火紅色面胚,再包裹上豆沙、核桃仁、芝麻、花生、棗泥等各種餡料雙面油煎而成。柿子餅金紅色,拿在手上小巧可愛(ài),輕輕咬上一口,面餅外脆里軟,桂花香氣飄溢,蘊(yùn)涵著十分明顯的柿子味道,餡甜而燙嘴,要小心!因?yàn)橐眯迈r柿子制作,而柿子的保存時(shí)間有限,所以柿子餅一般只有秋冬兩季才有供應(yīng)。綠豆糕,5角一塊,好吃。粉巷的家樂(lè)超市的思鄉(xiāng)綠豆糕★。

      醪糟,那種感覺(jué)有點(diǎn)像豆汁,初嘗不太適應(yīng),一旦習(xí)慣,難以割舍。油酥千層肉餅,挺脆的。

      陜西的柿子,玉米和蘋(píng)果都非常好吃。

      石子餅:從兵馬俑出來(lái)等車的地方。搟成一分錢硬幣厚薄、盤(pán)子大小的圓餅,平鋪在鐵鍋里加熱的黑色小鵝卵石上,再蓋一層黑石子,烘焙數(shù)分鐘即成。發(fā)現(xiàn)超市里有袋裝的賣,每個(gè)只有巴掌大小,分咸、辣、果、甜等口味,只買了咸味的帶回來(lái)嘗,也非常香酥,是方便攜帶。搟面皮:案板街的胖嫂面館 長(zhǎng)條寬扁狀而呈鮮亮的透明色,涼拌佐以辣椒、芝麻、油鹽等,咬起來(lái)十分筋斗,口感厚實(shí)又滑爽,當(dāng)?shù)厝耸呛軔?ài)吃的。2.17.小吃名店

      中華小吃城 南大街113號(hào) 7265635 西關(guān)牛羊肉泡饃館 西關(guān)正街 8626308 同盛祥牛羊肉泡饃館 鐘鼓樓廣場(chǎng) 7272170,13.8一碗,量大,水圍城。麻醬涼皮,是面皮做的,口感很厚實(shí),又濃又香又辣,只要3元錢。春發(fā)生葫蘆頭泡饃館 南院門(mén)20號(hào)市委對(duì)面 7272680 鼓樓鍋貼館 西大街鐘鼓樓廣場(chǎng) 7277465 劉記 南院門(mén)大車家巷內(nèi) 3067077 王大媽面屋總店 南二環(huán)朱雀路什字西南角 5260145 三原老黃家西安分店:文藝路建設(shè)西街副16號(hào) 火勁柿子和石榴,以及那家老蘭家烤肉 西安小吃自助餐:

      在東大街(距鐘樓一站地)有個(gè)西安飯莊★是專門(mén)吃西安小吃的,19元/人。樓上也可以點(diǎn)菜, 強(qiáng)烈推薦。西安涼粉,蜜汁大棗,棗末糊。五一飯店(東大街回走100多米。)的中式快餐很誘人,各色小吃至少有二、三十種,令人垂涎,當(dāng)街外賣的“五一大包”(飯店的特色包子,蝦肉包最好吃)味道更佳。本地人大都在這里吃而不去回民一條街。

      回民街并沒(méi)有在地圖上明示,它應(yīng)該是指鼓樓北側(cè)的北院門(mén)、西羊市、大皮院、北廣濟(jì)街等圍繞清真寺的一帶回民居住地。2.18.超市

      1)鐘樓往南走有個(gè)粉巷,那里有個(gè)家樂(lè)超市算是大的了。

      2)大型超市里有專門(mén)的陜西特產(chǎn)柜臺(tái), 象水晶餅, 綠豆糕, 野核桃, 四味棗等等 比機(jī)場(chǎng)里要便宜許多, 也比回民街的要干凈, 可以多買些。還有飲用水, 可以買農(nóng)夫山泉和娃哈哈的, 千萬(wàn)別買康師傅的, 一股怪味。世紀(jì)金花地下一層的超市買水是最便宜

      3)回民街上從市政府那個(gè)街口進(jìn)去的賈永信超市里東西很貴,同樣的特產(chǎn)在鐘樓開(kāi)元超市里比他要便宜。

      第三篇:精選西安旅游導(dǎo)游詞

      西安是我國(guó)六朝古都所在地,文化歷史悠久,以下是小編整理的西安旅游導(dǎo)游詞,歡迎參考閱讀!

      西安旅游導(dǎo)游詞

      1西安,古稱長(zhǎng)安,是當(dāng)年意大利探險(xiǎn)家馬可·波羅筆下《馬可·波羅游記》中著名的古絲綢之路的起點(diǎn)。西安,這座永恒的城市,就像一部活的史書(shū),一幕幕,一頁(yè)頁(yè)記錄著中華民族的滄桑巨變。早在 100 多萬(wàn)年前的舊石器時(shí)代,以西安的藍(lán)田猿人為代表,揭開(kāi)了人類文明的一頁(yè)。到六、七千年前的新石器時(shí)代,先民們?cè)诖私ㄔ炝舜迓洹肫麓?,成為?*系氏族公社繁榮時(shí)期的典型代表。西安的建城史已有 3100 多年。歷史上周、秦、漢、唐等十二個(gè)王朝在此建都,歷時(shí) 1100 多年。中國(guó)意為中央之國(guó),中國(guó)的中心之點(diǎn)或叫大地原點(diǎn)就在西安,難怪“秦中自古帝王州”!秦始皇在此建造了中國(guó)建筑史上的杰作阿房宮,在驪山建造了規(guī)模巨大、埋藏極為豐富的歷史寶庫(kù)秦始皇陵,在漢唐時(shí)期,西安就是中國(guó)政治、經(jīng)濟(jì)、文化和對(duì)外交流的中心,是當(dāng)時(shí)人口最早超過(guò)百萬(wàn)的國(guó)際大都市?!皷|有羅馬,西有長(zhǎng)安”是西安在世界歷史地位的寫(xiě)照。至今,西安與世界名城雅典、開(kāi)羅、羅馬齊名,同被譽(yù)為世界四大文明古都。西安無(wú)愧于華夏文明的發(fā)源地。

      “西安文物甲天下”,深厚的歷史文化積淀和浩瀚的文物古跡遺存使西安享有“天然歷史博物館”的美稱。

      秦始皇兵馬俑坑被譽(yù)為“世界第八大奇跡”,秦始皇陵是最早列入世界遺產(chǎn)名錄的中國(guó)遺跡,明代古城墻是至今世界上保存最完整、規(guī)模最宏大的古城墻遺址。近年,漢陽(yáng)陵的開(kāi)發(fā)又一次造成了世界的轟動(dòng),其出土的裸體彩俑被譽(yù)為“東方維納斯”。市內(nèi)有 6000 多年歷史的半坡遺址;明代建立的藏石碑三千多塊、被譽(yù)為石質(zhì)歷史書(shū)庫(kù)的碑林博物館;文物儲(chǔ)藏量全國(guó)之最的陜西歷史博物館;唐代著名高僧玄奘法師譯經(jīng)之地大雁塔;西北歷史最長(zhǎng)的清真寺化覺(jué)巷清真大寺,以及西安旅游區(qū)內(nèi)的華夏始祖軒轅黃帝之陵黃帝陵;漢武帝劉徹之墓?jié)h茂陵;唐女皇武則天與唐高宗李治的合葬墓唐乾陵;釋伽牟尼佛指舍利存放之處法門(mén)寺等馳名中外的景點(diǎn)。

      自然景觀峭拔險(xiǎn)峻,境內(nèi)及附近有西岳華山、終南山、太白山、王順山、驪山、樓觀臺(tái)、輞川溶洞等風(fēng)景名勝區(qū),更有周邊的森林公園十余個(gè)。人文山水、古城新姿交相輝映,構(gòu)成古老西安特有的神韻風(fēng)姿。

      西安的旅游商品生產(chǎn)具有濃厚的地方特色,秦俑仿制品、仿古青銅器、秦繡、玉器、絲綢、工藝瓷器、戶縣農(nóng)民畫(huà)、唐三彩、瓷板畫(huà)、景觀表、麥桿畫(huà)、關(guān)中剪紙等民間工藝品十分豐富。全市有推薦旅游購(gòu)物商店 15 家,可以較好滿足游客不同層次的購(gòu)物需要。同時(shí),西安的餐飲業(yè)可以供應(yīng)全國(guó)八大菜系及歐美西餐、日本料理、韓國(guó)燒烤、東南亞風(fēng)味、清真等各式美味佳肴,發(fā)掘仿唐菜 120 多種,形成以唐菜為主的傳統(tǒng)菜和以陜菜為主的現(xiàn)代菜。在全國(guó)飲食業(yè)優(yōu)質(zhì)產(chǎn)品評(píng)選中西安的餃子宴,羊肉泡饃等八個(gè)品種榮獲金鼎獎(jiǎng),特別是西安獨(dú)具特色的地方小吃吸引著八方賓客。

      西安自古以來(lái)就是交通要道,是中國(guó)東部通往西北、西南以及西亞各國(guó)的咽喉。如今鐵路、公路、航空交織成網(wǎng),四通八達(dá),把西安與全國(guó)連成一體。中國(guó)四大國(guó)際空港之一的西安咸陽(yáng)國(guó)際機(jī)場(chǎng)與國(guó)內(nèi)各城市開(kāi)辟有 100 多條航線。

      如今的西安,又是一座以機(jī)械、電子、電工、航空航天、輕工工業(yè)為主,擁有 500 多個(gè)科研機(jī)構(gòu)、40 余所大專院校,經(jīng)濟(jì)繁榮、環(huán)境優(yōu)美、文明整潔的現(xiàn)代城市。

      西安旅游導(dǎo)游詞

      2西安碑林創(chuàng)建于公元1087年,是收藏我國(guó)古代碑石時(shí)間最早、數(shù)目最大的一座藝術(shù)寶庫(kù),陳從漢到清的各代碑石、墓志共一千多塊。這里碑石如林,故名碑林。西安碑林內(nèi)容豐富,它既是我國(guó)古代書(shū)法藝術(shù)的寶庫(kù),又匯集了古代的文獻(xiàn)典籍和石刻圖案;記述了我國(guó)文化發(fā)展的部分成就,反映了中外文化交流的史實(shí),因而馳名中外。

      西安碑林是在保存唐代石經(jīng)的基礎(chǔ)上發(fā)展起來(lái)的。唐代人所稱的石經(jīng),包括公元745年唐玄宗李隆基書(shū)寫(xiě)的《石臺(tái)孝經(jīng)》和公元837年刻成的《開(kāi)成石經(jīng)》。

      碑林第一陳列室前是專為陳列《石臺(tái)孝經(jīng)》修蓋的碑亭。《石臺(tái)孝經(jīng)》是碑林最大的石碑,刻于公元745年,是唐玄宗李隆基親自書(shū)寫(xiě)的。孝經(jīng)是孔子的學(xué)生曾參編篡,專門(mén)講孝道的。前面一部分是李隆基為孝經(jīng)作的序。玄宗為孝經(jīng)寫(xiě)序的目的是表示自己要以“孝”治理天下。后面是孝經(jīng)原文,小字是玄宗為孝經(jīng)作的注釋。底座由3層石臺(tái)組成,上刻有生動(dòng)的線刻畫(huà),有蔓草、獅子花等,是唐中期比較有代表性的,上面是浮雕卷云瑞獸。此碑由4塊石頭組成,底下有石臺(tái),因而稱“石臺(tái)孝經(jīng)”。

      碑林第一陳列室主要陳列《開(kāi)成石經(jīng)》,內(nèi)容包括《周易》、《尚書(shū)》、《詩(shī)經(jīng)》、《周禮》、《儀禮》、《禮記》、《春秋左氏傳》、《春秋公羊傳》、《春秋谷梁傳》、《論語(yǔ)》、《孝經(jīng)》、《爾雅》等12部經(jīng)書(shū),計(jì)650252字,用石114方,兩面刻文。清代補(bǔ)刻的《孟子》17面3萬(wàn)余字也陳列于此,合稱《十三經(jīng)》。12部經(jīng)書(shū)是封建社會(huì)知識(shí)分子必讀之書(shū)。因?yàn)楫?dāng)時(shí)印刷術(shù)不很發(fā)達(dá),為了避免文人學(xué)士們?cè)趥鞒?jīng)書(shū)時(shí)出現(xiàn)錯(cuò)誤,并能永久保存,就把這12部經(jīng)書(shū)刻在石碑上,作為范本,立于長(zhǎng)安城國(guó)子監(jiān)內(nèi),供人們校對(duì)。我國(guó)自東漢開(kāi)始,曾先后7次刻經(jīng)?!堕_(kāi)成石經(jīng)》是目前僅存的一套完整的石刻經(jīng)書(shū)。

      西安旅游景點(diǎn)導(dǎo)游詞范文1:南泥灣

      位于延安城東南45公里處。南泥灣是中國(guó)共產(chǎn)黨軍墾事業(yè)的發(fā)祥地,是南泥灣精神的誕生地。百年前,這里人煙稠密,水源充足,土地肥沃,生產(chǎn)和經(jīng)濟(jì)都十分繁榮。到了清明中期,清統(tǒng)治者挑起回漢民族糾紛,互相殘殺,使這里變成野草叢生、荊棘遍野,人跡稀少,野獸出沒(méi)的荒涼之地。

      抗日戰(zhàn)爭(zhēng)進(jìn)入相持階段以后,蔣國(guó)隊(duì)向共產(chǎn)黨、八路軍抗日根據(jù)地發(fā)動(dòng)了大規(guī)模掃蕩,并調(diào)集幾十萬(wàn)隊(duì)包圍陜甘寧邊區(qū),實(shí)行嚴(yán)密的軍事包圍和經(jīng)濟(jì)封鎖叫囂著要“餓死八路軍,困死八路軍”。當(dāng)時(shí),邊區(qū)地廣人稀,土地貧瘠,僅有140萬(wàn)群眾,要擔(dān)負(fù)起幾萬(wàn)干部、戰(zhàn)士和學(xué)生的吃穿用,實(shí)在是一件難事。正如毛澤東說(shuō)的那樣“我們?cè)?jīng)弄到幾乎沒(méi)有衣穿,沒(méi)有油吃、沒(méi)有紙、沒(méi)有菜、戰(zhàn)士沒(méi)有鞋襪,工作人員在冬天沒(méi)有被蓋……我們的困難真是大極了”。

      在這嚴(yán)峻的歷史關(guān)頭,1939年2月黨中央、毛澤東及時(shí)地提出了“發(fā)展經(jīng)濟(jì)、保障供給”的總方針和“自己動(dòng)手”、“豐衣足食”的號(hào)召,動(dòng)員廣大軍民開(kāi)展大生產(chǎn)運(yùn)動(dòng)。1940年,朱德總司令根據(jù)中共中央關(guān)于開(kāi)展大生產(chǎn)運(yùn)動(dòng)的指示精神親赴南泥灣踏勘調(diào)查,決定在此屯墾自給。1941 年春,八路軍一二0師三五九旅長(zhǎng)兼政委王震的率領(lǐng)下,奉命開(kāi)進(jìn)南泥灣,披荊斬棘,開(kāi)荒種地,風(fēng)餐露宿,戰(zhàn)勝重重困難,量的物質(zhì)財(cái)富。

      西安旅游導(dǎo)游詞

      3黃河是中華民族的母親河,黃河壺口瀑布是鑲嵌在九曲黃河之上的一顆璀璨的明珠,是北方最富有特色的大型瀑布奇景,名列全國(guó)第二大瀑布。1988年被列為國(guó)家級(jí)自然風(fēng)景名勝區(qū),1991年被國(guó)家旅游局評(píng)為“中國(guó)旅游勝地四十佳”之一。

      河水流經(jīng)此地,以其巨大的力量,瀉入河谷,沖入深槽,頓時(shí),濤聲轟鳴,水霧升空,驚天動(dòng)地,氣吞山河,顯示出“黃河之水天上來(lái),奔流到海不復(fù)回”的宏偉氣概。壺口瀑布呈現(xiàn)出“水底冒煙”、“霓虹戲水”、“晴空灑雨”、“旱天鳴雷”、“山飛海立”等奇特幻景。抗日戰(zhàn)爭(zhēng)時(shí)期,革命詩(shī)人光末然,音樂(lè)家洗星海,就是在黃河壯麗情景的激勵(lì)下,譜寫(xiě)出鼓舞人民斗志的《黃河大合唱》。1987年9月,黃河漂流隊(duì)探險(xiǎn)隊(duì)員王來(lái)安乘坐由40個(gè)汽車輪胎纏結(jié)成的密封艙,順瀑布而下,揭開(kāi)了人類在壺口體育探險(xiǎn)的序幕,人稱“黃河第一漂”。其后,天津勇士張志強(qiáng)在黃河大橋跳懸索,人稱“中華第一跳”。

      1996年8月,河南馮九山橫跨壺口走鋼纜,創(chuàng)下高空走鋼纜最長(zhǎng)的世界吉尼斯紀(jì)錄,被譽(yù)為“華夏第一走”。1997年6月1日為迎接香港回歸,“亞洲第一飛人”柯受良駕車飛越壺口,創(chuàng)下世界跨度最大的飛車世界紀(jì)錄,被稱為“世界第一飛”,中保財(cái)產(chǎn)保險(xiǎn)有限公司的冠名巨幅廣告被載入世界吉尼斯紀(jì)錄大全,同時(shí)創(chuàng)造了另一項(xiàng)新的世界之最。1999年6月20日,山西吉縣青年農(nóng)民朱朝輝騎摩托車飛越壺口,又創(chuàng)下了新的奇跡。這些奇跡的創(chuàng)造,和壺口瀑布的驚世氣魄相得益彰,使名景和名人的知名度急驟升高,吸引著越來(lái)越多的國(guó)內(nèi)外專家、學(xué)者及游客到此觀光、考察。

      第四篇:西安鐘鼓樓日語(yǔ)導(dǎo)游詞

      鐘樓の案內(nèi)

      鐘樓は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差點(diǎn)にあり、西安の中心です。

      鐘樓が建てられたのは西暦1384年で、明の時(shí)代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、當(dāng)時(shí)そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘樓の位置は中心でなくなり、すこし西側(cè)のほうになってしまいました。それで、もとの鐘樓を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現(xiàn)在の所に鐘樓を造りなおしたのです。

      西安の鐘樓は中國(guó)の數(shù)多くの鐘樓の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時(shí)代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘樓の規(guī)模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。

      明の時(shí)代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮(zhèn)めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘樓を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘樓ができたのだそうです。不思議なことに、鐘樓ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。

      それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、?竜気?を押しつぶそうとして各地に鐘樓を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘樓を造らせたそうです。

      鐘樓と鼓樓は古代に中國(guó)都市の特別の建築です。鐘と鼓は中國(guó)ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は禮器と楽器として使われていましたが、春秋時(shí)代から(紀(jì)元前8世紀(jì))から、軍事指揮に使われるようになりました。中國(guó)の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一體に組み合わせたのは中心地にある鐘樓です。鐘樓は指揮中樞部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時(shí)間を知らせるのですが、緊急の時(shí)には、警報(bào)をしらせ、都市の防衛(wèi)を指揮していました。このような防御システムは明の時(shí)代になって最盛期になり、明の時(shí)代の西安は西北地區(qū)の軍事中心でした。

      鐘樓は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土臺(tái)は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見(jiàn)えますが、実際は二階建ての建物です。

      鐘樓の二階の西側(cè)の壁に?鐘樓記?という石碑が嵌められています。鐘樓全體が移されたことについて記されています。

      元の鐘樓にかかっていた鐘は唐代の景雲(yún)年に作られた景雲(yún)鐘ですが、不思議なことに、今の鐘樓に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。

      建國(guó)後、鐘樓は三度修復(fù)され、昔の面影がそのまま殘されています。鐘樓の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。

      鼓樓

      鐘樓の西側(cè)約1キロあたりのところに鼓樓があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘樓より4年早く著工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復(fù)しました。鼓樓の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓樓と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。

      昔は朝、鐘樓の鐘をつき、暮れるとき、鼓樓の鼓を叩いて、人々に時(shí)間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓樓は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門(mén)があり、鐘樓と同じように、土臺(tái)はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓樓の樓閣の南側(cè)に?文武盛地?という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。

      今の鐘樓と鼓樓の間に広場(chǎng)ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。

      鐘樓と鼓樓の案內(nèi)はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。

      城壁

      西安の城壁は中國(guó)に現(xiàn)存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。

      明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を稱するのを延ばす」という提言に基づき、全國(guó)に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時(shí)代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規(guī)模のおよそ9分の1に縮小されました。

      明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土臺(tái)の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黃土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の內(nèi)外とてっぺんを敷き詰めたのです。

      城壁には120メートルごとに敵臺(tái)が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵臺(tái)の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範(fàn)囲內(nèi)なので、橫から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵臺(tái)が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵樓が造られていました。

      城壁の城門(mén)は城內(nèi)に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門(mén)があり、それぞれ正樓、箭樓、閘樓(こうろう物見(jiàn)やぐら)の三重の城門(mén)あります。閘樓は一番外側(cè)にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。閘樓には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。閘樓の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立體空間となっています。敵が閘樓城門(mén)に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。

      二番目の城門(mén)には箭樓があり、城門(mén)を守るもう一つの防御工事です。閘樓と同じように箭樓の三面が後ろの城壁とつながり、正樓との間がもう一つの甕城となっています。箭樓の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭樓は第一城門(mén)と第三城門(mén)の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。

      正樓は城門(mén)の第三番目の城門(mén)であり、正門(mén)でもあります。正樓と箭樓の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。

      城壁の四つの角には物見(jiàn)やぐらが一つあり、城壁の外側(cè)に突き出ています。その役割は敵臺(tái)と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半徑12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復(fù)でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。

      城壁の外側(cè)に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見(jiàn)張ったりするために造られたのです。內(nèi)側(cè)の姫垣には切れ込みがなく、行ったり來(lái)たりする兵士が落ちないように造られたのです。

      城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長(zhǎng)期保護(hù)には大いに役立ちました。

      城壁の外側(cè)には壕があり、城門(mén)には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城內(nèi)にはいることができなくなります。城門(mén)は東門(mén)が長(zhǎng)楽門(mén)、西門(mén)が安定門(mén)、南門(mén)が永寧門(mén)、北門(mén)が安遠(yuǎn)門(mén)と呼ばれています。

      西安の城壁はかつて規(guī)模の大きい軍事防御システムでした。また中國(guó)に現(xiàn)存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時(shí)代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。

      1983年に城壁の修復(fù)工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環(huán)城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見(jiàn)られない獨(dú)特の夜景です。楽しみにしてください。

      第五篇:西安景點(diǎn)導(dǎo)游詞 日語(yǔ)

      お出迎え

      皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長(zhǎng)い旅、本當(dāng)にお疲れ様でした。私はガイド茲通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滯在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願(yuàn)い申し上げます。

      論語(yǔ)に「朊あり、遠(yuǎn)方より來(lái)る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご來(lái)訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き屆きな點(diǎn)などございましたら、ご遠(yuǎn)慮なくおっしゃってください。

      皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願(yuàn)いいたします。

      皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中國(guó)最古の都でございます。紀(jì)元前11世紀(jì)の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時(shí)代の長(zhǎng)安は、様々な國(guó)からたくさんの人々がこの長(zhǎng)安に集まり、當(dāng)時(shí)としては最大の「100萬(wàn)都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発點(diǎn)はこの西安でございます。これから、***を見(jiàn)學(xué)していきましょう。

      大雁塔と大唐芙蓉園

      皆さん、西安の名所舊跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書(shū)かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時(shí)代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時(shí)、長(zhǎng)安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を攜えて長(zhǎng)安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績(jī)をたたえ、そのことは當(dāng)時(shí)の書(shū)道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。當(dāng)時(shí)、この寺は現(xiàn)在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は當(dāng)初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦爭(zhēng)で上の三層が崩れ落ち、殘った下の部分を修復(fù)したものです。

      ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由來(lái)をご存じでしょうか。

      玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、當(dāng)時(shí)の太宗皇帝に進(jìn)言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀國(guó)に、ある寺があり、ある時(shí)、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境內(nèi)に落ちて死んでしまった。これを見(jiàn)て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。

      こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規(guī)模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現(xiàn)存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時(shí)代のものですが、お寺の大雂寶殿には、釈迦如來(lái)の三身仏と十八羅漢、法堂には阿彌陀仏の像が祭られています。法堂の東側(cè)の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見(jiàn)ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側(cè)には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書(shū)道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中國(guó)古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。

      このように、「大雁塔」は現(xiàn)在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に殘り続けることでしょう。

      大唐芙蓉院は西安の曲江新區(qū)に位置しており、敷地面積は約66萬(wàn)平方?、その中、水域面積は300平方?を占めます。中國(guó)の西北地域で最大の文化公園です。

      華清池

      皆さん、前方の右側(cè)をご覧ください。山が見(jiàn)てきましたね。その山はどんな形に見(jiàn)えますか?そうですね、遠(yuǎn)くから見(jiàn)ると青い馬のように見(jiàn)えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。

      皆さん、いよいよ華清池に到著します。この溫泉と風(fēng)景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見(jiàn)され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長(zhǎng)恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの溫泉の遺跡が発見(jiàn)できます。ちなみに、湯殿の奧にある五間庁は西安事件の時(shí)將介石が泊まったところです。ここもあわせてご案內(nèi)致します。

      はい、華清池に著きました。ここでの見(jiàn)學(xué)は2時(shí)間となっております。今ちょうど9時(shí)ですから、11時(shí)に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動(dòng)するようお願(yuàn)いいたします。萬(wàn)が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。

      はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞臺(tái)である五間庁です。皆さん、參りましょう。

      ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寢室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに來(lái)ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風(fēng)景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には溫泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長(zhǎng)恨歌』の中に楊貴妃の風(fēng)呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、溫泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無(wú)し」と書(shū)いてあります。じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ參りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見(jiàn)た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時(shí)は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。

      次の見(jiàn)學(xué)するところへ移動(dòng)しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時(shí)蔣介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の將軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時(shí)突然の銃聲で目を覚ました蔣介石は著の身著のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の巖陰に隠れているところを張學(xué)良の護(hù)衛(wèi)兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時(shí)の銃弾にうたれた跡が殘っています。

      皆さん、これで華清池の見(jiàn)學(xué)が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。寫(xiě)真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。

      兵馬俑

      秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壯大の墳?zāi)工?200年ほど前に作られ、中國(guó)史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級(jí)のものです。秦の始皇帝は紀(jì)元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀(jì)元前221年に中國(guó)統(tǒng)一という大事業(yè)を成し遂げましたが、中央集権政治を?qū)嵤─?、文字や貨幣、度量衡を統(tǒng)一したほか、北方の騎馬民族対策に長(zhǎng)城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負(fù)擔(dān)を強(qiáng)いることになり、ついに始皇帝の死後、大規(guī)模な農(nóng)民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。

      ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する當(dāng)時(shí)に作り始めました。そのため、動(dòng)員図70萬(wàn)人述べ、實(shí)に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設(shè)規(guī)模と豪華さに觸れています、それによると、「三たび水脈達(dá)する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望樓を作り、百官の席を設(shè)け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機(jī)械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽(yáng)、天體の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壯大は最新技術(shù)を使った、今の調(diào)査結(jié)果でもそう確かめられています。

      もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります?!副R俑」は、1974年に用水工事をしていた農(nóng)民たちが偶然発見(jiàn)したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛(wèi)兵というべきものです。

      今のところ、兵馬俑は現(xiàn)在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見(jiàn)つかっています。さらい感心させられたことは、實(shí)物大の兵士が一體ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊(duì)が様々な民族から編成された混成部隊(duì)だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細(xì)に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現(xiàn)さてれているのを目の當(dāng)たりすると、當(dāng)時(shí)に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全體としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見(jiàn)され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の實(shí)物大のレプリカや文官や蕓人などの俑も発掘されており、従來(lái)、來(lái)世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊(duì)と思われていたこの遺跡は、實(shí)は、生前の始皇帝の生活そのものを來(lái)世に持って行こうをするねらいがあったとも推測(cè)さらています。

      兵馬俑一號(hào)館

      1979年10月にオープンした一號(hào)館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長(zhǎng)方形をしていて、発見(jiàn)された三つの俑坑の中では規(guī)模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊(duì)の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32體が出土しました。一號(hào)館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊(duì)ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊(duì)列が続き、その左右両側(cè)と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。

      皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋裝もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは將軍俑で、將軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結(jié)ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚著ており、鎧も獨(dú)特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結(jié)ばれています?,F(xiàn)在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の數(shù)は推定で6000體ぐらいあるだろうと推測(cè)されています。

      兵馬俑二號(hào)館

      昔、戦爭(zhēng)では陣立ては勝負(fù)を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その內(nèi)容がずっと最高の軍事秘密で現(xiàn)在その記録がほとんど殘っていません。

      1976年、最初に発見(jiàn)されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側(cè)から大量の俑が新たに発見(jiàn)されました。これは現(xiàn)在の二號(hào)館で展示されている兵馬俑です。

      二號(hào)館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300體余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構(gòu)成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一臺(tái)に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢(shì)を示しています。

      先頭部隊(duì)は弓弩兵器を攜えた射手で、右側(cè)に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側(cè)には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊(duì)です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱點(diǎn)がありません。

      兵馬俑三號(hào)館

      三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三號(hào)館です。三號(hào)館の面積は376㎡の凹字型となっており、規(guī)模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統(tǒng)帥する指揮部です。ここからは馬車一臺(tái)、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。

      大清真寺

      現(xiàn)在西安には6萬(wàn)人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少數(shù)民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動(dòng)の場(chǎng)所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘樓の西側(cè)の鼓樓のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動(dòng)の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。

      寺院は樓、臺(tái)、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一萬(wàn)二千平方?、建築面積はやく四千平方?、ほぼ完全な建築群で構(gòu)成されています。壯観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ裝飾は伝統(tǒng)的な中國(guó)式です。その特徴は塗裝された梁や柱の彫刻を持つ中國(guó)特有の樓に色濃く見(jiàn)られます。

      前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復(fù)したことが記載されています。第三院の中央に省心樓という建物があります。ここは禮拝の時(shí)、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場(chǎng)所です。第四院は禮拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって禮拝します。禮拝の前にシャワを浴びる習(xí)慣があります。大殿の面積は1300平方?、1回千人以上の禮拝式ができます。禮拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統(tǒng)的な裝飾蕓術(shù)を採(cǎi)用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中國(guó)のイスラム教の伝統(tǒng)的な様式によって作られたもので、その特徴で樓、臺(tái)、亭、堂四書(shū)類を形成しています。また、寺の建物は全部対稱しています。

      人々の生活習(xí)慣と風(fēng)俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。

      ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。

      結(jié)婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結(jié)婚しませんが、男性は異民族と結(jié)婚できるという習(xí)慣があります。

      葬式の時(shí)も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺體を包んで埋葬します。

      回民族の朋裝は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識(shí)の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習(xí)慣があります。

      碑林博物館

      碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場(chǎng)所に建てられていて、その敷地面積は3萬(wàn)平方?、「西安碑林」と「石刻蕓術(shù)」と二つの部分からなっています。

      皆さん、ご存じのように中國(guó)の正門(mén)は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門(mén)だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門(mén)があり、これを「禮門(mén)義路」と言って、いわば「禮儀の門(mén)」という意味があります。

      さて、まず、正門(mén)に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見(jiàn)えてきます。それから、目の前に鳥(niǎo)居型の門(mén)が見(jiàn)えますが、これは「牌樓」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門(mén)をくぐると中央に小さい道があり、その両側(cè)に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時(shí)代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門(mén)にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮(zhèn)め、縁起の良い動(dòng)物や人物のデザインがほどこされております。もうちょっど足を進(jìn)めますと、東西の方向に亭が見(jiàn)えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時(shí)代の景雲(yún)2年に造られたもので、「景雲(yún)鐘」と呼ばれています。この「景雲(yún)鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調(diào)整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き聲のようとも言われています。

      西安碑林、総數(shù)が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも蕓術(shù)的にも価値が高く、中國(guó)最大の「石の書(shū)庫(kù)」とも言われています。ここで展示されているのは漢時(shí)代から唐、明、清時(shí)代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書(shū)道家が書(shū)いた書(shū)道作品です。

      皆さん、目の前に「碑林」の文字が見(jiàn)えてきましたね。これは中國(guó)の民族英雂、林則徐が書(shū)いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石臺(tái)孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾參が編集した親孝行について書(shū)かれた本ですが、この石碑には「孝経」の內(nèi)容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書(shū)いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、臺(tái)座の三つの部分からなり、臺(tái)座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動(dòng)物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。

      第一陳列室 ここに展示されているのは「開(kāi)成石経」です。114の石碑の両面に儒學(xué)の経典13経に全文が刻まれています?!搁_(kāi)成石経」は唐の文宗の開(kāi)成2年に立てられましたが、その石碑も戦爭(zhēng)や自然災(zāi)害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開(kāi)成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が國(guó)でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。

      第二陳列室

      この陳列室には、唐代の有名な書(shū)道家がかいた石碑で、後世の書(shū)法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の歐陽(yáng)詢が書(shū)いた「皇帝誕碑」、その息子の歐陽(yáng)通の「道因法師碑」、顔真卿の書(shū)「多寶塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります?!复筇迫i聖教序碑」は長(zhǎng)安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書(shū)を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書(shū)道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝來(lái)したことを伝える「大秦景教流行中國(guó)碑」はよく知られています。碑文は、中國(guó)とシリア両國(guó)の文字で書(shū)いてあり、唐王朝と外國(guó)との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。

      第三陳列室

      ここで篆書(shū)、隷書(shū)、楷書(shū)、行書(shū)、草書(shū)の書(shū)體で刻まれた石碑が展示され、中國(guó)文字の変遷を理解するには格好の場(chǎng)となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書(shū)で書(shū)いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書(shū)となってきました。

      石刻蕓術(shù)陳列室

      1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時(shí)代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70點(diǎn)余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動(dòng)物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時(shí)代の畫(huà)像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛(ài)馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻蕓術(shù)の代表的な作品として評(píng)価が高いです。

      陝西歴史博物館

      陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の國(guó)立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7萬(wàn)㎡です。所蔵する文化財(cái)は11萬(wàn)3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時(shí)代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000點(diǎn)余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方?、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高樓』という伝統(tǒng)的な構(gòu)造になっております。

      展示品 館內(nèi)に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。

      第一展示室は、約115萬(wàn)年前の舊石器時(shí)代、藍(lán)田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、舊石器時(shí)代や新石器時(shí)代の代表的な文物で、先史時(shí)代の人々の生活ぶりを現(xiàn)しています。

      現(xiàn)在、確認(rèn)されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時(shí)代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時(shí)代なので、「青銅器時(shí)代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭禮の楽器、生産、生活用具、實(shí)戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文內(nèi)容の重要さなど、世界美術(shù)史上も貴重なものです。

      この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽(yáng)の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業(yè)の一つ、通貨の統(tǒng)一をあげることができるが、當(dāng)時(shí)の貨幣関係の資料も展示されています。漢代の都、長(zhǎng)安城は、中國(guó)の歴史における初めての國(guó)際的大都會(huì)で、當(dāng)時(shí)、ローマ帝國(guó)より2倍ぐらい広かったと言われます。當(dāng)時(shí)の冶金、製鉄技術(shù)では、既に石炭による送風(fēng)式溶鉱爐を使用していました。農(nóng)機(jī)具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見(jiàn)されていますが、さらに良質(zhì)の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽(yáng)市の東約25キロの陽(yáng)家灣で発見(jiàn)された彩絵陶俑群で、計(jì)2500個(gè)以上が出土しました。絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁畫(huà)です。陵墓から運(yùn)ぶ出された唐代の巨大な彩色壁畫(huà)の展示が來(lái)館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁畫(huà)の女性を見(jiàn)ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中國(guó)副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達(dá)と見(jiàn)える、これらの女性たちが馬に乗るも橫座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など當(dāng)時(shí)の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽(yáng)一帯に分布していますが、出土數(shù)が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工蕓水準(zhǔn)は大変高いものです。

      黃帝陵

      黃帝陵は中華民族の始祖黃帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黃陵県の橋山の上に位置しております?!柑煜碌谝涣辍工妊预铯欷皮い蓼?。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。

      黃帝は原始時(shí)代の優(yōu)秀な部落首領(lǐng)です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黃帝を呼ばれるようになりました。黃帝は天下を統(tǒng)一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黃子孫」また「華夏子女」と呼びます。黃帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と稱えております。

      ここは軒轅広場(chǎng)です。黃帝陵を祭りの出発點(diǎn)です。軒轅広場(chǎng)は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黃帝が筆を洗いところです。今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を橫斷して、全長(zhǎng)66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗巖(かこうがん)で造りして、中國(guó)近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。

      軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方?、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。

      人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黃帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動(dòng)物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。

      黃帝陵區(qū)は約4平方?、四隅は山と水、樹(shù)木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見(jiàn)えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください?!工踏蓼欷皮い蓼?。黃帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長(zhǎng)約50メートルです。陵の前に「漢武仙臺(tái)」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。

      崋山

      陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中國(guó)五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黃河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中國(guó)五山の一つとして広く知られています。

      東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見(jiàn)ることができる朝陽(yáng)臺(tái)があるので朝陽(yáng)峰とも言われています。北峰は「雲(yún)臺(tái)峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は斷崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側(cè)の連峰に通じていません。映畫(huà)「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の斷崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中國(guó)有名な神話「寶蓮燈」の中の沈香が山を切り開(kāi)いて、母親を救った物語(yǔ)はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲(yún)を突いて架設(shè)した長(zhǎng)空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。

      崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに斷崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見(jiàn)ることができます。

      崋山の麓から青珂坪までの道中は風(fēng)景が靜寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥(niǎo)がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本當(dāng)の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見(jiàn)て體力の無(wú)いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します?;匦氖蜻^(guò)ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に著きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側(cè)にあるロープを摑んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狹く、下を見(jiàn)ると深い井戸です。更に進(jìn)むと、もっと険しい「百尺峽」に突き當(dāng)たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は斷崖絶壁で、570段の石段があり、その突き當(dāng)たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、斷崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過(guò)ぎると崋山の北峰に到著します。

      見(jiàn)送り

      皆さん、いよいよ西安を離れる時(shí)間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。

      この3日間行き屆かない點(diǎn)が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過(guò)ぎました。本當(dāng)にお名殘惜しいです。

      私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強(qiáng)させていただきした。こうして無(wú)事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協(xié)力のおかげです。この次、お出でになる時(shí)もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語(yǔ)を勉強(qiáng)しておきますので、また、ご案內(nèi)させていただければ有りがたいと思います。

      皆様、ここでお?jiǎng)eれです。どうぞお元?dú)荬?、さようなら?/p>

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