第一篇:《紅樓夢》讀書感想文集
《紅樓夢》讀書感想文集
【導語】《紅樓夢》是一部中國末期封建社會的百科全書。小說以講述上層社會中的四大家族為中心圖畫,真實、生動地描述了十八世紀上半葉中國末期封建社會的全部生活。以下是東星資源網(wǎng)分享的內(nèi)容,歡迎大家閱讀與借鑒。
【篇一】《紅樓夢》讀書感想
“可嘆停機德,堪憐詠絮才。玉帶林中掛,金簪雪里埋”這幾句判詞,注定了薛是紅樓數(shù)場悲劇中的一個。對于她的一生,作者曹雪芹應該也是嘆惋的吧!
我總認為紅樓夢的偉大之處在于它體現(xiàn)了一種敗落的趨勢,不管是家族的,愛情的,仕途的,都是走向沒落,這在喜聚不喜散,愛好大團圓結(jié)尾的中國古典小說中并不多見。
不是說我天生殘忍喜歡看別人的悲劇,但是,不是有句話說嗎?塞翁失馬,焉知非福?對于黛玉這樣一個脆弱的封建少女來說,死,是她的解脫,是她所有悲劇的終結(jié),是她的幸福。當她在地下安靜的沉眠時,看著寶玉仍在凡世尋找出路,不得不說,她還是幸福的。
或許兩個人都是浪漫的人,浪漫的人天生就不該相遇,因為生活不是浪漫,生活會將浪漫消磨得一干二凈,最終,紅玫瑰變成了墻上的蚊子血,白玫瑰成了胸口粘著的白米飯。所以,就讓浪漫在最美的時候畫上句號,在彼此的心中,留下幸福的回憶。
可是也許你會說,黛玉死得很悲慘,一點也不浪漫,關(guān)于這點,我是不贊成高鄂的續(xù)書的,也許曹雪芹的本意非此,也許黛玉確實應該淚盡證前緣,這樣不是更好嗎?她牽掛著寶玉,用她全部的熱情為這一知己痛哭,懷著深深的思念,這樣的死,何嘗不是高貴神圣的,然而高鄂沒有這樣寫,他最終讓黛玉很庸俗地指天憤恨,氣極而亡。這不像我們認識的那個高傲自賞的黛玉,反而像個情場失意的一般女子。
盡管如此,她最終是在賈府垮倒前離開這是非之地的,否則以她的脆弱,恐怕受不了那么大的刺激。寶玉是個紈绔子弟,他不是一個頂天立地的男子漢,他能給予黛玉的其實很少,談不上保護與安慰,他自己尚且是需要別人保護的弱者,所以在他身邊,黛玉是得不到幸福的。
所以能帶著回憶離開他,是一種幸福。寶玉自己能給予黛玉的只是幾句好話,他連癡情都談不上,看看寶釵的下場,不得不說黛玉是幸福的,當然有人說寶釵需要的只是寶二奶奶的寶座,她并不在乎寶玉,是這樣嗎?難道有一個天生喜歡孤獨的女子嗎,不管怎么說,寂寞的獨守空房總是悲慘的。何況所謂寶二奶奶的寶座她是不是坐上了還是個問題。
【篇二】《紅樓夢》讀書感想
我都不知道自己讀了《紅樓夢》多少回了,但每讀一次,就更喜歡它一分。在《紅樓夢》中,最喜歡的就是林黛玉了。
林黛玉是賈母的外孫女,自小體弱多病,賈寶玉在第一次見到她時就評價道:“嫻靜似嬌花映水,行動如弱柳扶風?!庇忠颉皟擅硷A似蹙”,為其命字“顰”。也正因為身體的柔弱,注定黛玉的幸福渺茫。
傳說黛玉前身為絳珠仙草,為了報答寶玉前世的澆水之恩,遂轉(zhuǎn)生為林妹妹,向?qū)氂襁€眼淚,當最后一滴眼淚還干,也就是黛玉香消玉殞之時。雖說是傳說,但在賈府的黛玉,眼淚似乎變得廉價,雙眼常腫得如兩核桃。有人說是黛玉小家子氣,所以才會常流淚,但在我看來,的原因在于賈府這一大環(huán)境。“一年三百六十日,風刀霜劍嚴相逼”,這是黛玉對賈府的評價。賈府在黛玉看來,就如一洪水猛獸,充滿污穢之氣,而在這樣黑暗齷齪的環(huán)境中,黛玉始終保持自己的內(nèi)心不受污染,堅守“質(zhì)本潔來還潔去,強于污淖陷渠溝”,宛如污泥中的白蓮,一塵不染,潔白無瑕。
“花謝花飛花滿天,紅消香斷有誰憐”,身在賈府,是黛玉的無奈,知心的只有寶玉一個,在黛玉心中,向往著自由,“愿奴肋下生雙翼,隨花飛到天盡頭”,可惜不能如愿!黛玉是聰明的,她知道自己擺脫不了封建女子的命運,但她沒有屈服,而是進行反抗,所以,她對于跟自己抱有相同想法的寶玉給予支持。
但命運是殘忍的,寶玉因丟玉而瘋癲,黛玉身子孱弱,遂有了新娘偷龍轉(zhuǎn)鳳這一招,也直接導致了黛玉的消殞,間接致使寶玉最后的出家……
“試看春殘花漸落,便是紅顏老死時。一朝春盡紅顏老,花落人亡兩不知”,女子最終都逃不過紅顏色衰,黛玉的早逝究竟是幸福還是不幸呢?也許,死,對黛玉來說是一種解脫,是悲劇的終結(jié),也是一種幸福。
【篇三】《紅樓夢》讀書感想
讀《紅樓夢》時,我發(fā)現(xiàn)曹雪芹的文采真的很好。《紅樓夢》涉及了很多當時的社會情況,簡直是一部歷史書。它揭示了很多當時的社會現(xiàn)實,很能引起讀者的思考。
第一次讀這部書時,由于我比較喜歡林黛玉,因此我最關(guān)心的是賈寶玉是否能和林黛玉在一起??赐旰螅矣幸欢螘r間都不是很開心,因為金陵十二釵的命運都挺悲慘的,而且里面的四大家族都衰落了,太悲劇了。我不喜歡太悲慘的結(jié)局,所以我會想如果是曹雪芹寫完整本書,結(jié)局會不會不一樣呢?我那時真的很想知道為什么要以這么悲的結(jié)局來為這部書畫上句號。
第二次看《紅樓夢》是因為我發(fā)現(xiàn)了一個不同的版本,我想看看這兩個版本會有什么不同。當我拿起這部書時,我不像第一次看時那樣覺得它無聊,因為我發(fā)現(xiàn)開始部分已經(jīng)涉及到它的高潮,甚至能從中看出結(jié)局是悲傷的。我發(fā)現(xiàn)這部書真的不一般,因為它環(huán)環(huán)相扣,甚至可以說從每一個部分推測另一個部分的情節(jié)發(fā)展,真的很有研究價值。我發(fā)現(xiàn)了一部好書是不能只讀一遍的,因為每讀一次都會有不同的體會,不同的認識。如果我只讀一次《紅樓夢》,那我可以確定我會后悔的,因為我忽略了很多東西。而且?guī)е鴤€人色彩和片面想法去看一部書,我們會錯過很多東西的,尤其會對很多問題缺乏思考,這對我們的閱讀是很有害的,因此我總是反復的去看一部書,去看一部我認為值得看的書。
對于《紅樓夢》,我思考了一些問題,也和別人一起討論過。從《紅樓夢》中,我看到了很多有關(guān)當時的社會問題,看到了封建社會的腐敗和下層人民的無奈與凄苦。我覺得作者能體會當時百姓的心情,同情他們的遭遇,或者說,在某個程度上也表達了他對當時社會的不滿,對自己的遭遇的無奈。
讀一部好書,值得我們花費大量的時間去研究,去思考,因為我們能從中得到更多。對一部好書就如何一個作者在交流自己的思想。
【篇四】《紅樓夢》讀書感想
校園一句“滿紙荒唐言,一把辛酸淚,都云作者癡,誰解其中味?”寫出了作者的辛苦與心酸,也表達出了知音難尋的無奈和苦悶。而我最喜歡讀的一本書就是出自曹雪芹先生筆下的《紅樓夢》。
《紅樓夢》是一個悲劇,它不僅是曹雪芹先生的真實寫照同時也是當時社會的真實寫照,從而使一個繁榮的榮國府走向衰敗。曹雪芹先生歷時十年完成這部著作,用細膩和巧妙的文筆敘述了一個繁榮一時的榮國府。
當我看完了《紅樓夢》后,我感到無比的心酸,我甚至有點怨恨作者為什么把這《紅樓夢》的結(jié)局寫得這么悲慘,這與《紅樓夢》前部分的那生氣、繁榮的景象一點有不符合。但后來我漸漸地明白了,當時的社會就是這么黑暗,這只不過就是社會的演變過程罷了。
令我感觸最深的就是林黛玉,雖然很多人都不喜歡她那生性猜疑,多愁善感的性格,但我卻似乎知道她的苦衷似的。她從小父母雙亡,又寄人籬下,她感到自己的世界有多么的孤獨,為了保護自己,她只能用刻薄的語氣去對待他人,這也是她養(yǎng)成生性猜疑的情感的因素,林黛玉在凄涼中死去,身邊只有服侍她的一個丫鬟在默默地為她哭泣。這時我也想起了她那被預言的悲慘的一生。
賈寶玉,一個外表看上去柔弱帶點天真的男孩子,其實也有剛強男子的一面,也許到最后誰也想不到他會去出家,是因為他看破了紅塵吧,他是一個渴望得到自由的人,當姐妹們成家后都抱怨著生活中的事,他的內(nèi)心漸漸地成熟了,更何況在這種“指腹為婚”的時代,對他來說更是一種水深火熱。同時他又是一個癡情的人,他對林黛玉可以不顧一切,從這也可以看出林黛玉之死對他的打擊有多大。我不禁替賈寶玉感到惋惜,美好的青春就這樣被斷送了。
《紅樓夢》中的人物命運幾乎都是悲慘的,從王熙鳳的“一從二令三休”到薛寶釵的“可嘆停機德,金簪雪里埋”再到林黛玉的“堪憐詠絮才,玉帶從中掛?!倍寄荏w現(xiàn)出來。曹雪芹先生曾慘痛地寫道:“趁著這奈何天,傷懷日,寂寞時,試譴愚忠,因此上演出這懷金悼玉的”紅樓夢"。
《紅樓夢》一書讓我感慨萬千,它是賈寶玉一生的真實寫照歲月流逝,生命的年輪在不停地輪轉(zhuǎn),但又有誰能讀懂這曹雪芹的夢中淚。
第二篇:日本留學感想文集
日本留學感想文集
――半年間の留學生活を振り返って
目次
留學の感想……………………………………………0401班 陳 靖
日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出會い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感觸そして感動…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な體験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留學について
留學體験について…………………………………04甲班 蔣 玲玲 留學の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留學を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留學…………………………………………0401班 葉 楠
私の留學日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留學生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩
浙江工商大學日本日本語言文化學院
留學の感想
日本語學科0401班 陳 靖
2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時30分発の中國杭州行きの飛行機を待っていた。再びこの場所に來た時、日本に到著した時のことが突然脳裏に浮かび、同時に私は再び原點に戻るという錯覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動、そしてとても魅力的だったと思う。
2007年9月10日、二時間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時、私のハラハラした気持ちはやっと落ち著いた。初めて飛行機に乗る時の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現(xiàn)実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見ても、みんなとても興奮しているようだった。
カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留學生活が皆現(xiàn)実になる。初めて中國から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の學校で勉強して、初めて……。ひょっとしたら數(shù)え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。
大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。
來たばかりの時、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買い物に行くことが日課になった。夜の八時ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中國人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。
寮で生活を始めて十數(shù)日が過ぎ、新學期がやっと始まった。私たちの科目はうちの學校と一致しなければならなかったので、四天王寺大學での科目もほとんど規(guī)定された。しかし、ほかの科目も學生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大學から私が受けた印象は自由であるということだ??颇郡蜻xぶ前に先生の授業(yè)を先に受けることができる。専門の課程以外に、日本文化、歴史、文學などの科目があり、學生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、學生には大きな選択の自由が與えられ、個性と趣味も発揮できる。半年の學習生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の學習を重視する反面、テストは意外に簡単であるということだ。ほとんどの先生は新學期の初めての授業(yè)でどうやって成績を評定するのかを?qū)W生にはっきり伝える。
実際に日本で生活してみて、教科書から學んだ「日本」に関する私の知識が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車で貍寢入りしたり、漫畫を読んだりだけではない。私は一體右側(cè)を歩いているのか、それとも左側(cè)なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは橫斷歩道での出來事だった。日本に行ったばかりの頃、橫斷歩道で人が道を渡っているときに、車とあたりそうになると、人が先に淺いお辭儀をしてから通る光景をよく目にした。中國には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが禮儀正しい國だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車に対し、九十度以上のお辭儀をしてしまった。
10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時はもちろん、ほかの場合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。
それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業(yè)で習ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見れば、恩を蒙ることになるのだろう。
大學祭の中華カフェー、反省會のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優(yōu)しい先生方、バイト先の友達……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。
日本の印象
日本語學科0401班 陳 迪思
光陰矢のごとし。半年間の日本での留學生活があっという間に過ぎてしまった。この半年間は長いようで短い時間だったが、日本や日本文化について學ぶことができ、またいろんな人と出會い、いろんなことを経験し、これからの長い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時に、感慨の深い半年間でもあった。ある國の言葉と文化を勉強するには、自分でその國に行き経験せねばならぬとある學者はそう言っていた。私もそう思う。留學前に遊學という形で半月ぐらい日本に滯在した。飛行機から降りた瞬間のあの感動と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強している日本語の母國なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、殘念ながら見聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹厳実直な仕事振りである。計畫から実施までどんな細かいところでもきちんとしている。參加者全員の行動の一致を求めるために何度も説明會や會議をすることが多い。大學祭の時、日本人の學生たちと一緒に中華茶館を開いた。當日接客用の臺詞まで皆で考えて、そして何度も演習した。そんなに細かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車がいつも時間厳守で遅刻があまりないとか、電車に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見かけないとか、そういう狀況が生まれるのである。それはすべて計畫通りだから。それに、日本の電気製品など品質(zhì)がいいという評判もそれとかかわっているのだろう。中國の場合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場合はスピードよりも出來栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素敵な出來栄えを見てたら、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出來事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって計算されていて、それを防ぐための計畫も立っているのだろう。そういう謹厳なところはわれわれの參考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優(yōu)しい國である。バスは乗客がきちんと座ってから動き出す。電車には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細部に至るまで人のために考えているところがすごく優(yōu)しいと思う。日本のサービス業(yè)界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素敵だ。釣りを出す時は、ちゃんと一枚ずつ數(shù)えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包裝のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に殘ったことがる。それは日本に行ったばかりの時だった。みんな揃ってソフトバンクの営業(yè)店に攜帯電話を買いに行った。でも、外國人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調(diào)に契約を結(jié)べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた?!钢袊Z入門」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時、時々変な中國語の単語が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本當に感動した。中國では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ當てはまる言葉であると感じた。
この半年間、いろんな人と出會った。親切な方々ばかりだった。中國からの留學生だと分かって、親切に聲をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中國文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質(zhì)問をされたこともあった。「中國の人って、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留學に來て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。
テレビをよく見てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中國の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中國でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中國のことが好きな人、中國文化に興味を抱いている人は結(jié)構(gòu)いるが、実際に中國に來られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相當な悪影響を與えてしまう。中國の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中國が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調(diào)査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中國のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中國と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い狀況が生れると思う。
最後に、この長いようで短かった旅の間に出會ったみんなに一言。本當に楽しかった。ありがとう、そして、またね。
東瀛との出會い
日本語學科0401班 丁 建萍
日本に行く前、留學をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長く滯在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強するのには、その國についていろいろ學んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過ぎないと思う。行く時は、今回の留學が自分の語學力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語學力の上達はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強になった。
異國での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長に笑われたことがある。切符の販売機に向かった時、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥のように、ぎゅっと窓から出て來て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達と寮までずっと笑いながら帰った。東京に著いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場合は、さすがに診察費も高かった。それから、日本人の友達ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識がすごく強かった。そのため、學生は學校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強い責任感を持って頑張っている。時々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辭儀をしながら、大聲で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場面を見ると、感動で胸が熱くなった。中國では多くの學生が自分の勉強に情熱的に取り組むのに対して、日本の大學生はクラブ活動をやるときが一番やる気満々に見える。特に私を驚かせたのは、車で學校に通っている學生が結(jié)構(gòu)多い事、大勢の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、學費を払えないとか言って、學校を辭めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の國から出ると、母國への深い愛情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母國の體面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中國人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中國人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中國人の名譽のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう狀況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時よくあった。正直に言うと、日本人の中國に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中國人に対する悪い印象を更に強めるだろうという心配がずっとあった。異國に住んでいる時、自分の國の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中國人女性が多いと聞いた時、またバイト先の店長から中國が現(xiàn)在直面している一番の問題は経済発展と環(huán)境保護のバランスを考慮することにあると言われた時、自分の気持ちは複雑だった。帰國してから、私たちは日本の先進的な面から學ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時には自分の國に様々な問題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留學の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時は一刻も早く中國に帰って、そのニュースから遠ざかりたくて堪らなかった。
一方、私たちは中國人として、違う文化を持っている國に行き、違う教育を受けて來たわけだが、中國人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の國民はみんな優(yōu)しかった。初めて會話を交わした時、私はいつも両國の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中國も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中國からの影響を深く受けてきた國だからだ。お互いの國境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。
日本での感觸そして感動
日本語學科04甲班 耿 貝妮
日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動であった。
考えのきめ細かい大阪人
9月10日、私達14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語と日本の文化を3年間學んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書の內(nèi)容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の國を離れた時は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ來られたIBU國際交流センターの先生達の笑顔を見た瞬間、一気に解れました。私達の荷物を持ってくれて、私達は旅行中の見聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達と話しているうちに、すぐ寮に著きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寢室は小さいけど、必要なものが全部準備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買ってくださいと言いました。先生たちは私達の買い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買い物が終わってから先生達は私達を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達に紹介し、私達を連れて銀行カード、健康保険、攜帯電話などの手続きをしてくれ、自転車の購入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強い日差しと考えのきめ細かい大阪人でした。
情熱的、友好的な仕事仲間
10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買い物に行った時、入り口に従業(yè)員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを與えてくれました。仕事も日本語も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風習と日本人の考え方を更に深く理解しました。中國人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時、彼は私にまたもし大阪に來る機會があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評価してくれたものと思っています。
無私な先生達とかわいい學友達
日本の先生は私達の特殊性まで考慮して、私達14人のために単獨で多くの授業(yè)をしてくれました。このような教授法は確かに私達に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達を最も愛してくれた南谷先生、博學で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達は多くの知識を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達には現(xiàn)地に友達がいないから、授業(yè)を受けることだけで、他の課外活動はほとんど何もありません。先生達は多くの活動の方案を制定し、日本の學生と私達が一緒に活動できるように、中日の學生の交流の場を準備してくれ、また一方では私達の課外活動を豊かにして、私達の日本語のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達の獻身的な努力と學友達の積極的な協(xié)力のおかげで、歓迎會、神宮旅行、京都旅行、送別會など様々な活動を行うことができました。私達はそれらの活動を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。
謙虛で環(huán)境保護意識の強い日本人
日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書で學んだ「禮儀の國」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側(cè)に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側(cè)通路を開けておく點、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ點、ゴミを厳格に分類する點、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛(wèi)生的である點、犬の散歩時に責任を持ってフンの後始末をする點などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした。「申し訳ありません」は日本で使用頻數(shù)が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場合にはどんな些細なことでも相手に謝罪をする。
目がくらむ美食とアクセサリー
日本に行く前、日本はショッピングの天國であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見られるたこ焼き、お壽司、おにぎり、そして裝飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見た時、私は思わず日本人のアイデアと構(gòu)想に感嘆させられた。
半年間はあっという間に過ぎてしまったが、それは私にたくさんの財産、たくさんの美しい記憶を殘してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。
特別な體験 貴重な経験
――日本留學について
日本語學科04甲班 胡 麗芳
半年の留學生活はあっという間に過ぎてしまいました。生活にしても、勉強にしても、非常に充実して過ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。
四天王寺大學が私達留學生のために開設した課程は浙江工商大學日本言語文化學部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の學生さんと一緒に受ける授業(yè)がある一方、私達十四人で受ける授業(yè)もあります。そのような形式により、日本人の學生さんと交流することができるだけでなく、私達交換留學生の語學レベルによって効果的に授業(yè)を受ける事ができました。日本で授業(yè)を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に學生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中國と歐米の成果主義とは異なっているところだと思います。中國で三年間も日本語を勉強してきましたが、日本に來てから、日本社會と日本人の國民性の奧にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの禮儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識されています。日本人の國民性の特徴については日本文化の授業(yè)でいろいろと學びました。それらはわれわれ中國の學生にとってとても興味深い內(nèi)容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は禮儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場」をどのように認識するかということにいつも気を配ります。どんな職場でもその地位に相忚しい「立場」を正く意識し、出來る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外國人に與え、強い責任感を持っていると外國人に感じさせます。日本語と文學を?qū)煿イ筏皮い胨饯郡沥?、日本社會に実際に身を置いて、自ら體験する必要があると思います。この半年間、生活を通して體験し、感じたものは本で學んだ知識よりも遙かに貴重です?!阁w験が成長の糧」と言われるように、その社會に身をおいて実踐的に體験してこそ、その社會の奧にあるものを心で感じ取ることができます。教科書から學ぶことはあくまでも知識の習得であり、実踐することこそが本當の勉強だと思います。生活の面において、半年の日本滯在期間中はずっと四天王寺大學の先生方から至れり盡くせりのお世話になりました。寮の中には何種類もの電気製品が設置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留學生活は本當に楽しく過ごせました。
生活といい、勉強といい、非常に細やかな問題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。
授業(yè)と日常生活の両方で日本語を勉強し、日本社會を體験することができただけでなく、半年の留學生活の中で色々な貴重な體験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標を持っており、半年の留學生活の中でどのようにすれば時間を無駄にしないで、自分の目標に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時間を有効的に利用し、日本社會の奧に潛む魅力的なものを発見し、その面白さと美しさを吟味しようと夢中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、會話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に來てから理解できるようになってきました。四天王寺大學は靜かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網(wǎng)が非常に整備されている國で、各駅の間は電車線で繋がれていて、電車のスピードも速く、時間の節(jié)約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時間を無駄にしない」という意識にも関わっていると思います。この半年の留學生活は、勉強と経験を同時にする過程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業(yè)中の勉強と體験、実踐中の勉強と體験に分けられます。授業(yè)中には言語と文學を勉強しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虛性、責任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自國の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。
例えば、道に迷ってしまった時、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動してしまうのは當たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する禮儀を重んじ、良い印象を與えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です。現(xiàn)在、日本のあらゆる町に數(shù)えきれない程の外國人が住んでいます。日本は大いに外來の文化を受け入れつつ、自國の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出來て本當に良かったと思います。たくさんの日本人の友達が「日本は住みやすい國だ」と言っていましたが、私は日本の國民の積極的、友好的そして前向きな態(tài)度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認識から理解に変わり、理解から熱愛に変わりました。日本でのいろいろな出來事を思い出す度に、日本が私の第二の母國だという気がします。半年の留學生活でいろいろな勉強ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛の感情で今は胸がいっぱいです。
留學體験について
日本語學科04甲班 蔣 玲玲
去年の九月、學校の手配により、私たち14人は大阪に交換留學に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出來た。
大阪に著いたばかりの時は、大阪弁がすごく苦手で、勉強した標準語が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強い孤獨感があった。早くこの半年を過ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時間が経つにつれて、私はだんだんその環(huán)境に馴染んできて、帰國したいという気持ちもそんなに強くなくなってきて、逆にこの國に好感が持てるようになって來た。その理由の一つが國際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり盡くせり私たちの生活の面倒を見てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし國際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留學生活を過ごせなかったと思う。
半年の留學のおかげで、私たちは日本的な學習生活を十分に體験した。日本人の學生と一緒に授業(yè)を受けて、交流することはすごく楽しかった。學校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが體験した日本文化は學校の教科書とぜんぜん違っていて、授業(yè)だけでは學べないものである。日本の教育は學生の個性の発展を強調(diào)する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、學生に自由に個性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、學生の考えや意見などを聞くことが出來たのは私の中で一番深く印象に殘っている點である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具體的な事物を使って説明してくれた。日本人の學生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動が大部分の時間を占めている。普段、學校で學生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見て彼らの集団主義を強く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外國人だから偏見があるのかなとずっと心配していた。長い時間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を體験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調(diào)になって、両方の距離が縮まるかもしれない。
そして、計畫を重視する日本人にも深い印象を受けた。學習でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計畫を作ることが好きだ。彼らは計畫が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習慣を身につけることができたと思う。
日本人の部屋は大體皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の國民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類に分けて、捨てる時間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協(xié)力すべきだと意識するようになった。確かに、日本には多くの長所があると認めなければならない。誰にでも長所があるように、どんな國にでも優(yōu)秀なところがある。この半年、私は人の長所を?qū)Wんで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時、自分は中國人であるということを強く意識するようになった。祖國のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。
私たちの成長は私たちだけで感じられるものである。日本語の勉強はただの資格証明書取得のための知識や教科書の知識だけでなく、忚用や実踐力を伴うものでなければならない。留學はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出會って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長に大きな影響を與えたと思う。今回の留學経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、學校にもう一度感謝したい。學校のおかげで、この留學は私の大學生活における最高の寶物になった。
留學の感想
日本語學科0401班 李 頴
半年の留學生活はあっと言う間に終わりました。本當に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留學生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留學生活を前にして不安がたくさんありました。
日本に來る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門出の時を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達がいました。留學とは私にとって夢でしかなかったけど、學校のおかげでそれは現(xiàn)実になりました。向こうの學校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本當にありがとうって言いたいです。特に國際交流センターの先生たちが優(yōu)しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留學生活は幸せでした。
また留學してから、以前當たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優(yōu)しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時、私の友達は皆まるで私の家族のようでした。留學が終れば友達とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時、私は中國に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滯在している時、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この靜かな動物は急に獰猛な動物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に殘っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語の世界にいるような感じがしました。
それぞれの場所を巡り歩いて感じたことは日本が本當に綺麗な國であるということです。この綺麗な國にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時に見かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました?;挙工毪长趣摔瑜盲迫摔撕酶肖蚺cえられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に來てから毎日自分でこれらの家事をしました。將來いい女にならなきゃとあの時はそう思いました。でも殘念なことに今中國の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時、日本の學生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に來てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大學際の時、彼らは私たちを助けてくれて、私達の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。
今の私は日本に行けて本當に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達などいろいろな人と出會えてよかったです。もう二度と會うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出會いであったと思うと尚更會えて良かったという気になります。
また日本でいろいろなことを初めて體験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過ごす舊正月等等…。この半年間で私は大きく成長したと思います。
滑走、離陸、飛行
日本語學科0401班 繆 嬋
飛行機は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大學時代も、三年の努力と準備で、この6ヶ月の交換留學のチャンスを勝ち取った。工商大學、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。
この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外國生活の苦しさを時々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強と生活へと戻らせた。
四天王寺國際仏教大學で日本文化論、中日通訳、経済常識などの科目を勉強して、日本語能力にも、日本についての知識にも、もっと自信を持つようになった。授業(yè)でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本當にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業(yè)でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した內(nèi)容を真面目に準備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級日本語の授業(yè)を通じ、進歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無味乾燥な経済循環(huán)や金融危機を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元気さだ。いろいろすばらしい先生方のおかげで、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績が取れたと思う。
國際交流センターの村上センター長、氏家課長、夢田さん、三輪さんは私たちの留學生活を充実させるために、職場以外でも「サービス殘業(yè)」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滯在中、私たちのわがままと油斷によってすっかりご迷惑をかけたが、國際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留學生たちのように、日本語能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業(yè)以外の時間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養(yǎng)護老人ホームにアルバイトに行った。園長は長い時間の面接をして、初めて外國人のバイトさんを採用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護たちの連絡や報告もちゃんとしなければならないし、初めての時、次長も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外國で「中國人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中國に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開けてくれる。
帰國してから、もう1週間だ。日本の先進技術(shù)や禮儀作法などは中國人にとって勉強に値する。もうすぐ卒業(yè)して社會に入る私にとって、この半年は専門知識を高めることができ、肌で感じた日本の感觸はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。
日本はすばらしい國だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな畫面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている。滑走して、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を殘した島國に行くだろう。
思い出せば
日本語學科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留學生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時間だったと思う。日本語を三年間も勉強したけど、今まで日本語を?qū)g際に話す機會が多かったとは言えない。授業(yè)や日本語コーナー以外に、日本語を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留學のおかげで、思いっきり日本語を話す機會を手に入れることができて、本當にうれしかった。私は日本に著いたばかりの日、迷子になってしまった?!袱工撙蓼护?。ここに行きたいのですけど」と小さい聲で地図を見てもらった方にそう言った時、胸がどきどきした。「ああ。まっすぐに行って、二番名の信號を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調(diào)にいくと思っていたのだが、著いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり參ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語はまだまだで勉強すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優(yōu)しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語や外來語を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達は主に大學祭の時できた。日本の大學祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと來ない感じがあった。それは私が見たドラマやアニメの中に大學祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に參加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中國に関する情報をできるだけ多く日本人に伝えるために留學生の私たちは參加させていただいた。先生たちは初めて大學祭に參加する私たちの為にわざわざボランティアの學生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服裝を準備したり、見所を考えたり、會場を飾ったり、ボランティアで集まった日本の學生達の創(chuàng)造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遙かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時根気よく敬語の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも學ぶべきだと思った。藤井寺には日本語教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語の話せない在日外國人に日本語を教えている。またそのお年寄りたちも外國人から外國の情報をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢神宮に行った時伊勢神宮のことを教えてくれたり、クリスマスの時料理を作ってくれたり、帰國の前には送別會を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本當にありがたかった。人生は一期一會と言っても、人と人の縁が結(jié)ばれればそれは一生の寶だと日本語教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時のように頻繁に會えなくても、インターネットを通じて連絡している。今回の留學で、私は生活の勉強もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰國してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業(yè)する準備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰かの為に奉仕し、誰かを助ける事を通して、この恩に報いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。
半年の留學を振り返って
日本語學科0401班 王 洋
帰國して二ヶ月。親戚と友人に會う時によく「日本での留學生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤獨、それに感動に溢れた日々を。
日本に到著し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、學校の宿舎行きの車に乗っている間中、ずっと夢のような青い海を眺めていた。僕は海を見るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異國體験だから。20年間暮らしていた母國を離れて、異國で生活するのは人生の中で初めての體験である。「僕は今後の半年の間に、どのような學校で勉強するのか、どのような環(huán)境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた國際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ??崭郅蓼怯à藖恧皮い郡坤い郡獖棨丹螭涡︻啢纤財长坤盲?。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車から降りた後、部屋までスーツケースを運びながら、僕らの住む環(huán)境について紹介してくれた。結(jié)構(gòu)ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて會うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。國際交流センターのスタッフたちと學校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留學の間に色々細かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見知らぬ環(huán)境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動販売機で電話カードの買い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、學校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や學校の友達に會いたくなるのだ。孤獨感が強かった。
學校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい學習環(huán)境は留學生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強した言語や文化の知識はいよいよ役に立つのだ?!赶兢蕰rが多すぎると皆退屈じゃないか」と學校側(cè)が考えてくれて、僕らの意見と合わせて授業(yè)の數(shù)を予定より少し増やした。その授業(yè)の中で、五つくらいは日本人の學生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文學史Ⅱと日本文化論。理解するのに時間がかかる。通訳理論と実踐や上級日本語及びビジネス日本語などは留學生向けの授業(yè)だから、人數(shù)が少ない。授業(yè)の雰囲気は比較的楽だった。運動や友達作りのため、僕は放課後の時間を利用して學校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習していた。週末は時々彼らと関西のバスケのリーグ試合に參加し、各學校のクラブ文化を體験し、関西周辺の學校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年會に參加した。
日本に著いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中國の社會事情を?qū)い亭?。それによく生活の中であったことについてアドバイスしてもらった。お正月の時もわざわざ家まで招待してもらった。映畫も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰國直前、感謝の気持ちを込めて中國式の水餃子を作ってあげた。それに、中國ではいい縁起を象徴 19 する「中國結(jié)」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調(diào)味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動的だった。今だに時々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。
留學の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢神宮、大阪市內(nèi)の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見たこともない美しい赤色だった。大學での活動にも沢山參加した。一番印象深かったのは大學祭。僕らは日本人の學生たちと中華茶館をやった。中國の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、國際交流センターのスタッフたちと學生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。
半年の留學生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本當に勉強になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。
帰國直前、沢山の人が送別に來てくれた。感動的だった。親切な學校の先生方、交流しに來た學生たち、それといつもお世話になっていた國際交流センター、教務課、総務課、図書館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも國際交流活動を行っていただいた藤井寺市國際交流協(xié)會のスタッフたちに、心から感謝している。
帰國前最後の夜。一人で帰りの最後の電車に乗っていた。車窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過ぎってしまった。桜満開のキャンパスを見るチャンスは結(jié)局なかった。殘念だった。しかし、半年の短い留學生活は桜が散るのと同じようだった?;à婴椁Δ殡xれて散ってしまうのは確かに殘念だが、それより重要なのは開花してから散るまでの短く美しい過程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。
將來またいつか會えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある?!袱嗓Δ兢獨荬?!ザイジェン?。à蓼郡停?/p>
「さようなら」から「ただいま」へ
日本語學科0401班 徐 哲紋
2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機に乗って杭州に帰りました。これで半年の留學生活は完全に終わりました。
帰國する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別會、帰國手続き、お土産買いなどなど。本當に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機が離陸した途端に日本への名殘惜しさがこみ上げてきました。
正直、大學四年生の時に交換留學するなんて今でも信じられないと思います。去年、王寶平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時のエピソードを今でも覚えています。當時はクラスで誰もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出國手続き、一歩一歩進んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留學へ行くことを?qū)g感しました。私にとって、今回は日本との初めての出會いです。こんなに長期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時、先生が路線の調(diào)べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災の遺跡を見て改めて命の大切さを感じました。
私は今回の留學を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場所には皆私の足跡が殘っています。旅を通して、自分は今日本という社會に、そして日本人という集団に屬して輝いているということをしみじみ感じました。
たとえ日本語學科の學生でいつも日本のことを勉強しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。
例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。來る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社會で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺國際交流協(xié)會の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、國際交流に非常に熱心で、特に私たち中國人の留學生と熱心に付き合ってくれたことは本當にありがたいと思っています。
中國に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時よりも、むしろ今の方がこちらの環(huán)境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時に日本のバスが時間通りに來ることをいつも思い出しています。今の中國は他の國に習わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠點があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達できないはずです。他人の長所を見つけて、自分の欠陥を補ってこそ、國も人生も発展できると思います。
帰國してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留學は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます。「人生は不思議です。」一人の先生が日本に戻る時こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留學に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。
ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。
私の日本留學
日本語學科0401班 葉 楠
稅関で検閲を受けて、飛行機に乗りました。疲れたせいかすぐ寢始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの聲が聞こえてきました。ついに日本に著いたということが分かりました。
初めての留學生活に対する憧れと心配の気持ちを同時に心に抱き、荷物を持って飛行機を降りました。日本に対する第一印象は「靜」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見えません。友達と話す時もわざと聲を小さくして話します。大學で授業(yè)を受けた時よく先生方から日本の電車はとても靜かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本當にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに靜かです。日本の住宅街も靜かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている聲があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、殘念ながらなかなか答えが見つかりませんでした。
國內(nèi)にいた時も日本文化などの授業(yè)を受けたけれど、実際こちらに來て、毎日の新しい発見を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細なことで日本を感じ、日本人の生活を體験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚著してもぶるぶる震えながら學校へ向います。そんな時、よく見かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元気な小學生や中學生たちです。昔新聞で見たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中國の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を著せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。
また、日本の街を歩いてみると、時々著物を著ている女の人の姿が見えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり著物でしょう。結(jié)婚式や成人式など正式な場合だけではなく、普通に著ています。中國の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。殘念ながら、中國では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど著ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統(tǒng)的な美しさが味わえ、伝統(tǒng)的なものと現(xiàn)代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機でも盲人専用の點字があります。普通のお弁當でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中國のことが放送されます。興味津々で見続けると、殘念ながら中國の悪いところばかり流れています。同じく殘念なことなのですが、中國の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報道する一方、意識的或いは無意識的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側(cè)面だけを強調(diào)する傾向があるよう 23 です。でもお互いの國の人々は大體マスメディアから情報をゲットし、そしてイメージします。それは両國の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語能力が上達したかはっきり言えないですが、確かに成長していると思います。言葉や知識だけでなく、いろんな面で勉強になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に殘っています。まずかったです。最初の時はフライパンを持って慌てて取り亂しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり來たりして、家に著いた時外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達と話す時とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に會話ができるようになりました。長いようで短かった半年、日本での留學生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ來て自分の目でその國を見ていろいろと體験できたことは本當によかったと思います。
卒業(yè)する前の半年にこんな貴重な機會をいただいて日本を感じることができ、心から學院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。
私の留學日記
日本語學科0401班 張 叔傑
1月25日(晴)新幹線で東京へ
日本に來て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中國國內(nèi)で「和諧號」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。當たり前のことですが、周りは誰もが日本語を話す日本人で、私は中國語を話す中國人だからです。新幹線で約三時間、途中の主要な駅は京都、名古屋、靜岡、新橫浜で、そして最後に日本の首都――東京に到著しました。東京駅を出て目を向けると、誰もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費しない働きマンです。
1月26日(晴)東京めぐり
朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。
チーム活動では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環(huán)、張叔傑、付穎です。チームで皇居の寫真をたくさん撮りましたが、集合寫真を撮りそびれました。殘念。遠くの東京タワーにカメラを向け、數(shù)回「カシャカシャ」。その時、集合の合図が聞こえました。淺草の雷門では26人の集合寫真を撮影?!弗钎蟆工我簸摔撙螭胜Δい蓼筏?。
チームは解散、雷門で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動。渋谷109、NHK、代々木體育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お臺場、フジテレビそして観覧車。いずれも外側(cè)から一度ざっと見るだけでしたが、日本の學生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい體験でした。中日學生交流會では、おのおの自分の意見を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、國籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での體験を全て言葉に出し盡くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見える船の科學館でビュッフェ。幸せ。
1月27日(雤)東京から沖縄へ
3時間ほど飛行機に乗り、ついに那覇空港へ到著。ずっと行きたかった沖縄。気溫19度??諝荬畏肿右护囊护膜撕¥蝿訾い绀欷皮い蓼筏?。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。
1月28日(雤)沖縄
ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦爭の殘酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や寫真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙禱を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願うことしかできません。
首里城はどこかで見たことがあるような感じがして、古代王朝を夢に描きました。沖縄は中國ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。
海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、寫真を撮りました。蒼い空と海、白い雲(yún)と砂。夢に見た冬の沖縄をついに自分で體験できて、本當にこの上ない幸せでした。誰もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全體にさわやかな笑い聲が響いていました。すばらしい風景を享受すると同時に、私たちも風景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時間半も経っていました。余韻は盡きません。最大の成果は「川流會」を結(jié)成したことです。私たちの友情も「川流會」とともにたえず育っていくと思います。
1月29日(曇)神戸
10:05離陸、さようなら、親愛なる沖縄。大阪に到著…。有馬溫泉は、日本三大溫泉の一つです。日本人の溫泉好きは來日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の溫泉を自ら體験できたことは、本當に私たちを興奮させました。唯一殘念だったことは、溫泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習慣がない國の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。
1月30日(晴)京都
金閣寺。天気予報では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黃金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見學するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見に値するところです。景色は同じ景色ですが、見る人は違います。今こうして清水寺を見學する時の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。
以上のシーンは留學生活のほんの僅かな一部分です。日本滯在中の半年間、一日一時一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大學の先生方、國際交流課の職員さんたち、學園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の學生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出會ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの國で出會った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠に。
僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を體験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時に日本人との觸れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の斷片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奧に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠に忘れることはないでしょう。
半年の留學生活を憶う
日本語學科04甲班 周 倩倩
時間が経つのは本當に早く、半年の留學生活はあっという間に過ぎてしまいました。留學のチャンスを得て、異國の生活を體験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過ごす事ができて、いろいろな人に出會って、今まで體験した事の無い事をたくさん體験して、昔はテレビでしか見る事のできなかったものを自分の目で直に見る事ができて本當に良かったです。日本人の先生方と學生さん達と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本當に懐かしく思います。
到著したばかりの興奮
9月10日、私たち14人は関西國際空港に到著し、以前訪問し時と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに來てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問時と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留學生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時非常に興奮していました。和交寮に著いて、私たちは生活設備が完璧に用意されていることに気づき、日本に著いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。學校の授業(yè)が始まるまでにはまだ時間があったので、到著後の數(shù)日間は學校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また國際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車と攜帯も買いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動の範囲も幅広くなりました。日本に著いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。
ファッションを感じる
學校が始まりました。靜かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黃色く染めて、綺麗に化粧をしている女子學生達がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお灑落です。そんな若者達を見て、いつか見たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お灑落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長いブーツを履いて、寒さや暑さに構(gòu)わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見た時、さすが日本はファッション大國だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。
大阪弁
大阪にいるから、學校でも公共の場所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰國前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。
十一月の大學祭
大學祭。前はただ日本のドラマで見たことがあっただけでしたが、やっと自分も體験できることになりました。大學祭前には、學生さんが學校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大學祭のためにいろいろ準備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も國際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの學生さん達のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中國結(jié)、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯(lián)、飾り物など、また浴衣を著ている日本人の學生さんとチャイナドレスを著ている私たちは開催の日にいろいろな市民と學生さんを引きつけました。參加してくれた人數(shù)は私たちの予想を遙かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中國の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖國中國を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。
伊勢神宮の見學
藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢に見學に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。內(nèi)宮へと向かう通路で、日本の伝統(tǒng)文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に參加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も體験しました。
アルバイトの生活
日本の學生はほとんど皆バイトしています。社會経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時間営業(yè)のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている?yún)棨筏さ觊L、優(yōu)しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人數(shù)人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名稱に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優(yōu)しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを與えてくれた店長、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。
半年の間いろいろな人と出會って、その中の一部の人とは一期一會かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の寶物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。
最後に今回の貴重な留學の機會を作ってくれた本校の學院の先生方にまずはお禮を申し上げたいです。また四天王寺仏教大學國際交流センターの先生方にも心よりのお禮を申し上げたいです。日本の先生方は私たちの生活の面でも勉強の面でもいろいろ助けてくれて、その助けがあったからこそ今度の留學が順調(diào)に進み、いっぱい素晴らしい思い出を作ることができたと思います。今度の留學で私たちは視野を広げ、大きく成長できました。
第三篇:做作文集的感想
做作文集的感想
這一部作文集,我還是盡了很大努力才能完成的。剛開始寫作時,我總不知道該寫什么,該怎樣下筆;而靈感也躲起來了,不和我見面。那時我很苦惱,不知該怎么辦才好。過了幾天我還是沒寫出任何東西。那時我真想放棄,不在寫下去了。但是,我的媽媽說我不應該遇到這一點小小的困難就放棄,并鼓勵我,要我堅持下去。我聽了她的話,堅定了我的信心,再繼續(xù)努力做這本作文集。結(jié)果,我成功了,我把我的作文集制作完畢,我完成了我原以為不可能完成的事。
通過做著一本作文集,我懂得了很多事情?,F(xiàn)在,我能讓我的作品呈現(xiàn)在大家的面前,我覺得很高興,也很滿足。我覺得這本作文集是很值得珍藏和留戀的,它將會成為我一生中最珍貴的事物,我會好好地珍惜它。
其實多寫作文,對自己的水平能提高很多,雖然我們的語言還不夠精美而簡練,但是如果能吃的話會越寫越精彩的,其實我覺得一本作文集,不光是一些圖片可以裝飾的,更是能體現(xiàn)出一個人的觀察能力。
雖然這篇文字不多,卻包含著自己的努力!
嗑瓜子是我的嗜好。
當你磕細長的葵花籽時,首先要將瓜籽放在兩齒之間,用舌頭輕輕托起,一點點向尾部磕去,發(fā)出悅耳的聲音,在我耳中仿佛是貝多芬,莫扎特的杰作,然后用舌輕巧一卷,仁兒便順利滑進嘴,頓時塑像滿口,回味無窮!
當你磕西瓜子時,可跟葵花籽是完全兩樣了,那需要十分精湛的技術(shù),你若是急性子,耐不得園園瓜子的誘惑,一口下去,結(jié)果必是皮碎仁段,興也會掃去半瓣兒,如果采取軟磨硬泡的辦法,結(jié)果也會令人煩惱,原本好好地一顆瓜子,就會被人碾得“粉身碎骨”連皮帶子一股腦吞下,這種吃法也品不出其中的味道,而且也不大美觀。
有一次,我看見父親正在嗑瓜子,很有興趣的請教他嗑瓜子的經(jīng)驗,爸爸不慌不忙的為我演示了他嗑瓜子的過程,然后對我說:“對待西瓜子,你既不急,也不可拖,要拿到十分的火候?qū)⒛枪献臃旁趦升X之間,否則就是皮碎籽斷的結(jié)果。接下來就是最關(guān)鍵的一步了,這時要用兩指輕輕夾住瓜籽,要做到不送不緊,采取閃電戰(zhàn)術(shù)的方法,“嘎”的一夾,皮破仁出,只剩下雪白豐厚的瓜子仁了。要是加上綠茶,效果會更加好?!鞍职终f著深喝了一口茶。
我不禁驚嘆道:“吃個瓜子還要這么多過程!”
爸爸對我說:“對!重要的是過程!有誰喜歡大把大把的抓仁吃呢?”
一副好畫之所以打動欣賞者,是在于欣賞者本身的體味過程。一個真理產(chǎn)生是由于生活過程的積累,而不是生命枯竭那一刻得出的,十年寒窗,不僅為了金榜題名那一天,更是日積月累,博覽群書的一段求索過程。
人生亦是如此,人為了生活過程而活,而不是為了死亡的那一天,如果你只重視結(jié)果而忽略了享受過程,那么你縱然付出很大代價而實現(xiàn)目標,回頭看看,你的收獲僅是結(jié)果了,而缺少生命過程中沉淀。
所以,我們有一切理由去真愛現(xiàn)有的一切,珍愛這個無比珍貴的生活過程。這就是嗑瓜籽的哲理。
秋天的遐想
秋天終于來了.我生長在南方,對南方的秋天有著不一般的喜愛和依戀.在南方,夏季來得漫長,以致秋天的到來總會比北方晚些.然而,南方秋與夏之間區(qū)別還是明顯的.秋天是寒暑交替的季節(jié).一場秋雨一場涼,前幾天一場秋雨過后,不再有酷熱難熬的氣溫,肆虐的秋老虎倏忽不見了蹤影.人們可走出家門,走進大自然,盡情享受秋天別有一番的風景;秋天不再有放射灼人的紫外線,曬得皮膚火辣辣的,秋天的陽光給人的感覺是柔和嫵媚的;淫威的臺風,狂嘯的暴雨也已遠去,秋風給人的感受是爽快和愜意.秋與夏的區(qū)別除氣候外,還有許多.比如樹葉,秋和夏樹葉的顏色反差彼大.一到秋季,樹上的綠葉沒有那么鮮綠了,慢慢地由綠變黃,隨著秋天的深入大部分樹種的樹葉一片金黃,輝煌璀璨,在陣陣秋風掃蕩下,片片黃葉也開始紛紛飄落大地,頗為壯觀.鄉(xiāng)村小道上,泥土氣息漸漸濃郁起來,晨練和傍晚散步時,習習吹來的風帶有絲絲的涼意.秋夜,月色不再朦朧,月亮皎潔明亮,清輝溢耀.郊外,散發(fā)出野花雜草陣陣清香;林中夜鶯聲聲,清脆動聽;樹木花叢中,小鳥嘰嘰的叫,賞心悅耳.伴隨秋而來的天籟之音美妙極了,疏落的蛙聲,稀弱的蟬鳴聲,似乎傳遞著夏天的離去.驟雨的停歇,鳥兒的歌唱則告訴人們秋天開始了.秋天是成熟收獲的季節(jié).鄉(xiāng)村里,一片金燦燦的稻浪;山坡上,遍野的柑,橙,橘,柿等果實;瓜棚上,攀滿瓜果藤芋與成熟的瓜果,等待著播種者的采摘,收割.我喜歡秋天.是因為它沒有病菌,害蟲的侵襲;是因為它沒有暴風驟雨,沒有雷電的打擊;是因為它沒有烈日和酷暑的煉獄;是因為它沒有冰凍和寒冷的冷酷.我喜歡秋天的秋高氣爽,喜歡秋天的碩果累累.秋天給我的印象,一幕,一幕,明朗,清晰……
我喜愛秋天,贊賞秋天,依戀家鄉(xiāng)的秋天,期盼每年的中秋在家鄉(xiāng)與遠方的親人團圓.前言
這是我第三本作文集,也是我第三次續(xù)寫,這本作文集收錄了我平時的練筆和一些課堂作文,都是自己的一些看法,感受,或許比法有些稚嫩,語音也不夠流暢、優(yōu)美,但是還是能不斷完善的,通過不斷練習,相信會越寫越好。
古人云:讀書破萬卷,下筆如有神
作文水平的提高,固然不一定讀書破萬卷,但只要多讀書吸取一些好的語句,思想便會更豐富;只要多筆耕,筆端便會如泉涌,讓人感覺到快樂。
寫作更多的是感受,當你學會大大方方的投入大千世界的懷抱世界必將回饋給你更靈動的文章。作為一名青少年,如果學會了寫作,就是學會了獨自面對生活,學會了獨自面對自己,學會了思考人生,學會面對宇宙和未來,這是個人成長的聲音,是生命拔節(jié)的聲音。
我相信這第三次的寫作必將會帶來以后一次次的突破,越來越好,越來越美,越來越流暢,越來越棒!我用文字記錄下自己生活,學習、思想中的點點滴滴,相信會更好更棒!
父愛在細微
有那么一個夜晚,我哭了,“他也哭了”,但那時我們并不是為甚么事哭!---題記
剛把我生下來的時候,也許它們在慶幸我的到來,也許它們再難過。還記得那是我剛生下來的時候就下了病危通知書,父親在外面看著我,母親卻不知道,在那個夜晚,天上也許很黑,父親不知哭了多長時間,而我卻漸漸睡著了。
第二天,爸爸拿著錢,跟醫(yī)生說一定要救我,醫(yī)生問了爸爸很多遍,但是爸爸依然是那么堅定的說著,醫(yī)生看見爸爸的堅定也就同意了,經(jīng)過幾天的搶救下,“我終于從閻王爺那回來了”,爸爸當時把我抱在懷里,高興地感謝著醫(yī)生。
就這樣,我回到了我的家,這個很溫馨的家,那個家真的很溫暖、很快樂!
從幼兒園到小學我慢慢的長大了,父親也慢慢的在變老,而那時我把我所有的精力都放在了學習中,從小學那時我已學會了如何感恩。
在這幾年來,我漸漸的學會關(guān)心父親,也讓他知道我很愛很愛他。
雖然爸爸的脾氣很不好,但是很少跟我生氣,我知道他也是很愛很愛我這個女兒的。
為了感謝父親,為此我編了首小詩:
父親,您如一縷陽光,照耀著我。
父親,您如一條大河,寬容著我。
父親,您如一把傘,把我所有的委屈都丟掉。
父親,您如一棵樹,為我撐起一片陰涼。
父親,您如一朵云,讓我在天空中自由飛翔。
父親,我感謝有你的日子。
父親,我感謝是你給了我“生命”。父親,我永遠愛您。
一朵花,會永遠為你盛開著,它會帶給你無窮的快樂,讓今后的我們父女感情更加好。---后記
讀書的快樂
在我讀書的歲月中,雖有老師的言笑,雖有異國朋友的真情友誼,但在我靈魂深處,僅有一扇開向心靈的小窗---我看得見長江的點點白帆,也可以看得見門前慈母的眼淚??傆幸惶欤椅也辉僮鲋ι系囊国L低吟,我會像云雀那樣一翅沖天,為中國唱出我贊美的詩章。___題記
我坐在水塘旁,靜靜看著那本書,我讀到楊萬里那首“泉眼無聲惜細流,樹陰照水愛晴柔 ”。泉眼默默,好像愛惜它那涓細的水流聲,樹陰映照著水塘,仿佛很依戀這晴麗的溫柔。
“梅子金黃杏子肥,麥花雪白的水流聲”,夏天梅子金黃,杏子肥而嫩。而麥穗花兒雪白,菜花卻很稀少,這首詩仿佛把我?guī)У教飯@生活里。
“等閑識得東風面,萬紫千紅總是春”,百花齊放,萬紫千紅,春意傲然的風景像讓人總能聞到一縷縷撲鼻的花香。
“個個花開淡墨痕,只留清香滿乾坤”朵朵梅花開放時顯出了淡淡的墨痕,只求那清香氣味充滿天的見,令人回味無窮在讀書中,雖沒有金色的沙灘,但有真誠的情誼,在我記憶里,僅有一扇開向心靈的小窗---我能知道讀書可以獲取更多的知識,也知道讀書增長智慧,總有一天,我不會再,再做一個平凡的人我要學會笨鳥先飛的方法,我要一翅沖天,因為讀書可以獲取知識、可以唱出我贊美的詩章。
我們每個人都要讀書,但是讀書地方法卻截然不同,有的會有效的接受新的知識和內(nèi)容,然而有的人則會吸收的很慢,我們雖然都讀書,但是都有著不同的感受和快樂,在讀書總也可以體會到友情的味道,愛國的味道,思念的味道。
讓我們在讀書中能收獲一份驚喜、一份感動、一種人生的美麗哲理。
讓我們?yōu)槊魈斐憽?/p>
讀書就像滔滔不絕的大海,讓我學會了許多知識;
讀書有像一盞明燈,點亮了人生的輝煌;
精彩讀書行,精彩了我的生活,豐富了我的知識。___后記
淚是有顏色的
淚是有顏色的,雖然它透明的像空氣,但它的的確確背負著每個人背后的故事。
我筆下的淚,是苦的,是承載著傷痛與失望,是孕育著不得不發(fā)泄出來的悲哀,是用言語表達不出來,是用心體會的一絲雨點。它需要人們?nèi)ダ斫馊バ湃稳ジ惺?,因為不是每個人都能笑過一生,有時,淚需要發(fā)泄,需要讓它將你的痛楚完全展現(xiàn),不要欺騙自己,其實,你很傷心,一味的逞強只是堅強的背后的懦弱罷了。一個人靜一靜,心里就不會那么痛了。
每個人都做過這樣的夢,考試考了個第一名,老師夸獎,同學羨慕,家長喜歡。那是,是不是你的小世界都開花了,感受到的幸福是驕傲,是自豪。我也是這樣的一個小女孩,喜歡把夢想放在現(xiàn)實之前,但是,每次都如曹操般“大失荊州”,但我畢竟只是個愛做夢的女孩子,一次次認為自己很努力,但是一次次的變成空氣,沉淀到了如絲般得雨點中。
又是一次考試,又是一次失敗,那個晚上,她給我打電話聲音很小的說,多多,你這次考試不是很好。我心一驚,但馬上又平靜了下來,靜靜的等著她的下言。多多,你要努力啊,我知道你也很想好好學,但是我們支持你,你要好好的努力了。我僵硬的扯了一個比哭還難看的笑,不言。
我轉(zhuǎn)過身,不言,過了許久,那個同學稍稍嘆了口氣,走了。
突然感覺,風好像很大,撲向柳枝,柳枝發(fā)瘋了似的左右搖擺。不知怎么的,心竟然哭了。淚水不斷的涌出來,伴隨“淅淅瀝瀝”的雨水一同涌進我那干涸的心中。發(fā)絲厭倦的萎縮在皮膚上,模模糊糊的,看不清是喜是哀。淚水在手臂上滾動著,濕潤著。我的心在慢慢的滋潤著。
過了不知道多久,我停下了無止境的悲傷,總感覺,心好像放晴了,每每的現(xiàn)在,我都是放松的。我深吸了一口氣,累了也倦了,躺在柔軟的手臂上,漸漸的閉上了眼睛。
我夢見了,我夢見了,我夢見在一片廣闊的草原上,我在奔跑,在拉著宿友們的手,笑著,嬉戲著,奔跑著,我們仿佛互相能夠看到內(nèi)心,純凈的,無任何隔閡的,總有一縷陽光在照射著我們,那時,我笑了,笑的事那么的燦爛,連花兒都失去了顏色,月亮都遮住了臉龐。
多多,醒醒,醒醒。我垂了垂頭,漸漸的清醒了。
好好的哭一場,讓內(nèi)心無憾!
好好的哭一場,讓內(nèi)心無憾!
小結(jié)
作文集已經(jīng)出爐了.初二的下學期結(jié)束了,初三的上學期也快開始了.我驚異最嶄新的面孔去迎接初三上學期的到來.再見了,初二下!
你將成為我最美好的回憶,愿我們的作文集能做得更好!目錄 前言 2 秋天的遐想父愛在細微處 4 讀書的快樂 5 淚是有顏色的 6 品味嗑瓜子 7 做作文集的感想 8 小結(jié) 我的作文集 包美多
第四篇:毛澤東文集讀書報告
毛澤東文集讀書報告
以前沒看過多少毛澤東同志的文章,只是在課本中粗略地讀過他的幾篇詩文,給人一種無以言表的霸氣,被他那種滿腔激昂的情緒所深深震撼,但也僅此而已。并未做什么深入的研究。近期,受老師的影響,再加上要寫一些讀毛澤東同志的社會調(diào)查報告的讀書報告,這才仔細的閱讀了他的一些文章。原本以為會是枯燥無味的,而近期看了《毛澤東選集第一卷》后才發(fā)現(xiàn)并沒有預期的枯燥無味,反而越看越有意思。
看了《毛澤東選集第一卷》的內(nèi)容就知道毛澤東很會分類,知識寬闊。毛澤東看問題很深透、思維縝密、觀點獨到、針對性強。在第一卷里中國各社會階級的分析里,毛澤東同志很是精辟的論證了中國各社會階級的組成及人數(shù)的對比。組織一切可以組織的力量。在企業(yè)管理中可以分析公司的優(yōu)劣,現(xiàn)在對我們的學習也可以有借鑒意義。
反對本本主義
“沒有調(diào)查,沒有發(fā)言權(quán)”,我想這是大家都耳熟能詳?shù)囊痪湓?,這就是毛澤東同志的經(jīng)典著作《反對本本主義》的第一個部分。這是一篇筆鋒犀利、潑辣,極富戰(zhàn)斗性的文章。在這篇著作中,作者從認識論高度第一次鮮明地提出“沒有調(diào)查,就沒有發(fā)言權(quán)”,“中國革命斗爭的勝利要靠中國同志了解中國情況”等著名論斷闡明了社會調(diào)查的重要意義,以及調(diào)查的目的、對象、內(nèi)容、方法和一些技術(shù)細節(jié);揭露了教條主義的錯誤及其對革命事業(yè)的危害,批評了紅軍中一部分人安于現(xiàn)狀、墨守成規(guī)、迷信“本本”、不愿作實際調(diào)查的保守思想。文中還表達了學習馬克思主義必須同中國的實際情況相結(jié)合的思想,并在中國共產(chǎn)黨的歷史上最早明確地提出黨的思想路線問題,強調(diào)共產(chǎn)黨人要堅持從斗爭中創(chuàng)造新局面的思想路線。
文章中的許多觀點在我們現(xiàn)在所處的這個時代仍然是適用的,如沒有調(diào)查,就沒有發(fā)言權(quán)、調(diào)查就是解決問題。這些觀點對現(xiàn)今我們的學習生活工作也是必須的。學習上,面對假期實踐活動,要認真完成課題,并要從中學習到有助于我們?nèi)蘸笊钆c工作的東西,就必須得進行調(diào)查;工作中,有著要面對的諸多問題,在這些里面,沒有經(jīng)過調(diào)查而取得確實的數(shù)據(jù)材料,要成功完成工作是相當困難的。對此,人們應該要有也必須要有所認識與關(guān)切。
此外,文章中也給我們提供了許多值得娓娓道來的精彩思想。首先,它為我們提供了一條正確的思維原則和思想路線?!皼]有調(diào)查就沒有發(fā)言權(quán)”、“調(diào)查就是解決問題”,所以我們一定要糾正脫離實際情況的本本主義?!币择R克思主義理論、毛澤東思想的指導作用,強調(diào)必須堅持一切從實際出發(fā)。堅持這條路線,就要積極進取,不斷開拓,反對
消極保守。
“你對于某個問題沒有調(diào)查就停止你對于某個問題的發(fā)言權(quán)”就是這篇文章的第一句話。這猶如一聲斷喝,矛頭直指那些不深入實際調(diào)查就針對某個問題胡亂發(fā)言的人。就是在今天,讀到這里,如果我們對某個問題沒有深入實際調(diào)查就胡亂發(fā)言、隨便決策,依然猶如芒刺在背,如鯁在喉。
“你對于那個問題不能解決么?那么,你就去調(diào)查那個問題的現(xiàn)狀和它的歷史吧!你完完全全調(diào)查明白了。你對那個問題就有解決的辦法了。”這就告訴我們惟有深入的調(diào)查研究,才是正確解決問題的有效辦法。還比喻“調(diào)查就像‘十月懷胎’,解決問題就像‘一朝分娩’”,只有進行了艱苦的“十月懷胎”式的調(diào)查,找到了解決問題的正確辦法,才可能會有“一朝分娩”式的迅速解決問題
其次,它是反對我們實際工作中產(chǎn)生主觀主義和“左”“右”傾錯誤的銳利武器?!半x開實際調(diào)查就要產(chǎn)生唯心的階級估量和唯心的工作指導,那么,它的結(jié)果,不是機會主義,便是盲動主義?!敝饔^主義包括教條主義和經(jīng)驗主義兩種表現(xiàn)形式。《反對本本主義》既反對把個人的局部經(jīng)驗絕對化而否定馬克思主義理論的指導作用的經(jīng)驗主義,又反對不懂得從工作實際出發(fā),只知背誦的教條主義。
在我們的具體學習中,常常習慣于機械地理解書本上的知識,簡單照搬,不懂得變通以至于我們都成了教科書的奴隸,整天行尸走肉沒有一點自己的思想;生活中,只知道墨守成規(guī),庸碌地度過一生;工作中,只呆板地執(zhí)行上級交代的任務,仗著自己“沒犯錯誤”,仗著自己“貫徹命令不走樣”而無所顧忌,這種本本主義也因此更有廣泛性和頑固性。毛澤東在文中指出:“盲目地表面上無異議地執(zhí)行上級的指示,這不是真正在執(zhí)行上級的指示,這是反對上級指示或者對上級指示怠工的最妙辦法?!薄懊睢痹谀睦锬??“妙”就妙在不動腦筋,不深入實際調(diào)查,具體制定適合自己的具體方式,只是生搬硬套,明明影響了發(fā)展,造成了損失,卻因看上去“沒犯錯誤”而難以追究其責任。
再次,它為黨員養(yǎng)成并保持優(yōu)良的思想作風指明了方向。“邁開你的雙腳,到你的工作范圍的各部分各地方去走走,學個孔夫子的‘每事問’。”針對上級指示和書本上的理論一味盲目執(zhí)行和照搬照抄的教條主義,毛澤東在《反對本本主義》中開出了一劑藥方:“怎樣糾正這種本本主義?只有向?qū)嶋H情況作調(diào)查”?!肮伯a(chǎn)黨的正確而不動搖的斗爭策略,決不是少數(shù)人坐在房子里能夠產(chǎn)生的,它是要在群眾的斗爭過程中才能產(chǎn)生的,這就是說要在實際經(jīng)驗中才能產(chǎn)生?!边@
里指明了馬克思主義者認識世界和克服主觀主義的根本途徑和有效方法在于向社會作調(diào)查。文中對那些“飽食終日,坐在機關(guān)里面打瞌睡,從不肯伸只腳到社會群眾中去調(diào)查調(diào)查”的人,大聲疾呼,發(fā)出了“到斗爭中去!到群眾中作實際調(diào)查去!”的號召。學習《反對本本主義》,對于黨員干部克服思想上的主觀主義和工作中的官僚主義,養(yǎng)成密切聯(lián)系群眾、深入實際調(diào)查研究的黨員作風,努力做好本職工作,具有重要的指導意義。
所以我們必須意識到自身的有限性,意識到我們原有認識中已經(jīng)存在以及可能存在的錯誤,使我們能夠盡可能不受減少舊有的、錯誤的觀念所影響,而更接近事物本身。
當然,有的“本本”是要學習的,如“馬克思主義”這個本本,但是必須同我國的實際情況相結(jié)合。我們需要“本本”,但是一定要糾正脫離實際情況的本本主義。
總之,毛澤東同志的《反對本本主義》一文不僅是對當時那樣的特殊情形才有效用的,而且影響持續(xù)到了當代,通過對這篇文章的閱讀,對我們?nèi)蘸蟮膶W習生活工作都具有一定的指導。
總政治部關(guān)于調(diào)查人口和土地狀況的通知
“不做調(diào)查沒有發(fā)言權(quán),不做正確的調(diào)查同樣沒有發(fā)言權(quán)”,這是毛澤東同志在《總政治部關(guān)于調(diào)查人口和土地狀況的通知》中提出的兩句鮮明的口號,它言簡意賅,發(fā)人深思,具有重要的理論意義和實際意義。
歷史的經(jīng)驗教訓反復說明,作任何決策,必須提倡認認真真地“做正確的調(diào)查研究”。否則,以“不正確的調(diào)查研究”結(jié)論為依據(jù)而作出的決策,不僅脫離實際,而且因其經(jīng)過調(diào)研而不容易引人懷疑,使得存在的問題更難及時發(fā)現(xiàn),從而造成嚴重后果。
三篇調(diào)查 閱讀了《尋烏調(diào)查》、《長閃鄉(xiāng)調(diào)查》和《才溪鄉(xiāng)調(diào)查》后我的第一感覺就是:做一份
調(diào)查不容易,做一份好的調(diào)查更不容易。調(diào)查,不是為了調(diào)查而做調(diào)查,調(diào)查是一種手段,一種工具,一種感悟!作為一種手段,就如一條途徑,一種工具,務必要求精確、科學、真實。相對于理性的思考則更需要一份真情的投入,只有全心全意投入調(diào)查地生活,真情實意的融入調(diào)查地文化,你才能從中獲得有血有肉的材料,而非冷冰冰的數(shù)字。作為一種感悟,則是完好地把理性的資料預感性的心思恰到火候地融到一起,為實現(xiàn)調(diào)查的目的而做好了全面、真實、有血有肉的材料準備,為進一步的分析判斷打好了堅實的基礎!而毛澤東同志通過這么一種全方位的調(diào)查,把一個地方的政治、經(jīng)濟、文化、歷史、現(xiàn)實、優(yōu)勢、劣勢等等
各方面了如指掌,然后為當時的農(nóng)村斗爭策略、群眾的需要、土地改革、農(nóng)村發(fā)展政策的部署等等提供了無可比擬的材料支持。毛澤東深入實際的作風的確令人敬佩。三個調(diào)查,全都是深入實際的產(chǎn)物。毛澤東深入實際,可說是見縫插針,一桿子到底.只要有半點可能。他就要沉到最底層,去獲取活生生的生活知識。
通過一系列毛澤東著作的閱讀不僅是我的知識面得到了很大的拓展而且使我認識到一切事物都不是一成不變的,要學會動態(tài)的思維去思考問題且不僅僅是停留在表面上的思考,另外也使我認識到閱讀的重要性,大學的課余時間是非常充分的,以后我會認真地閱讀一些相關(guān)的著作和其他著作,為我今后正確地觀察事物,解決矛盾和指導工作提供重要的思想原則和科學的思維方式。
第五篇:紅樓夢讀書報告
讀
書
報
告
——紅樓夢的飲食文化
——高一八班 肖懿晨 楊劉昊玥 唐心月 劉天歌 王梓璇 王子威組
紅樓夢,眾所周知,為我國四大名著之首。本學期我們在語文必修三中已經(jīng)接觸了紅樓夢的文章,體會到賈寶玉,王熙鳳,林黛玉等人鮮明的性格特點和賈府奢華壯觀的闊院景觀,讓我們組的六人更對《紅樓夢》一書產(chǎn)生了濃厚的興趣,在課上,我們的語文老師給我們說過,《紅樓夢》是一本百科全書,因為它包含著服裝文化,飲食文化,建筑文化,交通文化,醫(yī)學,經(jīng)濟學,社會學,宗教學,玄學,政治學,藝術(shù)學,道德學,倫理學,植物學,動物學,還包含了佛,道,儒三大宗教的具體體現(xiàn)。其中,不乏有我們獨愛的美食,本就對《紅樓夢》感興趣地我們更加有了興致,在五一假期三天查閱資料完成了此次讀書活動。
我們只是自己查到了一部分紅樓夢中的美食,而據(jù)官方統(tǒng)計,在這部巨著中,曹雪芹用了將近三分之一左右的篇幅,描述了眾多人物豐富多彩的飲食文化活動。“就其規(guī)模而言,則有大宴、小宴、盛宴;就其時間而言,則有午宴、晚宴、夜宴;就其內(nèi)容而言,則有生日宴、壽宴、冥壽宴、省親宴、家宴、接風宴、詩宴、燈謎宴、合歡宴、梅花宴、海棠宴、螃蟹宴;就其節(jié)令而言,則有中秋宴、端陽宴、元宵宴;就其設宴地方而言,則有芳園宴、太虛幻境宴、大觀園宴、大廳宴、小廳宴、怡紅院夜宴等等,令人聞而生津”。據(jù)研究者不完全統(tǒng)計,120回的《紅樓夢》小說中描寫到的食品多達186種。“所有這些食品(包括與食品有關(guān)的洗浴用品)可分為主食、點心、菜肴、調(diào)味品、飲料、果品、補品補食、外國食品、洗浴用品九個類別。其中主食原料11種,食品10種,點心17種,菜肴原料31種,食品38種,調(diào)味品八種,飲料23種,果品30種,補品補食10種,外國食品7種,洗浴用品4種?!边@186種食品有的詳寫,有的略寫,有的隨文而出,有的精心安排,名目繁多,精妙絕倫。
就比如劉姥姥二進榮國府,賈母命鳳姐用“茄鲞”款待她。劉姥姥嘗了嘗這茄鲞,說:“雖有一點茄子香,只是還不像是茄子?!比缓笤儐柎瞬说淖龇?,打算回去也弄著吃。其制法在第四十一回中,鳳姐捉弄劉姥姥的言語中道出“這也不難,你把才下來的茄子剝了皮,只要凈肉,切成碎丁子,用雞油炸了,再用雞脯子肉弄香菌、新筍、蘑菇、五香豆腐干、各色干果子,俱切成丁子,用雞湯煨干,將香油一放,外加糟油一拌,盛在陶罐子里封嚴,要吃拿出來,用炒的雞爪一拌就是?!?鳳姐這段話讓劉姥姥瞠目結(jié)舌,搖頭吐舌說道:“我的佛祖!倒得來十幾只雞來配它,怪道這個味道。”這里的各道工序都精益求精。不但調(diào)和得當而且相當營養(yǎng)。
而且在《紅樓夢》也不乏有飲品的出現(xiàn),比如茶飲。茶是我國文化的結(jié)晶,在《紅樓夢》中飲茶特別講究配以杯、壺、盤成套茶具,小說中幾乎每一位富貴人家居室里都擺著一套精致的茶具。例如賈母花廳上,擺設的洋漆茶盤里就放著舊窯十錦小茶杯。王夫人居坐的正二室里,也是茗碗瓶茶具備。更值得稱道的是妙玉櫳翠庵里的茶具。在第四十一回中,賈母、寶玉、黛玉來到櫳翠庵,妙玉就拿出10種不同的茶具招待客人。給賈母獻茶用的是“海棠花式雕漆填金云龍獻壽小茶盤”小茶盤里裝著“成窯五彩小蓋盅”。
總的來說,一部《紅樓夢》花雨繽紛,灑遍大千世界,它不僅是清代生活的一面鏡子與百科全書,也給我們解讀了那么多的飲食文化之謎。希望我們以后能有更多的時間去研究《紅樓》中無盡的文化底蘊。