第一篇:DIY留學(xué):日本留學(xué)感想
自助非常多
據(jù)360教育集團(tuán)了解,不是我們常說(shuō)的,“走,吃自助去!”那個(gè)自助,而是自動(dòng)販賣(mài)機(jī)。在日本有非常多的自動(dòng)販賣(mài)機(jī),不局限于零食飲料,醫(yī)院、超市、加油站甚至許多學(xué)校都會(huì)有自動(dòng)販賣(mài)機(jī)。學(xué)校的自動(dòng)販賣(mài)機(jī)甚至可以打畢業(yè)證明,并且還有鋼印,非常方便,可惜這機(jī)器不是二十四小時(shí)服務(wù),也有下班時(shí)間。
日本的公共廁所很舒適
拋開(kāi)對(duì)公共衛(wèi)生間臟亂差的印象,我們最多也就會(huì)自動(dòng)補(bǔ)腦到干凈整潔無(wú)異味配有衛(wèi)生紙的衛(wèi)生間。而日本的公共廁所會(huì)有曾經(jīng)在國(guó)內(nèi)掀起熱浪的日本馬桶圈,有自動(dòng)清洗功能,冬季還可以加熱,令人舒適的度過(guò)如廁時(shí)間。
留學(xué)生也享醫(yī)保
這一點(diǎn)非常有利于留學(xué)生,無(wú)論在哪里偶爾感冒發(fā)燒生個(gè)小病都在所難免,日本的醫(yī)保制度不僅針對(duì)國(guó)內(nèi)人,對(duì)國(guó)外人也是一視同仁,留學(xué)生當(dāng)然可以享受醫(yī)保。日本的大醫(yī)院沒(méi)有像國(guó)內(nèi)那么多,一般情況下如果是小病大家都會(huì)優(yōu)先去診所,如果診所無(wú)法醫(yī)治再去大醫(yī)院尋求幫助。
第二篇:DIY日本留學(xué)步驟
就讀日本大學(xué)院通常有3條路,第一,經(jīng)過(guò)語(yǔ)言學(xué)校過(guò)渡,這個(gè)方法比較適合沒(méi)有語(yǔ)言基礎(chǔ)的同學(xué);第二,直接申請(qǐng)大學(xué)院,需要注意的是,提供此類(lèi)機(jī)會(huì)的學(xué)校很少,成功的幾率也比較小,選擇應(yīng)謹(jǐn)慎;第三,申請(qǐng)日本大學(xué)“研究生”,以旁聽(tīng)生(預(yù)備生)的身份在日本大學(xué)院學(xué)習(xí)一年或半年,然后參加大學(xué)院院試,這也是大多數(shù)人DIY申請(qǐng)日本大學(xué)院所走的路。下面就第三種方式,即申請(qǐng)日本大學(xué)“研究生”,為大家介紹DIY申請(qǐng)流程。
第一步、語(yǔ)言學(xué)習(xí)
日本大學(xué)院招生的語(yǔ)言要求為:日語(yǔ),文科N1及以上,理科N2及以上,英語(yǔ)托福70分以上。具體要求可能根據(jù)學(xué)校及專(zhuān)業(yè)有所不同,但是想要不經(jīng)過(guò)語(yǔ)言學(xué)校直接申請(qǐng)大學(xué)院則必須提前開(kāi)始進(jìn)行語(yǔ)言學(xué)習(xí)。
雖然“研究生”對(duì)語(yǔ)言成績(jī)并沒(méi)有那么硬性的要求,但是自己選擇學(xué)校專(zhuān)業(yè),提交申請(qǐng),聯(lián)系導(dǎo)師等所有過(guò)程都需要用到日語(yǔ)(除少數(shù)英語(yǔ)授課的課程),因此提前打好語(yǔ)言功底是非常重要的。
建議大家產(chǎn)生去日本讀研的想法同時(shí)就要開(kāi)始著手準(zhǔn)備語(yǔ)言的學(xué)習(xí),可以直接以日語(yǔ)N2,日語(yǔ)N1為目標(biāo)報(bào)學(xué)習(xí)班,同時(shí)也要準(zhǔn)備托福的學(xué)習(xí),利用課余的時(shí)間對(duì)大多數(shù)同學(xué)來(lái)說(shuō)并不是那么難的事情。
第二步、尋找研究領(lǐng)域
希望進(jìn)入大學(xué)院留學(xué)的話,需明確研究課題。研究課題可根據(jù)自己大學(xué)的專(zhuān)業(yè)及學(xué)習(xí)的領(lǐng)域來(lái)設(shè)定,選擇一個(gè)自己了解且有一定研究基礎(chǔ)的領(lǐng)域往往更有優(yōu)勢(shì)。選擇時(shí)需要充分閱讀該領(lǐng)域的文獻(xiàn)及先行研究,可參考他人的研究狀況及成果,發(fā)現(xiàn)其中存在的問(wèn)題或可以改善的地方,通常這就是你需要確定的研究?jī)?nèi)容。
選擇研究領(lǐng)域時(shí)一方面需要考慮自己的興趣,選擇自己喜歡的領(lǐng)域才能讓自己學(xué)習(xí)并快樂(lè)著,也更有可能獲得優(yōu)秀的成果。另一方面需考慮自己的專(zhuān)業(yè)背景及基礎(chǔ),如果自己的專(zhuān)業(yè)基礎(chǔ)不過(guò)硬,無(wú)法勝任該領(lǐng)域的研究的話,那么以后的研究生活將是十分痛苦和煎熬的,另一方面專(zhuān)業(yè)背景及基礎(chǔ)也是日本大學(xué)的老師考慮接收學(xué)生時(shí)的重要考量因素。再者就是,如果是考慮就業(yè)而不是走研究路線的同學(xué),需要考慮該研究領(lǐng)域的就業(yè)問(wèn)題,選擇就業(yè)前景要好的專(zhuān)業(yè)及研究領(lǐng)域則更有利于就業(yè)。
第三步、撰寫(xiě)研究計(jì)劃
研究計(jì)劃應(yīng)包括研究動(dòng)機(jī),具體的研究方法,研究的預(yù)想成果三點(diǎn)。自己為什么進(jìn)行這樣的研究,將通過(guò)研究發(fā)現(xiàn)什么,本研究領(lǐng)域目前的研究狀況及今后的研究方針,這項(xiàng)研究將為社會(huì)或?qū)W術(shù)界帶來(lái)什么樣的貢獻(xiàn)等需寫(xiě)入研究計(jì)劃。
研究計(jì)劃書(shū)的具體內(nèi)容通常要包括:
1.在本科階段或工作期間對(duì)哪方面的學(xué)問(wèn)感興趣,這個(gè)需要結(jié)合自己希望的研究課題; 2.為什么對(duì)這個(gè)領(lǐng)域的研究感興趣,以及進(jìn)入研究生繼續(xù)學(xué)習(xí)的理由; 3.目前這個(gè)研究領(lǐng)域的現(xiàn)狀,也可論述這個(gè)領(lǐng)域的先行成果; 4.在上述內(nèi)容的基礎(chǔ)上,論述自己的研究課題。這個(gè)很關(guān)鍵,也是重點(diǎn),不要空洞,要具體;(也就是「研究テーマ」)
5.為什么選擇這個(gè)導(dǎo)師的原因,比如談?wù)勛x了導(dǎo)師的論文后的想法等等;(這個(gè)可根據(jù)聯(lián)系的導(dǎo)師進(jìn)行調(diào)整)
6.在研究生階段學(xué)習(xí)的具體內(nèi)容和方法; 7.將來(lái)的打算;
導(dǎo)師通常會(huì)根據(jù)學(xué)生的研究計(jì)劃來(lái)判斷該學(xué)生的專(zhuān)業(yè)基礎(chǔ)和想法,以及是否與自己的研究方向所匹配,研究計(jì)劃寫(xiě)的如何將直接決定后面聯(lián)系導(dǎo)師的結(jié)果。
第四步、聯(lián)系指導(dǎo)老師
根據(jù)自己的研究課題,選擇與其有很大關(guān)聯(lián)的研究科,再通過(guò)該研究科的網(wǎng)站進(jìn)一步縮小研究領(lǐng)域。找到理想的研究室之后再通過(guò)導(dǎo)師管理的網(wǎng)站與老師聯(lián)絡(luò)進(jìn)一步確認(rèn)其研究?jī)?nèi)容。
需要注意的是,選擇導(dǎo)師時(shí)盡量選擇與自己期望研究的方向相近的導(dǎo)師,當(dāng)自己設(shè)定的課題與導(dǎo)師的研究課題有較大差距時(shí)則很有可能不被錄取。即使被錄取,在以后研究的過(guò)程中也可能會(huì)出現(xiàn)導(dǎo)師的指導(dǎo)以及項(xiàng)目不是你期望的情況,或者與老師出現(xiàn)一些分歧。因此選擇導(dǎo)師一定要花足夠的時(shí)間,與導(dǎo)師充分交流,明確表達(dá)自己的意向,避免日后出現(xiàn)一些問(wèn)題。與老師通過(guò)郵件聯(lián)系時(shí),若老師對(duì)你的研究課題感興趣可能會(huì)要求通過(guò)視頻面試。
第五步、出愿及選考
取得老師的同意之后,則需要向大學(xué)院提交申請(qǐng)材料,即出愿。具體需要提交的申請(qǐng)材料,聯(lián)系地址,材料檢定費(fèi)等等,學(xué)校會(huì)發(fā)布通知,聯(lián)系好接受你的導(dǎo)師也會(huì)進(jìn)行通知。一般需要準(zhǔn)備的材料有: ·大學(xué)成績(jī)單 ·大學(xué)畢業(yè)證明 ·畢業(yè)論文概要 ·研究計(jì)劃 ·教授推薦信
提交完申請(qǐng)材料之后學(xué)校會(huì)進(jìn)行審核,及選考,選考通過(guò)之后你就獲得該學(xué)校的“研究生”資格了。第六步、領(lǐng)取在留資格認(rèn)定
選考通過(guò)之后學(xué)校會(huì)統(tǒng)一為學(xué)生辦理在留資格認(rèn)定,日本入國(guó)管理局將審查通過(guò)的在留資格認(rèn)定證明書(shū)交給由學(xué)校。學(xué)校會(huì)將在留資格認(rèn)定書(shū)以及學(xué)校的入學(xué)通知郵寄給學(xué)生。
須憑借該在留資格認(rèn)定書(shū)前往國(guó)內(nèi)的日本大使館進(jìn)行簽證。
第七步、辦理簽證
通過(guò)大使館指定代理機(jī)構(gòu)申請(qǐng)簽證是比較方便快捷的方法,花費(fèi)通常為200至400元。
需要提供的材料有: ·有效護(hù)照
·在留資格證明書(shū)的原件及復(fù)印件
·日本入境簽證申請(qǐng)書(shū)(領(lǐng)事館提供樣式)·照片1張 ·戶口本復(fù)印件
·最高學(xué)歷畢業(yè)證書(shū)的公證書(shū) ·經(jīng)費(fèi)支付者的在職證明 ·提問(wèn)表(領(lǐng)事館提供樣式)
第三篇:日本留學(xué)感想
月日の経つのは早い。今年で私の留學(xué)生活は2年目を迎えました。
振り返ってみると、この一年間は私の人生にとって、かけがえのない貴重な一年間でした。一年前にただただ勉強(qiáng)したい、學(xué)位を取りたいという功利心を持って日本留學(xué)に來(lái)た私は、日本の大學(xué)で、學(xué)問(wèn)の厳しさに磨かれ、勉強(qiáng)することはただ単なる知識(shí)の獲得、また學(xué)位の獲得だけではなく、真理を追究することであると分かるようになりました。
この一年間の日本留學(xué)はまた私に愛(ài)と理解の大切さを教えてくれました。生活リズムが速い、プレッシャが大きい日本での留學(xué)生活は、私にとって、確かにそんな甘いものではありませんでした。この一年間の留學(xué)は、私の物事に対する思考、生活態(tài)度や將來(lái)の生き方などのあらゆる方面において多大な影響を與えるすばらしい體験となりました。特に、私は今回の留學(xué)で初めて、いつも生活し、慣れ親しんでいた土地を離れ生活しましたので、生活の些細(xì)なひとこまさえ生活の難しさがとても感じられました。
一年半の留學(xué)生活はもうそろそろ終止の符を打つところですが、私が今日まで辿りつけたのは、友達(dá)の応援があったからだと思っています。最後に、この1年間にいろいろお世話になった日本の先生たち、留學(xué)生たち、そして日本での友達(dá)たちに感謝するとともに、日本で學(xué)び、感じ、思ったそれぞれのよい思い出を忘れずに、この留學(xué)での経験を次のステップとして役立てたいと思います。
第四篇:DIY留學(xué):大學(xué)畢業(yè)如何去日本留學(xué)
預(yù)科生制度:
據(jù)360教育集團(tuán)了解,主要是方便外國(guó)人來(lái)日本留學(xué)的一種制度。最短半年,最長(zhǎng)2年。大部分是掛在接收自己的老師的名下,旁聽(tīng)一些課程,做一些預(yù)備研究,跟著老師做實(shí)驗(yàn)等,為正式成為修士做準(zhǔn)備。學(xué)費(fèi)按月計(jì),半年一交,大約17萬(wàn)日(1萬(wàn)日元約等于530人民幣,下同)(國(guó)立大學(xué))。當(dāng)然如果發(fā)現(xiàn)自己不喜歡自己選的專(zhuān)業(yè)或者學(xué)校,正式入學(xué)考試可以考其他專(zhuān)業(yè)甚至其他學(xué)校。因?yàn)楫?dāng)時(shí)你已經(jīng)在日本了,什么都是你自己決定。沒(méi)人強(qiáng)迫。
來(lái)日讀大學(xué)院所學(xué)專(zhuān)業(yè)各有不同,但來(lái)日的模式為以下3種:
(無(wú)論英語(yǔ)course還是日語(yǔ)course)
(1)先來(lái)讀語(yǔ)言學(xué)校,然后進(jìn)大學(xué)院讀預(yù)科,然后考試轉(zhuǎn)修士(博士)或者由語(yǔ)言學(xué)校直接考正式修士課程(難度大)
(2)直接來(lái)日本大學(xué)院讀預(yù)科,然后考試轉(zhuǎn)修士(博士)(3)直接來(lái)日本考試,考過(guò)的話,入學(xué)正式讀修士(博士)
360教育集團(tuán)-100%控股上海叁陸零教育投資有限公司,主要從事免中介費(fèi)留學(xué)辦理、免費(fèi)語(yǔ)培、免費(fèi)移民、教育投資、海外投資以及網(wǎng)絡(luò)運(yùn)營(yíng),是全球免費(fèi)留學(xué)領(lǐng)跑者,目前估值已經(jīng)破20億人民幣。公司與美國(guó)、加拿大、英國(guó)、澳洲、新西蘭、愛(ài)爾蘭、瑞士、新加坡、馬來(lái)西亞、泰國(guó)等30多個(gè)國(guó)家的800多家教育機(jī)構(gòu)簽約建立合作關(guān)系,協(xié)議覆蓋了3000多所海外大中小學(xué)。擁有由百余位經(jīng)驗(yàn)豐富的留學(xué)咨詢專(zhuān)家組成的留學(xué)專(zhuān)家團(tuán),其中78.6%擁有海外名校留學(xué)背景,高效有序的留學(xué)咨詢系統(tǒng)和安全快捷的后勤保障隊(duì)伍,為留學(xué)生提供從咨詢、申請(qǐng)、簽證、接機(jī)及住宿等留學(xué)一條龍服務(wù)。歷程8年,公司已為數(shù)萬(wàn)名中國(guó)學(xué)生提供了留學(xué)咨詢和院校申請(qǐng)。公司總部設(shè)在上海,在英國(guó)、澳大利亞、新西蘭、新加坡、馬來(lái)西亞、泰國(guó)、瑞士、加拿大、美國(guó)、愛(ài)爾蘭、德國(guó)、法國(guó)等、挪威等國(guó)家設(shè)有境外辦事處。
第五篇:日本留學(xué)感想文集
日本留學(xué)感想文集
――半年間の留學(xué)生活を振り返って
目次
留學(xué)の感想……………………………………………0401班 陳 靖
日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出會(huì)い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感觸そして感動(dòng)…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な體験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留學(xué)について
留學(xué)體験について…………………………………04甲班 蔣 玲玲 留學(xué)の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留學(xué)を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留學(xué)…………………………………………0401班 葉 楠
私の留學(xué)日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留學(xué)生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩
浙江工商大學(xué)日本日本語(yǔ)言文化學(xué)院
留學(xué)の感想
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 陳 靖
2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時(shí)30分発の中國(guó)杭州行きの飛行機(jī)を待っていた。再びこの場(chǎng)所に來(lái)た時(shí)、日本に到著した時(shí)のことが突然脳裏に浮かび、同時(shí)に私は再び原點(diǎn)に戻るという錯(cuò)覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動(dòng)、そしてとても魅力的だったと思う。
2007年9月10日、二時(shí)間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時(shí)、私のハラハラした気持ちはやっと落ち著いた。初めて飛行機(jī)に乗る時(shí)の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現(xiàn)実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見(jiàn)ても、みんなとても興奮しているようだった。
カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書(shū)やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留學(xué)生活が皆現(xiàn)実になる。初めて中國(guó)から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の學(xué)校で勉強(qiáng)して、初めて……。ひょっとしたら數(shù)え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。
大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。
來(lái)たばかりの時(shí)、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買(mǎi)い物に行くことが日課になった。夜の八時(shí)ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時(shí)間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買(mǎi)いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中國(guó)人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。
寮で生活を始めて十?dāng)?shù)日が過(guò)ぎ、新學(xué)期がやっと始まった。私たちの科目はうちの學(xué)校と一致しなければならなかったので、四天王寺大學(xué)での科目もほとんど規(guī)定された。しかし、ほかの科目も學(xué)生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大學(xué)から私が受けた印象は自由であるということだ??颇郡蜻xぶ前に先生の授業(yè)を先に受けることができる。専門(mén)の課程以外に、日本文化、歴史、文學(xué)などの科目があり、學(xué)生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、學(xué)生には大きな選択の自由が與えられ、個(gè)性と趣味も発揮できる。半年の學(xué)習(xí)生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の學(xué)習(xí)を重視する反面、テストは意外に簡(jiǎn)単であるということだ。ほとんどの先生は新學(xué)期の初めての授業(yè)でどうやって成績(jī)を評(píng)定するのかを?qū)W生にはっきり伝える。
実際に日本で生活してみて、教科書(shū)から學(xué)んだ「日本」に関する私の知識(shí)が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車(chē)で貍寢入りしたり、漫畫(huà)を読んだりだけではない。私は一體右側(cè)を歩いているのか、それとも左側(cè)なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは橫斷歩道での出來(lái)事だった。日本に行ったばかりの頃、橫斷歩道で人が道を渡っているときに、車(chē)とあたりそうになると、人が先に淺いお辭儀をしてから通る光景をよく目にした。中國(guó)には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが禮儀正しい國(guó)だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車(chē)に対し、九十度以上のお辭儀をしてしまった。
10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時(shí)はもちろん、ほかの場(chǎng)合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。
それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業(yè)で習(xí)ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠(yuǎn)い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見(jiàn)れば、恩を蒙ることになるのだろう。
大學(xué)祭の中華カフェー、反省會(huì)のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優(yōu)しい先生方、バイト先の友達(dá)……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。
日本の印象
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 陳 迪思
光陰矢のごとし。半年間の日本での留學(xué)生活があっという間に過(guò)ぎてしまった。この半年間は長(zhǎng)いようで短い時(shí)間だったが、日本や日本文化について學(xué)ぶことができ、またいろんな人と出會(huì)い、いろんなことを経験し、これからの長(zhǎng)い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時(shí)に、感慨の深い半年間でもあった。ある國(guó)の言葉と文化を勉強(qiáng)するには、自分でその國(guó)に行き経験せねばならぬとある學(xué)者はそう言っていた。私もそう思う。留學(xué)前に遊學(xué)という形で半月ぐらい日本に滯在した。飛行機(jī)から降りた瞬間のあの感動(dòng)と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強(qiáng)している日本語(yǔ)の母國(guó)なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、殘念ながら見(jiàn)聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹(jǐn)厳実直な仕事振りである。計(jì)畫(huà)から実施までどんな細(xì)かいところでもきちんとしている。參加者全員の行動(dòng)の一致を求めるために何度も説明會(huì)や會(huì)議をすることが多い。大學(xué)祭の時(shí)、日本人の學(xué)生たちと一緒に中華茶館を開(kāi)いた。當(dāng)日接客用の臺(tái)詞まで皆で考えて、そして何度も演習(xí)した。そんなに細(xì)かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車(chē)がいつも時(shí)間厳守で遅刻があまりないとか、電車(chē)に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見(jiàn)かけないとか、そういう狀況が生まれるのである。それはすべて計(jì)畫(huà)通りだから。それに、日本の電気製品など品質(zhì)がいいという評(píng)判もそれとかかわっているのだろう。中國(guó)の場(chǎng)合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場(chǎng)合はスピードよりも出來(lái)栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見(jiàn)ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素?cái)长食鰜?lái)栄えを見(jiàn)てたら、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出來(lái)事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって計(jì)算されていて、それを防ぐための計(jì)畫(huà)も立っているのだろう。そういう謹(jǐn)厳なところはわれわれの參考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優(yōu)しい國(guó)である。バスは乗客がきちんと座ってから動(dòng)き出す。電車(chē)には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細(xì)部に至るまで人のために考えているところがすごく優(yōu)しいと思う。日本のサービス業(yè)界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買(mǎi)い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素?cái)长?。釣りを出す時(shí)は、ちゃんと一枚ずつ數(shù)えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場(chǎng)合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包裝のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購(gòu)入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に殘ったことがる。それは日本に行ったばかりの時(shí)だった。みんな揃ってソフトバンクの営業(yè)店に攜帯電話を買(mǎi)いに行った。でも、外國(guó)人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調(diào)に契約を結(jié)べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた?!钢袊?guó)語(yǔ)入門(mén)」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時(shí)、時(shí)々変な中國(guó)語(yǔ)の単語(yǔ)が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本當(dāng)に感動(dòng)した。中國(guó)では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ當(dāng)てはまる言葉であると感じた。
この半年間、いろんな人と出會(huì)った。親切な方々ばかりだった。中國(guó)からの留學(xué)生だと分かって、親切に聲をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語(yǔ)っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中國(guó)文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質(zhì)問(wèn)をされたこともあった。「中國(guó)の人って、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留學(xué)に來(lái)て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見(jiàn)たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。
テレビをよく見(jiàn)てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中國(guó)の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中國(guó)でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中國(guó)のことが好きな人、中國(guó)文化に興味を抱いている人は結(jié)構(gòu)いるが、実際に中國(guó)に來(lái)られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相當(dāng)な悪影響を與えてしまう。中國(guó)の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中國(guó)が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見(jiàn)た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調(diào)査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中國(guó)のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中國(guó)と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い狀況が生れると思う。
最後に、この長(zhǎng)いようで短かった旅の間に出會(huì)ったみんなに一言。本當(dāng)に楽しかった。ありがとう、そして、またね。
東瀛との出會(huì)い
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 丁 建萍
日本に行く前、留學(xué)をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長(zhǎng)く滯在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強(qiáng)するのには、その國(guó)についていろいろ學(xué)んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過(guò)ぎないと思う。行く時(shí)は、今回の留學(xué)が自分の語(yǔ)學(xué)力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語(yǔ)學(xué)力の上達(dá)はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見(jiàn)たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強(qiáng)になった。
異國(guó)での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時(shí)「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長(zhǎng)に笑われたことがある。切符の販売機(jī)に向かった時(shí)、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開(kāi)き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥(niǎo)のように、ぎゅっと窓から出て來(lái)て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達(dá)と寮までずっと笑いながら帰った。東京に著いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車(chē)で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場(chǎng)合は、さすがに診察費(fèi)も高かった。それから、日本人の友達(dá)ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識(shí)がすごく強(qiáng)かった。そのため、學(xué)生は學(xué)校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強(qiáng)い責(zé)任感を持って頑張っている。時(shí)々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辭儀をしながら、大聲で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場(chǎng)面を見(jiàn)ると、感動(dòng)で胸が熱くなった。中國(guó)では多くの學(xué)生が自分の勉強(qiáng)に情熱的に取り組むのに対して、日本の大學(xué)生はクラブ活動(dòng)をやるときが一番やる気満々に見(jiàn)える。特に私を驚かせたのは、車(chē)で學(xué)校に通っている學(xué)生が結(jié)構(gòu)多い事、大勢(shì)の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、學(xué)費(fèi)を払えないとか言って、學(xué)校を辭めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の國(guó)から出ると、母國(guó)への深い愛(ài)情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母國(guó)の體面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中國(guó)人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時(shí)、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中國(guó)人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中國(guó)人の名譽(yù)のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時(shí)ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう狀況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時(shí)よくあった。正直に言うと、日本人の中國(guó)に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中國(guó)人に対する悪い印象を更に強(qiáng)めるだろうという心配がずっとあった。異國(guó)に住んでいる時(shí)、自分の國(guó)の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中國(guó)人女性が多いと聞いた時(shí)、またバイト先の店長(zhǎng)から中國(guó)が現(xiàn)在直面している一番の問(wèn)題は経済発展と環(huán)境保護(hù)のバランスを考慮することにあると言われた時(shí)、自分の気持ちは複雑だった。帰國(guó)してから、私たちは日本の先進(jìn)的な面から學(xué)ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時(shí)には自分の國(guó)に様々な問(wèn)題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留學(xué)の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時(shí)は一刻も早く中國(guó)に帰って、そのニュースから遠(yuǎn)ざかりたくて堪らなかった。
一方、私たちは中國(guó)人として、違う文化を持っている國(guó)に行き、違う教育を受けて來(lái)たわけだが、中國(guó)人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の國(guó)民はみんな優(yōu)しかった。初めて會(huì)話を交わした時(shí)、私はいつも両國(guó)の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中國(guó)も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中國(guó)からの影響を深く受けてきた國(guó)だからだ。お互いの國(guó)境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。
日本での感觸そして感動(dòng)
日本語(yǔ)學(xué)科04甲班 耿 貝妮
日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動(dòng)であった。
考えのきめ細(xì)かい大阪人
9月10日、私達(dá)14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語(yǔ)と日本の文化を3年間學(xué)んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書(shū)の內(nèi)容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の國(guó)を離れた時(shí)は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ來(lái)られたIBU國(guó)際交流センターの先生達(dá)の笑顔を見(jiàn)た瞬間、一気に解れました。私達(dá)の荷物を持ってくれて、私達(dá)は旅行中の見(jiàn)聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達(dá)と話しているうちに、すぐ寮に著きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寢室は小さいけど、必要なものが全部準(zhǔn)備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫(kù)、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達(dá)は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買(mǎi)ってくださいと言いました。先生たちは私達(dá)の買(mǎi)い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買(mǎi)い物が終わってから先生達(dá)は私達(dá)を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達(dá)に紹介し、私達(dá)を連れて銀行カード、健康保険、攜帯電話などの手続きをしてくれ、自転車(chē)の購(gòu)入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強(qiáng)い日差しと考えのきめ細(xì)かい大阪人でした。
情熱的、友好的な仕事仲間
10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買(mǎi)い物に行った時(shí)、入り口に従業(yè)員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書(shū)を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを與えてくれました。仕事も日本語(yǔ)も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡(jiǎn)単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達(dá)助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補(bǔ)充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時(shí)間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風(fēng)習(xí)と日本人の考え方を更に深く理解しました。中國(guó)人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時(shí)、彼は私にまたもし大阪に來(lái)る機(jī)會(huì)があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動(dòng)しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評(píng)価してくれたものと思っています。
無(wú)私な先生達(dá)とかわいい學(xué)友達(dá)
日本の先生は私達(dá)の特殊性まで考慮して、私達(dá)14人のために単獨(dú)で多くの授業(yè)をしてくれました。このような教授法は確かに私達(dá)に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達(dá)を最も愛(ài)してくれた南谷先生、博學(xué)で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達(dá)は多くの知識(shí)を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達(dá)には現(xiàn)地に友達(dá)がいないから、授業(yè)を受けることだけで、他の課外活動(dòng)はほとんど何もありません。先生達(dá)は多くの活動(dòng)の方案を制定し、日本の學(xué)生と私達(dá)が一緒に活動(dòng)できるように、中日の學(xué)生の交流の場(chǎng)を準(zhǔn)備してくれ、また一方では私達(dá)の課外活動(dòng)を豊かにして、私達(dá)の日本語(yǔ)のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達(dá)の獻(xiàn)身的な努力と學(xué)友達(dá)の積極的な協(xié)力のおかげで、歓迎會(huì)、神宮旅行、京都旅行、送別會(huì)など様々な活動(dòng)を行うことができました。私達(dá)はそれらの活動(dòng)を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。
謙虛で環(huán)境保護(hù)意識(shí)の強(qiáng)い日本人
日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書(shū)で學(xué)んだ「禮儀の國(guó)」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側(cè)に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側(cè)通路を開(kāi)けておく點(diǎn)、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ點(diǎn)、ゴミを厳格に分類(lèi)する點(diǎn)、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛(wèi)生的である點(diǎn)、犬の散歩時(shí)に責(zé)任を持ってフンの後始末をする點(diǎn)などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした?!干辘吩Uありません」は日本で使用頻數(shù)が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場(chǎng)合にはどんな些細(xì)なことでも相手に謝罪をする。
目がくらむ美食とアクセサリー
日本に行く前、日本はショッピングの天國(guó)であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見(jiàn)られるたこ焼き、お壽司、おにぎり、そして裝飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見(jiàn)た時(shí)、私は思わず日本人のアイデアと構(gòu)想に感嘆させられた。
半年間はあっという間に過(guò)ぎてしまったが、それは私にたくさんの財(cái)産、たくさんの美しい記憶を殘してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。
特別な體験 貴重な経験
――日本留學(xué)について
日本語(yǔ)學(xué)科04甲班 胡 麗芳
半年の留學(xué)生活はあっという間に過(guò)ぎてしまいました。生活にしても、勉強(qiáng)にしても、非常に充実して過(guò)ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。
四天王寺大學(xué)が私達(dá)留學(xué)生のために開(kāi)設(shè)した課程は浙江工商大學(xué)日本言語(yǔ)文化學(xué)部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の學(xué)生さんと一緒に受ける授業(yè)がある一方、私達(dá)十四人で受ける授業(yè)もあります。そのような形式により、日本人の學(xué)生さんと交流することができるだけでなく、私達(dá)交換留學(xué)生の語(yǔ)學(xué)レベルによって効果的に授業(yè)を受ける事ができました。日本で授業(yè)を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に學(xué)生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中國(guó)と歐米の成果主義とは異なっているところだと思います。中國(guó)で三年間も日本語(yǔ)を勉強(qiáng)してきましたが、日本に來(lái)てから、日本社會(huì)と日本人の國(guó)民性の奧にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの禮儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識(shí)されています。日本人の國(guó)民性の特徴については日本文化の授業(yè)でいろいろと學(xué)びました。それらはわれわれ中國(guó)の學(xué)生にとってとても興味深い內(nèi)容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は禮儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場(chǎng)」をどのように認(rèn)識(shí)するかということにいつも気を配ります。どんな職場(chǎng)でもその地位に相忚しい「立場(chǎng)」を正く意識(shí)し、出來(lái)る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外國(guó)人に與え、強(qiáng)い責(zé)任感を持っていると外國(guó)人に感じさせます。日本語(yǔ)と文學(xué)を?qū)煿イ筏皮い胨饯郡沥?、日本社?huì)に実際に身を置いて、自ら體験する必要があると思います。この半年間、生活を通して體験し、感じたものは本で學(xué)んだ知識(shí)よりも遙かに貴重です?!阁w験が成長(zhǎng)の糧」と言われるように、その社會(huì)に身をおいて実踐的に體験してこそ、その社會(huì)の奧にあるものを心で感じ取ることができます。教科書(shū)から學(xué)ぶことはあくまでも知識(shí)の習(xí)得であり、実踐することこそが本當(dāng)の勉強(qiáng)だと思います。生活の面において、半年の日本滯在期間中はずっと四天王寺大學(xué)の先生方から至れり盡くせりのお世話になりました。寮の中には何種類(lèi)もの電気製品が設(shè)置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留學(xué)生活は本當(dāng)に楽しく過(guò)ごせました。
生活といい、勉強(qiáng)といい、非常に細(xì)やかな問(wèn)題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。
授業(yè)と日常生活の両方で日本語(yǔ)を勉強(qiáng)し、日本社會(huì)を體験することができただけでなく、半年の留學(xué)生活の中で色々な貴重な體験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標(biāo)を持っており、半年の留學(xué)生活の中でどのようにすれば時(shí)間を無(wú)駄にしないで、自分の目標(biāo)に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時(shí)間を有効的に利用し、日本社會(huì)の奧に潛む魅力的なものを発見(jiàn)し、その面白さと美しさを吟味しようと夢(mèng)中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、會(huì)話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運(yùn)び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に來(lái)てから理解できるようになってきました。四天王寺大學(xué)は靜かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網(wǎng)が非常に整備されている國(guó)で、各駅の間は電車(chē)線で繋がれていて、電車(chē)のスピードも速く、時(shí)間の節(jié)約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時(shí)間を無(wú)駄にしない」という意識(shí)にも関わっていると思います。この半年の留學(xué)生活は、勉強(qiáng)と経験を同時(shí)にする過(guò)程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業(yè)中の勉強(qiáng)と體験、実踐中の勉強(qiáng)と體験に分けられます。授業(yè)中には言語(yǔ)と文學(xué)を勉強(qiáng)しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虛性、責(zé)任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自國(guó)の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時(shí)に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。
例えば、道に迷ってしまった時(shí)、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動(dòng)してしまうのは當(dāng)たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する禮儀を重んじ、良い印象を與えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠(chéng)実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です?,F(xiàn)在、日本のあらゆる町に數(shù)えきれない程の外國(guó)人が住んでいます。日本は大いに外來(lái)の文化を受け入れつつ、自國(guó)の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出來(lái)て本當(dāng)に良かったと思います。たくさんの日本人の友達(dá)が「日本は住みやすい國(guó)だ」と言っていましたが、私は日本の國(guó)民の積極的、友好的そして前向きな態(tài)度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認(rèn)識(shí)から理解に変わり、理解から熱愛(ài)に変わりました。日本でのいろいろな出來(lái)事を思い出す度に、日本が私の第二の母國(guó)だという気がします。半年の留學(xué)生活でいろいろな勉強(qiáng)ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛(ài)の感情で今は胸がいっぱいです。
留學(xué)體験について
日本語(yǔ)學(xué)科04甲班 蔣 玲玲
去年の九月、學(xué)校の手配により、私たち14人は大阪に交換留學(xué)に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出來(lái)た。
大阪に著いたばかりの時(shí)は、大阪弁がすごく苦手で、勉強(qiáng)した標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強(qiáng)い孤獨(dú)感があった。早くこの半年を過(guò)ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時(shí)間が経つにつれて、私はだんだんその環(huán)境に馴染んできて、帰國(guó)したいという気持ちもそんなに強(qiáng)くなくなってきて、逆にこの國(guó)に好感が持てるようになって來(lái)た。その理由の一つが國(guó)際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり盡くせり私たちの生活の面倒を見(jiàn)てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし國(guó)際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留學(xué)生活を過(guò)ごせなかったと思う。
半年の留學(xué)のおかげで、私たちは日本的な學(xué)習(xí)生活を十分に體験した。日本人の學(xué)生と一緒に授業(yè)を受けて、交流することはすごく楽しかった。學(xué)校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが體験した日本文化は學(xué)校の教科書(shū)とぜんぜん違っていて、授業(yè)だけでは學(xué)べないものである。日本の教育は學(xué)生の個(gè)性の発展を強(qiáng)調(diào)する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、學(xué)生に自由に個(gè)性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、學(xué)生の考えや意見(jiàn)などを聞くことが出來(lái)たのは私の中で一番深く印象に殘っている點(diǎn)である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強(qiáng)する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具體的な事物を使って説明してくれた。日本人の學(xué)生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動(dòng)が大部分の時(shí)間を占めている。普段、學(xué)校で學(xué)生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見(jiàn)て彼らの集団主義を強(qiáng)く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強(qiáng)になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長(zhǎng)そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外國(guó)人だから偏見(jiàn)があるのかなとずっと心配していた。長(zhǎng)い時(shí)間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を體験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調(diào)になって、両方の距離が縮まるかもしれない。
そして、計(jì)畫(huà)を重視する日本人にも深い印象を受けた。學(xué)習(xí)でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計(jì)畫(huà)を作ることが好きだ。彼らは計(jì)畫(huà)が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過(guò)程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習(xí)慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習(xí)慣を身につけることができたと思う。
日本人の部屋は大體皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の國(guó)民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類(lèi)に分けて、捨てる時(shí)間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協(xié)力すべきだと意識(shí)するようになった。確かに、日本には多くの長(zhǎng)所があると認(rèn)めなければならない。誰(shuí)にでも長(zhǎng)所があるように、どんな國(guó)にでも優(yōu)秀なところがある。この半年、私は人の長(zhǎng)所を?qū)Wんで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時(shí)、自分は中國(guó)人であるということを強(qiáng)く意識(shí)するようになった。祖國(guó)のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。
私たちの成長(zhǎng)は私たちだけで感じられるものである。日本語(yǔ)の勉強(qiáng)はただの資格証明書(shū)取得のための知識(shí)や教科書(shū)の知識(shí)だけでなく、忚用や実踐力を伴うものでなければならない。留學(xué)はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出會(huì)って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長(zhǎng)に大きな影響を與えたと思う。今回の留學(xué)経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、學(xué)校にもう一度感謝したい。學(xué)校のおかげで、この留學(xué)は私の大學(xué)生活における最高の寶物になった。
留學(xué)の感想
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 李 頴
半年の留學(xué)生活はあっと言う間に終わりました。本當(dāng)に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時(shí)のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留學(xué)生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留學(xué)生活を前にして不安がたくさんありました。
日本に來(lái)る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門(mén)出の時(shí)を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達(dá)がいました。留學(xué)とは私にとって夢(mèng)でしかなかったけど、學(xué)校のおかげでそれは現(xiàn)実になりました。向こうの學(xué)校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本當(dāng)にありがとうって言いたいです。特に國(guó)際交流センターの先生たちが優(yōu)しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時(shí)々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達(dá)の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留學(xué)生活は幸せでした。
また留學(xué)してから、以前當(dāng)たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優(yōu)しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時(shí)、私の友達(dá)は皆まるで私の家族のようでした。留學(xué)が終れば友達(dá)とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時(shí)、私は中國(guó)に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滯在している時(shí)、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見(jiàn)たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この靜かな動(dòng)物は急に獰猛な動(dòng)物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に殘っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語(yǔ)の世界にいるような感じがしました。
それぞれの場(chǎng)所を巡り歩いて感じたことは日本が本當(dāng)に綺麗な國(guó)であるということです。この綺麗な國(guó)にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時(shí)に見(jiàn)かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました?;挙工毪长趣摔瑜盲迫摔撕酶肖蚺cえられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習(xí)いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に來(lái)てから毎日自分でこれらの家事をしました。將來(lái)いい女にならなきゃとあの時(shí)はそう思いました。でも殘念なことに今中國(guó)の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時(shí)、日本の學(xué)生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に來(lái)てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時(shí)もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大學(xué)際の時(shí)、彼らは私たちを助けてくれて、私達(dá)の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時(shí)のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。
今の私は日本に行けて本當(dāng)に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達(dá)などいろいろな人と出會(huì)えてよかったです。もう二度と會(huì)うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出會(huì)いであったと思うと尚更會(huì)えて良かったという気になります。
また日本でいろいろなことを初めて體験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過(guò)ごす舊正月等等…。この半年間で私は大きく成長(zhǎng)したと思います。
滑走、離陸、飛行
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 繆 嬋
飛行機(jī)は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大學(xué)時(shí)代も、三年の努力と準(zhǔn)備で、この6ヶ月の交換留學(xué)のチャンスを勝ち取った。工商大學(xué)、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢(mèng)を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。
この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外國(guó)生活の苦しさを時(shí)々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強(qiáng)と生活へと戻らせた。
四天王寺國(guó)際仏教大學(xué)で日本文化論、中日通訳、経済常識(shí)などの科目を勉強(qiáng)して、日本語(yǔ)能力にも、日本についての知識(shí)にも、もっと自信を持つようになった。授業(yè)でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈(zèng)ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本當(dāng)にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業(yè)でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した?jī)?nèi)容を真面目に準(zhǔn)備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級(jí)日本語(yǔ)の授業(yè)を通じ、進(jìn)歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無(wú)味乾燥な経済循環(huán)や金融危機(jī)を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元?dú)荬丹馈¥い恧い恧工肖椁筏は壬饯韦菠?、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績(jī)が取れたと思う。
國(guó)際交流センターの村上センター長(zhǎng)、氏家課長(zhǎng)、夢(mèng)田さん、三輪さんは私たちの留學(xué)生活を充実させるために、職場(chǎng)以外でも「サービス殘業(yè)」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滯在中、私たちのわがままと油斷によってすっかりご迷惑をかけたが、國(guó)際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留學(xué)生たちのように、日本語(yǔ)能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業(yè)以外の時(shí)間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養(yǎng)護(hù)老人ホームにアルバイトに行った。園長(zhǎng)は長(zhǎng)い時(shí)間の面接をして、初めて外國(guó)人のバイトさんを採(cǎi)用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護(hù)たちの連絡(luò)や報(bào)告もちゃんとしなければならないし、初めての時(shí)、次長(zhǎng)も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護(hù)の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外國(guó)で「中國(guó)人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護(hù)たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中國(guó)に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護(hù)たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時(shí)、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見(jiàn)ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠(chéng)を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開(kāi)けてくれる。
帰國(guó)してから、もう1週間だ。日本の先進(jìn)技術(shù)や禮儀作法などは中國(guó)人にとって勉強(qiáng)に値する。もうすぐ卒業(yè)して社會(huì)に入る私にとって、この半年は専門(mén)知識(shí)を高めることができ、肌で感じた日本の感觸はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。
日本はすばらしい國(guó)だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな畫(huà)面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている?;撙筏?、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を殘した島國(guó)に行くだろう。
思い出せば
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留學(xué)生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時(shí)間だったと思う。日本語(yǔ)を三年間も勉強(qiáng)したけど、今まで日本語(yǔ)を?qū)g際に話す機(jī)會(huì)が多かったとは言えない。授業(yè)や日本語(yǔ)コーナー以外に、日本語(yǔ)を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留學(xué)のおかげで、思いっきり日本語(yǔ)を話す機(jī)會(huì)を手に入れることができて、本當(dāng)にうれしかった。私は日本に著いたばかりの日、迷子になってしまった?!袱工撙蓼护?。ここに行きたいのですけど」と小さい聲で地図を見(jiàn)てもらった方にそう言った時(shí)、胸がどきどきした?!袱ⅳⅰ¥蓼盲工挨诵肖盲?、二番名の信號(hào)を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調(diào)にいくと思っていたのだが、著いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり參ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語(yǔ)はまだまだで勉強(qiáng)すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優(yōu)しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見(jiàn)て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語(yǔ)や外來(lái)語(yǔ)を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達(dá)もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達(dá)は主に大學(xué)祭の時(shí)できた。日本の大學(xué)祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと來(lái)ない感じがあった。それは私が見(jiàn)たドラマやアニメの中に大學(xué)祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に參加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中國(guó)に関する情報(bào)をできるだけ多く日本人に伝えるために留學(xué)生の私たちは參加させていただいた。先生たちは初めて大學(xué)祭に參加する私たちの為にわざわざボランティアの學(xué)生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服裝を準(zhǔn)備したり、見(jiàn)所を考えたり、會(huì)場(chǎng)を飾ったり、ボランティアで集まった日本の學(xué)生達(dá)の創(chuàng)造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遙かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時(shí)まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時(shí)根気よく敬語(yǔ)の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見(jiàn)に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも學(xué)ぶべきだと思った。藤井寺には日本語(yǔ)教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語(yǔ)の話せない在日外國(guó)人に日本語(yǔ)を教えている。またそのお年寄りたちも外國(guó)人から外國(guó)の情報(bào)をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語(yǔ)教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢(shì)神宮に行った時(shí)伊勢(shì)神宮のことを教えてくれたり、クリスマスの時(shí)料理を作ってくれたり、帰國(guó)の前には送別會(huì)を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本當(dāng)にありがたかった。人生は一期一會(huì)と言っても、人と人の縁が結(jié)ばれればそれは一生の寶だと日本語(yǔ)教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時(shí)のように頻繁に會(huì)えなくても、インターネットを通じて連絡(luò)している。今回の留學(xué)で、私は生活の勉強(qiáng)もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰國(guó)してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業(yè)する準(zhǔn)備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報(bào)いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰(shuí)かの為に奉仕し、誰(shuí)かを助ける事を通して、この恩に報(bào)いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。
半年の留學(xué)を振り返って
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 王 洋
帰國(guó)して二ヶ月。親戚と友人に會(huì)う時(shí)によく「日本での留學(xué)生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤獨(dú)、それに感動(dòng)に溢れた日々を。
日本に到著し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、學(xué)校の宿舎行きの車(chē)に乗っている間中、ずっと夢(mèng)のような青い海を眺めていた。僕は海を見(jiàn)るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異國(guó)體験だから。20年間暮らしていた母國(guó)を離れて、異國(guó)で生活するのは人生の中で初めての體験である?!竷Wは今後の半年の間に、どのような學(xué)校で勉強(qiáng)するのか、どのような環(huán)境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習(xí)慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問(wèn)は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた國(guó)際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ。空港まで迎えに來(lái)ていただいたお姉さんの笑顔は素?cái)长坤盲?。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車(chē)から降りた後、部屋までスーツケースを運(yùn)びながら、僕らの住む環(huán)境について紹介してくれた。結(jié)構(gòu)ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて會(huì)うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。國(guó)際交流センターのスタッフたちと學(xué)校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留學(xué)の間に色々細(xì)かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見(jiàn)知らぬ環(huán)境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車(chē)の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動(dòng)販売機(jī)で電話カードの買(mǎi)い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、學(xué)校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や學(xué)校の友達(dá)に會(huì)いたくなるのだ。孤獨(dú)感が強(qiáng)かった。
學(xué)校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい學(xué)習(xí)環(huán)境は留學(xué)生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強(qiáng)した言語(yǔ)や文化の知識(shí)はいよいよ役に立つのだ。「暇な時(shí)が多すぎると皆退屈じゃないか」と學(xué)校側(cè)が考えてくれて、僕らの意見(jiàn)と合わせて授業(yè)の數(shù)を予定より少し増やした。その授業(yè)の中で、五つくらいは日本人の學(xué)生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文學(xué)史Ⅱと日本文化論。理解するのに時(shí)間がかかる。通訳理論と実踐や上級(jí)日本語(yǔ)及びビジネス日本語(yǔ)などは留學(xué)生向けの授業(yè)だから、人數(shù)が少ない。授業(yè)の雰囲気は比較的楽だった。運(yùn)動(dòng)や友達(dá)作りのため、僕は放課後の時(shí)間を利用して學(xué)校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習(xí)していた。週末は時(shí)々彼らと関西のバスケのリーグ試合に參加し、各學(xué)校のクラブ文化を體験し、関西周辺の學(xué)校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年會(huì)に參加した。
日本に著いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長(zhǎng)は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中國(guó)の社會(huì)事情を?qū)い亭俊¥饯欷摔瑜瞍沃肖扦ⅳ盲郡长趣摔膜い匹ⅴ丧啸ぅ工筏皮猡椁盲?。お正月の時(shí)もわざわざ家まで招待してもらった。映畫(huà)も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰國(guó)直前、感謝の気持ちを込めて中國(guó)式の水餃子を作ってあげた。それに、中國(guó)ではいい縁起を象徴 19 する「中國(guó)結(jié)」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調(diào)味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動(dòng)的だった。今だに時(shí)々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。
留學(xué)の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢(shì)神宮、大阪市內(nèi)の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見(jiàn)たこともない美しい赤色だった。大學(xué)での活動(dòng)にも沢山參加した。一番印象深かったのは大學(xué)祭。僕らは日本人の學(xué)生たちと中華茶館をやった。中國(guó)の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、國(guó)際交流センターのスタッフたちと學(xué)生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。
半年の留學(xué)生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本當(dāng)に勉強(qiáng)になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。
帰國(guó)直前、沢山の人が送別に來(lái)てくれた。感動(dòng)的だった。親切な學(xué)校の先生方、交流しに來(lái)た學(xué)生たち、それといつもお世話になっていた國(guó)際交流センター、教務(wù)課、総務(wù)課、図書(shū)館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも國(guó)際交流活動(dòng)を行っていただいた藤井寺市國(guó)際交流協(xié)會(huì)のスタッフたちに、心から感謝している。
帰國(guó)前最後の夜。一人で帰りの最後の電車(chē)に乗っていた。車(chē)窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過(guò)ぎってしまった。桜満開(kāi)のキャンパスを見(jiàn)るチャンスは結(jié)局なかった。殘念だった。しかし、半年の短い留學(xué)生活は桜が散るのと同じようだった。花びらが枝から離れて散ってしまうのは確かに殘念だが、それより重要なのは開(kāi)花してから散るまでの短く美しい過(guò)程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。
將來(lái)またいつか會(huì)えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある。「どうぞお元?dú)荬?!ザイジェン?。à蓼郡停?/p>
「さようなら」から「ただいま」へ
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 徐 哲紋
2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機(jī)に乗って杭州に帰りました。これで半年の留學(xué)生活は完全に終わりました。
帰國(guó)する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別會(huì)、帰國(guó)手続き、お土産買(mǎi)いなどなど。本當(dāng)に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機(jī)が離陸した途端に日本への名殘惜しさがこみ上げてきました。
正直、大學(xué)四年生の時(shí)に交換留學(xué)するなんて今でも信じられないと思います。去年、王寶平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時(shí)のエピソードを今でも覚えています。當(dāng)時(shí)はクラスで誰(shuí)もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出國(guó)手続き、一歩一歩進(jìn)んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留學(xué)へ行くことを?qū)g感しました。私にとって、今回は日本との初めての出會(huì)いです。こんなに長(zhǎng)期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時(shí)、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買(mǎi)うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時(shí)、先生が路線の調(diào)べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災(zāi)の遺跡を見(jiàn)て改めて命の大切さを感じました。
私は今回の留學(xué)を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢(shì)神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動(dòng)物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場(chǎng)所には皆私の足跡が殘っています。旅を通して、自分は今日本という社會(huì)に、そして日本人という集団に屬して輝いているということをしみじみ感じました。
たとえ日本語(yǔ)學(xué)科の學(xué)生でいつも日本のことを勉強(qiáng)しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。
例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。來(lái)る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社會(huì)で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺國(guó)際交流協(xié)會(huì)の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、國(guó)際交流に非常に熱心で、特に私たち中國(guó)人の留學(xué)生と熱心に付き合ってくれたことは本當(dāng)にありがたいと思っています。
中國(guó)に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時(shí)よりも、むしろ今の方がこちらの環(huán)境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時(shí)に日本のバスが時(shí)間通りに來(lái)ることをいつも思い出しています。今の中國(guó)は他の國(guó)に習(xí)わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠點(diǎn)があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達(dá)できないはずです。他人の長(zhǎng)所を見(jiàn)つけて、自分の欠陥を補(bǔ)ってこそ、國(guó)も人生も発展できると思います。
帰國(guó)してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留學(xué)は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます?!溉松喜凰甲hです。」一人の先生が日本に戻る時(shí)こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留學(xué)に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。
ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願(yuàn)いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。
私の日本留學(xué)
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 葉 楠
稅関で検閲を受けて、飛行機(jī)に乗りました。疲れたせいかすぐ寢始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの聲が聞こえてきました。ついに日本に著いたということが分かりました。
初めての留學(xué)生活に対する憧れと心配の気持ちを同時(shí)に心に抱き、荷物を持って飛行機(jī)を降りました。日本に対する第一印象は「靜」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見(jiàn)えません。友達(dá)と話す時(shí)もわざと聲を小さくして話します。大學(xué)で授業(yè)を受けた時(shí)よく先生方から日本の電車(chē)はとても靜かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本當(dāng)にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見(jiàn)えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに靜かです。日本の住宅街も靜かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見(jiàn)えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている聲があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、殘念ながらなかなか答えが見(jiàn)つかりませんでした。
國(guó)內(nèi)にいた時(shí)も日本文化などの授業(yè)を受けたけれど、実際こちらに來(lái)て、毎日の新しい発見(jiàn)を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細(xì)なことで日本を感じ、日本人の生活を體験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚著してもぶるぶる震えながら學(xué)校へ向います。そんな時(shí)、よく見(jiàn)かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元?dú)荬市W(xué)生や中學(xué)生たちです。昔新聞で見(jiàn)たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中國(guó)の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を著せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。
また、日本の街を歩いてみると、時(shí)々著物を著ている女の人の姿が見(jiàn)えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり著物でしょう。結(jié)婚式や成人式など正式な場(chǎng)合だけではなく、普通に著ています。中國(guó)の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。殘念ながら、中國(guó)では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど著ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統(tǒng)的な美しさが味わえ、伝統(tǒng)的なものと現(xiàn)代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細(xì)かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見(jiàn)えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機(jī)でも盲人専用の點(diǎn)字があります。普通のお弁當(dāng)でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰(shuí)かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時(shí)の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中國(guó)のことが放送されます。興味津々で見(jiàn)続けると、殘念ながら中國(guó)の悪いところばかり流れています。同じく殘念なことなのですが、中國(guó)の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報(bào)道する一方、意識(shí)的或いは無(wú)意識(shí)的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側(cè)面だけを強(qiáng)調(diào)する傾向があるよう 23 です。でもお互いの國(guó)の人々は大體マスメディアから情報(bào)をゲットし、そしてイメージします。それは両國(guó)の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語(yǔ)能力が上達(dá)したかはっきり言えないですが、確かに成長(zhǎng)していると思います。言葉や知識(shí)だけでなく、いろんな面で勉強(qiáng)になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に殘っています。まずかったです。最初の時(shí)はフライパンを持って慌てて取り亂しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車(chē)に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり來(lái)たりして、家に著いた時(shí)外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風(fēng)景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達(dá)と話す時(shí)とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に會(huì)話ができるようになりました。長(zhǎng)いようで短かった半年、日本での留學(xué)生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ來(lái)て自分の目でその國(guó)を見(jiàn)ていろいろと體験できたことは本當(dāng)によかったと思います。
卒業(yè)する前の半年にこんな貴重な機(jī)會(huì)をいただいて日本を感じることができ、心から學(xué)院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。
私の留學(xué)日記
日本語(yǔ)學(xué)科0401班 張 叔傑
1月25日(晴)新幹線で東京へ
日本に來(lái)て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中國(guó)國(guó)內(nèi)で「和諧號(hào)」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。當(dāng)たり前のことですが、周りは誰(shuí)もが日本語(yǔ)を話す日本人で、私は中國(guó)語(yǔ)を話す中國(guó)人だからです。新幹線で約三時(shí)間、途中の主要な駅は京都、名古屋、靜岡、新橫浜で、そして最後に日本の首都――東京に到著しました。東京駅を出て目を向けると、誰(shuí)もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費(fèi)しない働きマンです。
1月26日(晴)東京めぐり
朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。
チーム活動(dòng)では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環(huán)、張叔傑、付穎です。チームで皇居の寫(xiě)真をたくさん撮りましたが、集合寫(xiě)真を撮りそびれました。殘念。遠(yuǎn)くの東京タワーにカメラを向け、數(shù)回「カシャカシャ」。その時(shí)、集合の合図が聞こえました。淺草の雷門(mén)では26人の集合寫(xiě)真を撮影?!弗钎蟆工我簸摔撙螭胜Δい蓼筏?。
チームは解散、雷門(mén)で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動(dòng)。渋谷109、NHK、代々木體育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お臺(tái)場(chǎng)、フジテレビそして観覧車(chē)。いずれも外側(cè)から一度ざっと見(jiàn)るだけでしたが、日本の學(xué)生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい體験でした。中日學(xué)生交流會(huì)では、おのおの自分の意見(jiàn)を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、國(guó)籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での體験を全て言葉に出し盡くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見(jiàn)える船の科學(xué)館でビュッフェ。幸せ。
1月27日(雤)東京から沖縄へ
3時(shí)間ほど飛行機(jī)に乗り、ついに那覇空港へ到著。ずっと行きたかった沖縄。気溫19度。空気の分子一つ一つに海の匂いが溢れていました。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。
1月28日(雤)沖縄
ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦爭(zhēng)の殘酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や寫(xiě)真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙禱を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願(yuàn)うことしかできません。
首里城はどこかで見(jiàn)たことがあるような感じがして、古代王朝を夢(mèng)に描きました。沖縄は中國(guó)ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。
海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、寫(xiě)真を撮りました。蒼い空と海、白い雲(yún)と砂。夢(mèng)に見(jiàn)た冬の沖縄をついに自分で體験できて、本當(dāng)にこの上ない幸せでした。誰(shuí)もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全體にさわやかな笑い聲が響いていました。すばらしい風(fēng)景を享受すると同時(shí)に、私たちも風(fēng)景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時(shí)間半も経っていました。余韻は盡きません。最大の成果は「川流會(huì)」を結(jié)成したことです。私たちの友情も「川流會(huì)」とともにたえず育っていくと思います。
1月29日(曇)神戸
10:05離陸、さようなら、親愛(ài)なる沖縄。大阪に到著…。有馬溫泉は、日本三大溫泉の一つです。日本人の溫泉好きは來(lái)日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の溫泉を自ら體験できたことは、本當(dāng)に私たちを興奮させました。唯一殘念だったことは、溫泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風(fēng)呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習(xí)慣がない國(guó)の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。
1月30日(晴)京都
金閣寺。天気予報(bào)では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黃金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風(fēng)情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見(jiàn)たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見(jiàn)學(xué)するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見(jiàn)に値するところです。景色は同じ景色ですが、見(jiàn)る人は違います。今こうして清水寺を見(jiàn)學(xué)する時(shí)の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。
以上のシーンは留學(xué)生活のほんの僅かな一部分です。日本滯在中の半年間、一日一時(shí)一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大學(xué)の先生方、國(guó)際交流課の職員さんたち、學(xué)園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の學(xué)生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出會(huì)ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの國(guó)で出會(huì)った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠(yuǎn)に。
僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を體験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時(shí)に日本人との觸れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の斷片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無(wú)味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奧に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠(yuǎn)に忘れることはないでしょう。
半年の留學(xué)生活を憶う
日本語(yǔ)學(xué)科04甲班 周 倩倩
時(shí)間が経つのは本當(dāng)に早く、半年の留學(xué)生活はあっという間に過(guò)ぎてしまいました。留學(xué)のチャンスを得て、異國(guó)の生活を體験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過(guò)ごす事ができて、いろいろな人に出會(huì)って、今まで體験した事の無(wú)い事をたくさん體験して、昔はテレビでしか見(jiàn)る事のできなかったものを自分の目で直に見(jiàn)る事ができて本當(dāng)に良かったです。日本人の先生方と學(xué)生さん達(dá)と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本當(dāng)に懐かしく思います。
到著したばかりの興奮
9月10日、私たち14人は関西國(guó)際空港に到著し、以前訪問(wèn)し時(shí)と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに來(lái)てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問(wèn)時(shí)と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留學(xué)生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時(shí)非常に興奮していました。和交寮に著いて、私たちは生活設(shè)備が完璧に用意されていることに気づき、日本に著いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。學(xué)校の授業(yè)が始まるまでにはまだ時(shí)間があったので、到著後の數(shù)日間は學(xué)校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また國(guó)際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車(chē)と攜帯も買(mǎi)いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動(dòng)の範(fàn)囲も幅広くなりました。日本に著いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。
ファッションを感じる
學(xué)校が始まりました。靜かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黃色く染めて、綺麗に化粧をしている女子學(xué)生達(dá)がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお灑落です。そんな若者達(dá)を見(jiàn)て、いつか見(jiàn)たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お灑落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長(zhǎng)いブーツを履いて、寒さや暑さに構(gòu)わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見(jiàn)た時(shí)、さすが日本はファッション大國(guó)だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。
大阪弁
大阪にいるから、學(xué)校でも公共の場(chǎng)所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰國(guó)前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。
十一月の大學(xué)祭
大學(xué)祭。前はただ日本のドラマで見(jiàn)たことがあっただけでしたが、やっと自分も體験できることになりました。大學(xué)祭前には、學(xué)生さんが學(xué)校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大學(xué)祭のためにいろいろ準(zhǔn)備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も國(guó)際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの學(xué)生さん達(dá)のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中國(guó)結(jié)、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯(lián)、飾り物など、また浴衣を著ている日本人の學(xué)生さんとチャイナドレスを著ている私たちは開(kāi)催の日にいろいろな市民と學(xué)生さんを引きつけました。參加してくれた人數(shù)は私たちの予想を遙かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中國(guó)の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見(jiàn)て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖國(guó)中國(guó)を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。
伊勢(shì)神宮の見(jiàn)學(xué)
藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢(shì)に見(jiàn)學(xué)に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢(shì)神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。內(nèi)宮へと向かう通路で、日本の伝統(tǒng)文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に參加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も體験しました。
アルバイトの生活
日本の學(xué)生はほとんど皆バイトしています。社會(huì)経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責(zé)任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時(shí)間営業(yè)のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている?yún)棨筏さ觊L(zhǎng)、優(yōu)しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人數(shù)人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名稱(chēng)に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優(yōu)しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを與えてくれた店長(zhǎng)、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。
半年の間いろいろな人と出會(huì)って、その中の一部の人とは一期一會(huì)かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の寶物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。
最後に今回の貴重な留學(xué)の機(jī)會(huì)を作ってくれた本校の學(xué)院の先生方にまずはお禮を申し上げたいです。また四天王寺仏教大學(xué)國(guó)際交流センターの先生方にも心よりのお禮を申し上げたいです。日本の先生方は私たちの生活の面でも勉強(qiáng)の面でもいろいろ助けてくれて、その助けがあったからこそ今度の留學(xué)が順調(diào)に進(jìn)み、いっぱい素晴らしい思い出を作ることができたと思います。今度の留學(xué)で私たちは視野を広げ、大きく成長(zhǎng)できました。