第一篇:來日本留學(xué)一年的感想
月日の経つのは早い。今年で私の留學(xué)生活は2年目を迎えました。
振り返ってみると、この一年間は私の人生にとって、かけがえのない貴重な一年間でした。一年前にただただ勉強(qiáng)したい、學(xué)位を取りたいという功利心を持って日本留學(xué)に來た私は、日本の大學(xué)で、學(xué)問の厳しさに磨かれ、勉強(qiáng)することはただ単なる知識(shí)の獲得、また學(xué)位の獲得だけではなく、真理を追究することであると分かるようになりました。
この一年間の日本留學(xué)はまた私に愛と理解の大切さを教えてくれました。生活リズムが速い、プレッシャが大きい日本での留學(xué)生活は、私にとって、確かにそんな甘いものではありませんでした。この一年間の留學(xué)は、私の物事に対する思考、生活態(tài)度や將來の生き方などのあらゆる方面において多大な影響を與えるすばらしい體験となりました。特に、私は今回の留學(xué)で初めて、いつも生活し、慣れ親しんでいた土地を離れ生活しましたので、生活の些細(xì)なひとこまさえ生活の難しさがとても感じられました。
一年半の留學(xué)生活はもうそろそろ終止の符を打つところですが、私が今日まで辿りつけたのは、友達(dá)の応援があったからだと思っています。最後に、この1年間にいろいろお世話になった日本の先生たち、留學(xué)生たち、そして日本での友達(dá)たちに感謝するとともに、日本で學(xué)び、感じ、思ったそれぞれのよい思い出を忘れずに、この留學(xué)での経験を次のステップとして役立てたいと思います。篇二:日本留學(xué)生活感悟
感悟:沒有什么比歲月更加真切和堅(jiān)貞,僅僅一年的留學(xué)生活便在心里留下千萬分滋味,經(jīng)歷挫折更懂得需要用心努力地成長。每一點(diǎn)的用心付出,便期待每一天的幸福收獲。
生活:水果是奢侈品
這里的水果和蔬菜都比較貴,水果對(duì)于我們來說就是奢侈品,平常基本上連看都不看,只是偶爾買個(gè)水果罐頭來解解饞。蔬菜也不常吃,最常吃的就是雞肉,這里的雞肉最便宜。
學(xué)習(xí):進(jìn)學(xué)校要換拖鞋
我們就讀的關(guān)西語言學(xué)院是一所很正規(guī)的語言學(xué)校,“只要進(jìn)學(xué)校就要換拖鞋”,這是我記住的第一條校規(guī)。學(xué)校上課環(huán)境很好,17個(gè)人左右一個(gè)班。
習(xí)慣:鞠躬到腰酸背痛
剛到日本的時(shí)候,我們說得最多的日語就是“對(duì)不起”和“多謝多謝”,做得最多的就是鞠躬,一天下來是腰酸背痛啊。
360教育集團(tuán)說,日本人都非常講禮儀、守規(guī)矩,也很講究以人為本,比如在過馬路的時(shí)候,行人的綠燈亮了,你放心大膽地走就好,轉(zhuǎn)向的車就是排成一大串了也會(huì)等行人都過完馬路才走,而且日本的司機(jī)都不會(huì)按喇叭催你。
日常:半天打工半天學(xué)習(xí)
日語學(xué)校都是上半天課,余下的時(shí)間留給留學(xué)生們自習(xí)或打工。日本的物價(jià)是中國的好幾倍,從國內(nèi)帶來的錢不多,當(dāng)時(shí)就想盡快找到工作來維持生活。篇三:詳讀日本留學(xué)生活感悟
感悟:沒有什么比歲月更加真切和堅(jiān)貞,僅僅一年的留學(xué)生活便在心里留下千萬分滋味,經(jīng)歷挫折更懂得需要用心努力地成長。每一點(diǎn)的用心付出,便期待每一天的幸福收獲。
生活:水果是奢侈品
這里的水果和蔬菜都比較貴,水果對(duì)于我們來說就是奢侈品,平常基本上連看都不看,只是偶爾買個(gè)水果罐頭來解解饞。蔬菜也不常吃,最常吃的就是雞肉,這里的雞肉最便宜。
學(xué)習(xí):進(jìn)學(xué)校要換拖鞋
我們就讀的關(guān)西語言學(xué)院是一所很正規(guī)的語言學(xué)校,“只要進(jìn)學(xué)校就要換拖鞋”,這是我記住的第一條校規(guī)。學(xué)校上課環(huán)境很好,17個(gè)人左右一個(gè)班。
習(xí)慣:鞠躬到腰酸背痛
剛到日本的時(shí)候,我們說得最多的日語就是“對(duì)不起”和“多謝多謝”,做得最多的就是鞠躬,一天下來是腰酸背痛啊。
360教育集團(tuán)說,日本人都非常講禮儀、守規(guī)矩,也很講究以人為本,比如在過馬路的時(shí)候,行人的綠燈亮了,你放心大膽地走就好,轉(zhuǎn)向的車就是排成一大串了也會(huì)等行人都過完馬路才走,而且日本的司機(jī)都不會(huì)按喇叭催你。
日常:半天打工半天學(xué)習(xí)
日語學(xué)校都是上半天課,余下的時(shí)間留給留學(xué)生們自習(xí)或打工。日本的物價(jià)是中國的好幾倍,從國內(nèi)帶來的錢不多,當(dāng)時(shí)就想盡快找到工作來維持生活。
第二篇:日本留學(xué)感想
月日の経つのは早い。今年で私の留學(xué)生活は2年目を迎えました。
振り返ってみると、この一年間は私の人生にとって、かけがえのない貴重な一年間でした。一年前にただただ勉強(qiáng)したい、學(xué)位を取りたいという功利心を持って日本留學(xué)に來た私は、日本の大學(xué)で、學(xué)問の厳しさに磨かれ、勉強(qiáng)することはただ単なる知識(shí)の獲得、また學(xué)位の獲得だけではなく、真理を追究することであると分かるようになりました。
この一年間の日本留學(xué)はまた私に愛と理解の大切さを教えてくれました。生活リズムが速い、プレッシャが大きい日本での留學(xué)生活は、私にとって、確かにそんな甘いものではありませんでした。この一年間の留學(xué)は、私の物事に対する思考、生活態(tài)度や將來の生き方などのあらゆる方面において多大な影響を與えるすばらしい體験となりました。特に、私は今回の留學(xué)で初めて、いつも生活し、慣れ親しんでいた土地を離れ生活しましたので、生活の些細(xì)なひとこまさえ生活の難しさがとても感じられました。
一年半の留學(xué)生活はもうそろそろ終止の符を打つところですが、私が今日まで辿りつけたのは、友達(dá)の応援があったからだと思っています。最後に、この1年間にいろいろお世話になった日本の先生たち、留學(xué)生たち、そして日本での友達(dá)たちに感謝するとともに、日本で學(xué)び、感じ、思ったそれぞれのよい思い出を忘れずに、この留學(xué)での経験を次のステップとして役立てたいと思います。
第三篇:日本留學(xué)一年費(fèi)用解析[范文]
日本留學(xué)一年費(fèi)用解析
日本由于與中國的文化一脈相承,教育又接近西方的精英化,一直以來都是留學(xué)生欣欣向往的地方。那么去日本留學(xué)(http://
第四篇:去日本留學(xué)一年多少錢
http://liuxue.weilan.com.cn/
眾所周知,日本是高消費(fèi)國家之一,那么在日本留學(xué),攻讀大學(xué)或碩士學(xué)位需要的費(fèi)用一年是多少呢?這里大概的總結(jié)一下,希望廣大學(xué)生和家長能夠做一全面的了解。
一、一年的日本留學(xué)費(fèi)用:學(xué)費(fèi)
1、大學(xué)學(xué)部入學(xué)第一年的費(fèi)用(入學(xué)金和一年學(xué)費(fèi)的合計(jì))
國立大學(xué)(不分學(xué)科):753,800日元
公立大學(xué)(不分學(xué)科):858,286日元
私立大學(xué)(根據(jù)學(xué)科平均):
文學(xué)、教育:約115萬日元
經(jīng)濟(jì)、法律:約108萬日元
理工:約137萬日元
醫(yī)學(xué):約468萬日元
藥學(xué):約215萬日元
2、大學(xué)院(研究生院)
國立:755,800日元
公立:(平均)820,000日元
私立(根據(jù)學(xué)科平均):
人文科學(xué):約101萬日元
社會(huì)科學(xué):約103萬日元
醫(yī)、牙學(xué):約109萬日元
農(nóng)學(xué)、藥學(xué):約115萬日元
3、短期大學(xué)
國立:513,600日元
公立:560,869日元
私立:(平均)約115萬日元
那么,一年的日本留學(xué)生活費(fèi)用應(yīng)該準(zhǔn)備多少呢?
一年的日本留學(xué)生活費(fèi)用“大塊頭”:住宿費(fèi)用
不談入學(xué)費(fèi)用及其他學(xué)雜費(fèi),在日本,一個(gè)月的生活費(fèi)大概需要多少呢-?地區(qū)不同,額度也有差異。我們首先建議學(xué)生住學(xué)校宿舍。日本的學(xué)校通常需要提前繳納半年的住宿費(fèi),通常為半年1.5~2萬人民幣左右。有些學(xué)??梢匀齻€(gè)月交一次住宿費(fèi),大阪地區(qū)可以按照每個(gè)月2000~4000元人民幣(1人間~3人間不等)的宿舍費(fèi)用計(jì)算。
除此之外,日本學(xué)校的宿舍設(shè)施是比較全面的,很多學(xué)校的宿舍費(fèi)用里已經(jīng)包括被褥等物品,少數(shù)沒有的也會(huì)另行幫助學(xué)生購買。一整套精良的床上用品通常代收600~800元人民幣。
在外讀書,當(dāng)然不會(huì)只有上學(xué)和住宿的費(fèi)用。那么,包括日常生活,留學(xué)一年需要的生活費(fèi)大概是多少呢?
伙食費(fèi)用
赴日學(xué)生最好攜帶23000元人民幣(30萬左右的日元)左右。在日本,伙食費(fèi)用還是比較高的。例如一碗拉面的費(fèi)用是400日元~600日元,吉野家的牛肉飯是380日元一碗。
而自己做飯的成本就非常低了,一頓飯控制在200日元~350日元之間是沒有問題的。所以正常來說,在日本,學(xué)生每個(gè)月的伙食費(fèi)在1500~1300元人民幣左右。
醫(yī)療保險(xiǎn)費(fèi)用
初到日本需要繳納國民保險(xiǎn)金600~1500元人民幣(8000日幣~20000日幣一年)左右。這個(gè)是必須交納的,也是為學(xué)生提供醫(yī)療保障。
日常費(fèi)用
以手機(jī)為例,學(xué)生到達(dá)日本后一般都會(huì)購買手機(jī),以便和家里聯(lián)系。日本手機(jī)更新?lián)Q代比較快,所以相對(duì)來說價(jià)格通常比較便宜,很多已經(jīng)上市超過4~5個(gè)月的舊機(jī)型會(huì)以1日幣的優(yōu)惠促銷價(jià)格賣給學(xué)生。而一些最新機(jī)型的價(jià)格在8000日幣~20000日幣不等。日本的電話通話費(fèi),通常情況下每個(gè)月在5000日幣~8000日幣。包括娛樂費(fèi)、交通費(fèi)等,一年的日常費(fèi)用在2萬元人民幣左右。
綜合而言,一年的日本留學(xué)生活費(fèi)用較歐美國家低廉很多。一年的綜合日本留學(xué)費(fèi)用約為10萬~13萬元左右(含學(xué)費(fèi)及生活費(fèi)),其中,生活費(fèi)每年約為5萬~8萬元左右。對(duì)于獨(dú)自一人在海外生活的學(xué)子而言,先了解費(fèi)用問題并根據(jù)自身狀況做好準(zhǔn)備是很重要的。
第五篇:日本留學(xué)感想文集
日本留學(xué)感想文集
――半年間の留學(xué)生活を振り返って
目次
留學(xué)の感想……………………………………………0401班 陳 靖
日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出會(huì)い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感觸そして感動(dòng)…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な體験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留學(xué)について
留學(xué)體験について…………………………………04甲班 蔣 玲玲 留學(xué)の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留學(xué)を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留學(xué)…………………………………………0401班 葉 楠
私の留學(xué)日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留學(xué)生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩
浙江工商大學(xué)日本日本語言文化學(xué)院
留學(xué)の感想
日本語學(xué)科0401班 陳 靖
2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時(shí)30分発の中國杭州行きの飛行機(jī)を待っていた。再びこの場所に來た時(shí)、日本に到著した時(shí)のことが突然脳裏に浮かび、同時(shí)に私は再び原點(diǎn)に戻るという錯(cuò)覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動(dòng)、そしてとても魅力的だったと思う。
2007年9月10日、二時(shí)間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時(shí)、私のハラハラした気持ちはやっと落ち著いた。初めて飛行機(jī)に乗る時(shí)の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現(xiàn)実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見ても、みんなとても興奮しているようだった。
カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留學(xué)生活が皆現(xiàn)実になる。初めて中國から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の學(xué)校で勉強(qiáng)して、初めて……。ひょっとしたら數(shù)え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。
大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。
來たばかりの時(shí)、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買い物に行くことが日課になった。夜の八時(shí)ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時(shí)間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中國人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。
寮で生活を始めて十?dāng)?shù)日が過ぎ、新學(xué)期がやっと始まった。私たちの科目はうちの學(xué)校と一致しなければならなかったので、四天王寺大學(xué)での科目もほとんど規(guī)定された。しかし、ほかの科目も學(xué)生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大學(xué)から私が受けた印象は自由であるということだ??颇郡蜻xぶ前に先生の授業(yè)を先に受けることができる。専門の課程以外に、日本文化、歴史、文學(xué)などの科目があり、學(xué)生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、學(xué)生には大きな選択の自由が與えられ、個(gè)性と趣味も発揮できる。半年の學(xué)習(xí)生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の學(xué)習(xí)を重視する反面、テストは意外に簡単であるということだ。ほとんどの先生は新學(xué)期の初めての授業(yè)でどうやって成績を評(píng)定するのかを?qū)W生にはっきり伝える。
実際に日本で生活してみて、教科書から學(xué)んだ「日本」に関する私の知識(shí)が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車で貍寢入りしたり、漫畫を読んだりだけではない。私は一體右側(cè)を歩いているのか、それとも左側(cè)なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは橫斷歩道での出來事だった。日本に行ったばかりの頃、橫斷歩道で人が道を渡っているときに、車とあたりそうになると、人が先に淺いお辭儀をしてから通る光景をよく目にした。中國には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが禮儀正しい國だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車に対し、九十度以上のお辭儀をしてしまった。
10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時(shí)はもちろん、ほかの場合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。
それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業(yè)で習(xí)ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠(yuǎn)い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見れば、恩を蒙ることになるのだろう。
大學(xué)祭の中華カフェー、反省會(huì)のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優(yōu)しい先生方、バイト先の友達(dá)……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。
日本の印象
日本語學(xué)科0401班 陳 迪思
光陰矢のごとし。半年間の日本での留學(xué)生活があっという間に過ぎてしまった。この半年間は長いようで短い時(shí)間だったが、日本や日本文化について學(xué)ぶことができ、またいろんな人と出會(huì)い、いろんなことを経験し、これからの長い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時(shí)に、感慨の深い半年間でもあった。ある國の言葉と文化を勉強(qiáng)するには、自分でその國に行き経験せねばならぬとある學(xué)者はそう言っていた。私もそう思う。留學(xué)前に遊學(xué)という形で半月ぐらい日本に滯在した。飛行機(jī)から降りた瞬間のあの感動(dòng)と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強(qiáng)している日本語の母國なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、殘念ながら見聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹(jǐn)厳実直な仕事振りである。計(jì)畫から実施までどんな細(xì)かいところでもきちんとしている。參加者全員の行動(dòng)の一致を求めるために何度も説明會(huì)や會(huì)議をすることが多い。大學(xué)祭の時(shí)、日本人の學(xué)生たちと一緒に中華茶館を開いた。當(dāng)日接客用の臺(tái)詞まで皆で考えて、そして何度も演習(xí)した。そんなに細(xì)かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車がいつも時(shí)間厳守で遅刻があまりないとか、電車に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見かけないとか、そういう狀況が生まれるのである。それはすべて計(jì)畫通りだから。それに、日本の電気製品など品質(zhì)がいいという評(píng)判もそれとかかわっているのだろう。中國の場合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場合はスピードよりも出來栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素?cái)长食鰜頄绚à蛞姢皮郡?、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出來事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって?jì)算されていて、それを防ぐための計(jì)畫も立っているのだろう。そういう謹(jǐn)厳なところはわれわれの參考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優(yōu)しい國である。バスは乗客がきちんと座ってから動(dòng)き出す。電車には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細(xì)部に至るまで人のために考えているところがすごく優(yōu)しいと思う。日本のサービス業(yè)界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素?cái)长?。釣りを出す時(shí)は、ちゃんと一枚ずつ數(shù)えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包裝のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に殘ったことがる。それは日本に行ったばかりの時(shí)だった。みんな揃ってソフトバンクの営業(yè)店に攜帯電話を買いに行った。でも、外國人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調(diào)に契約を結(jié)べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた?!钢袊Z入門」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時(shí)、時(shí)々変な中國語の単語が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本當(dāng)に感動(dòng)した。中國では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ當(dāng)てはまる言葉であると感じた。
この半年間、いろんな人と出會(huì)った。親切な方々ばかりだった。中國からの留學(xué)生だと分かって、親切に聲をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中國文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質(zhì)問をされたこともあった?!钢袊稳摔盲?、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留學(xué)に來て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。
テレビをよく見てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中國の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中國でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中國のことが好きな人、中國文化に興味を抱いている人は結(jié)構(gòu)いるが、実際に中國に來られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相當(dāng)な悪影響を與えてしまう。中國の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中國が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調(diào)査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中國のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中國と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い狀況が生れると思う。
最後に、この長いようで短かった旅の間に出會(huì)ったみんなに一言。本當(dāng)に楽しかった。ありがとう、そして、またね。
東瀛との出會(huì)い
日本語學(xué)科0401班 丁 建萍
日本に行く前、留學(xué)をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長く滯在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強(qiáng)するのには、その國についていろいろ學(xué)んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過ぎないと思う。行く時(shí)は、今回の留學(xué)が自分の語學(xué)力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語學(xué)力の上達(dá)はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強(qiáng)になった。
異國での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時(shí)「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長に笑われたことがある。切符の販売機(jī)に向かった時(shí)、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥のように、ぎゅっと窓から出て來て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達(dá)と寮までずっと笑いながら帰った。東京に著いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場合は、さすがに診察費(fèi)も高かった。それから、日本人の友達(dá)ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識(shí)がすごく強(qiáng)かった。そのため、學(xué)生は學(xué)校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強(qiáng)い責(zé)任感を持って頑張っている。時(shí)々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辭儀をしながら、大聲で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場面を見ると、感動(dòng)で胸が熱くなった。中國では多くの學(xué)生が自分の勉強(qiáng)に情熱的に取り組むのに対して、日本の大學(xué)生はクラブ活動(dòng)をやるときが一番やる気満々に見える。特に私を驚かせたのは、車で學(xué)校に通っている學(xué)生が結(jié)構(gòu)多い事、大勢の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、學(xué)費(fèi)を払えないとか言って、學(xué)校を辭めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の國から出ると、母國への深い愛情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母國の體面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中國人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時(shí)、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中國人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中國人の名譽(yù)のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時(shí)ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう狀況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時(shí)よくあった。正直に言うと、日本人の中國に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中國人に対する悪い印象を更に強(qiáng)めるだろうという心配がずっとあった。異國に住んでいる時(shí)、自分の國の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中國人女性が多いと聞いた時(shí)、またバイト先の店長から中國が現(xiàn)在直面している一番の問題は経済発展と環(huán)境保護(hù)のバランスを考慮することにあると言われた時(shí)、自分の気持ちは複雑だった。帰國してから、私たちは日本の先進(jìn)的な面から學(xué)ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時(shí)には自分の國に様々な問題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留學(xué)の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時(shí)は一刻も早く中國に帰って、そのニュースから遠(yuǎn)ざかりたくて堪らなかった。
一方、私たちは中國人として、違う文化を持っている國に行き、違う教育を受けて來たわけだが、中國人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の國民はみんな優(yōu)しかった。初めて會(huì)話を交わした時(shí)、私はいつも両國の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中國も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中國からの影響を深く受けてきた國だからだ。お互いの國境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。
日本での感觸そして感動(dòng)
日本語學(xué)科04甲班 耿 貝妮
日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動(dòng)であった。
考えのきめ細(xì)かい大阪人
9月10日、私達(dá)14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語と日本の文化を3年間學(xué)んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書の內(nèi)容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の國を離れた時(shí)は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ來られたIBU國際交流センターの先生達(dá)の笑顔を見た瞬間、一気に解れました。私達(dá)の荷物を持ってくれて、私達(dá)は旅行中の見聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達(dá)と話しているうちに、すぐ寮に著きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寢室は小さいけど、必要なものが全部準(zhǔn)備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達(dá)は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買ってくださいと言いました。先生たちは私達(dá)の買い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買い物が終わってから先生達(dá)は私達(dá)を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達(dá)に紹介し、私達(dá)を連れて銀行カード、健康保険、攜帯電話などの手続きをしてくれ、自転車の購入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強(qiáng)い日差しと考えのきめ細(xì)かい大阪人でした。
情熱的、友好的な仕事仲間
10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買い物に行った時(shí)、入り口に従業(yè)員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを與えてくれました。仕事も日本語も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達(dá)助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補(bǔ)充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時(shí)間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風(fēng)習(xí)と日本人の考え方を更に深く理解しました。中國人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時(shí)、彼は私にまたもし大阪に來る機(jī)會(huì)があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動(dòng)しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評(píng)価してくれたものと思っています。
無私な先生達(dá)とかわいい學(xué)友達(dá)
日本の先生は私達(dá)の特殊性まで考慮して、私達(dá)14人のために単獨(dú)で多くの授業(yè)をしてくれました。このような教授法は確かに私達(dá)に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達(dá)を最も愛してくれた南谷先生、博學(xué)で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達(dá)は多くの知識(shí)を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達(dá)には現(xiàn)地に友達(dá)がいないから、授業(yè)を受けることだけで、他の課外活動(dòng)はほとんど何もありません。先生達(dá)は多くの活動(dòng)の方案を制定し、日本の學(xué)生と私達(dá)が一緒に活動(dòng)できるように、中日の學(xué)生の交流の場を準(zhǔn)備してくれ、また一方では私達(dá)の課外活動(dòng)を豊かにして、私達(dá)の日本語のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達(dá)の獻(xiàn)身的な努力と學(xué)友達(dá)の積極的な協(xié)力のおかげで、歓迎會(huì)、神宮旅行、京都旅行、送別會(huì)など様々な活動(dòng)を行うことができました。私達(dá)はそれらの活動(dòng)を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。
謙虛で環(huán)境保護(hù)意識(shí)の強(qiáng)い日本人
日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書で學(xué)んだ「禮儀の國」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側(cè)に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側(cè)通路を開けておく點(diǎn)、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ點(diǎn)、ゴミを厳格に分類する點(diǎn)、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛(wèi)生的である點(diǎn)、犬の散歩時(shí)に責(zé)任を持ってフンの後始末をする點(diǎn)などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした?!干辘吩Uありません」は日本で使用頻數(shù)が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場合にはどんな些細(xì)なことでも相手に謝罪をする。
目がくらむ美食とアクセサリー
日本に行く前、日本はショッピングの天國であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見られるたこ焼き、お壽司、おにぎり、そして裝飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見た時(shí)、私は思わず日本人のアイデアと構(gòu)想に感嘆させられた。
半年間はあっという間に過ぎてしまったが、それは私にたくさんの財(cái)産、たくさんの美しい記憶を殘してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。
特別な體験 貴重な経験
――日本留學(xué)について
日本語學(xué)科04甲班 胡 麗芳
半年の留學(xué)生活はあっという間に過ぎてしまいました。生活にしても、勉強(qiáng)にしても、非常に充実して過ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。
四天王寺大學(xué)が私達(dá)留學(xué)生のために開設(shè)した課程は浙江工商大學(xué)日本言語文化學(xué)部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の學(xué)生さんと一緒に受ける授業(yè)がある一方、私達(dá)十四人で受ける授業(yè)もあります。そのような形式により、日本人の學(xué)生さんと交流することができるだけでなく、私達(dá)交換留學(xué)生の語學(xué)レベルによって効果的に授業(yè)を受ける事ができました。日本で授業(yè)を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に學(xué)生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中國と歐米の成果主義とは異なっているところだと思います。中國で三年間も日本語を勉強(qiáng)してきましたが、日本に來てから、日本社會(huì)と日本人の國民性の奧にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの禮儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識(shí)されています。日本人の國民性の特徴については日本文化の授業(yè)でいろいろと學(xué)びました。それらはわれわれ中國の學(xué)生にとってとても興味深い內(nèi)容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は禮儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場」をどのように認(rèn)識(shí)するかということにいつも気を配ります。どんな職場でもその地位に相忚しい「立場」を正く意識(shí)し、出來る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外國人に與え、強(qiáng)い責(zé)任感を持っていると外國人に感じさせます。日本語と文學(xué)を?qū)煿イ筏皮い胨饯郡沥?、日本社?huì)に実際に身を置いて、自ら體験する必要があると思います。この半年間、生活を通して體験し、感じたものは本で學(xué)んだ知識(shí)よりも遙かに貴重です?!阁w験が成長の糧」と言われるように、その社會(huì)に身をおいて実踐的に體験してこそ、その社會(huì)の奧にあるものを心で感じ取ることができます。教科書から學(xué)ぶことはあくまでも知識(shí)の習(xí)得であり、実踐することこそが本當(dāng)の勉強(qiáng)だと思います。生活の面において、半年の日本滯在期間中はずっと四天王寺大學(xué)の先生方から至れり盡くせりのお世話になりました。寮の中には何種類もの電気製品が設(shè)置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留學(xué)生活は本當(dāng)に楽しく過ごせました。
生活といい、勉強(qiáng)といい、非常に細(xì)やかな問題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。
授業(yè)と日常生活の両方で日本語を勉強(qiáng)し、日本社會(huì)を體験することができただけでなく、半年の留學(xué)生活の中で色々な貴重な體験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標(biāo)を持っており、半年の留學(xué)生活の中でどのようにすれば時(shí)間を無駄にしないで、自分の目標(biāo)に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時(shí)間を有効的に利用し、日本社會(huì)の奧に潛む魅力的なものを発見し、その面白さと美しさを吟味しようと夢中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、會(huì)話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運(yùn)び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に來てから理解できるようになってきました。四天王寺大學(xué)は靜かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網(wǎng)が非常に整備されている國で、各駅の間は電車線で繋がれていて、電車のスピードも速く、時(shí)間の節(jié)約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時(shí)間を無駄にしない」という意識(shí)にも関わっていると思います。この半年の留學(xué)生活は、勉強(qiáng)と経験を同時(shí)にする過程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業(yè)中の勉強(qiáng)と體験、実踐中の勉強(qiáng)と體験に分けられます。授業(yè)中には言語と文學(xué)を勉強(qiáng)しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虛性、責(zé)任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自國の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時(shí)に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。
例えば、道に迷ってしまった時(shí)、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動(dòng)してしまうのは當(dāng)たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する禮儀を重んじ、良い印象を與えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です?,F(xiàn)在、日本のあらゆる町に數(shù)えきれない程の外國人が住んでいます。日本は大いに外來の文化を受け入れつつ、自國の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出來て本當(dāng)に良かったと思います。たくさんの日本人の友達(dá)が「日本は住みやすい國だ」と言っていましたが、私は日本の國民の積極的、友好的そして前向きな態(tài)度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認(rèn)識(shí)から理解に変わり、理解から熱愛に変わりました。日本でのいろいろな出來事を思い出す度に、日本が私の第二の母國だという気がします。半年の留學(xué)生活でいろいろな勉強(qiáng)ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛の感情で今は胸がいっぱいです。
留學(xué)體験について
日本語學(xué)科04甲班 蔣 玲玲
去年の九月、學(xué)校の手配により、私たち14人は大阪に交換留學(xué)に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出來た。
大阪に著いたばかりの時(shí)は、大阪弁がすごく苦手で、勉強(qiáng)した標(biāo)準(zhǔn)語が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強(qiáng)い孤獨(dú)感があった。早くこの半年を過ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時(shí)間が経つにつれて、私はだんだんその環(huán)境に馴染んできて、帰國したいという気持ちもそんなに強(qiáng)くなくなってきて、逆にこの國に好感が持てるようになって來た。その理由の一つが國際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり盡くせり私たちの生活の面倒を見てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし國際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留學(xué)生活を過ごせなかったと思う。
半年の留學(xué)のおかげで、私たちは日本的な學(xué)習(xí)生活を十分に體験した。日本人の學(xué)生と一緒に授業(yè)を受けて、交流することはすごく楽しかった。學(xué)校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが體験した日本文化は學(xué)校の教科書とぜんぜん違っていて、授業(yè)だけでは學(xué)べないものである。日本の教育は學(xué)生の個(gè)性の発展を強(qiáng)調(diào)する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、學(xué)生に自由に個(gè)性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、學(xué)生の考えや意見などを聞くことが出來たのは私の中で一番深く印象に殘っている點(diǎn)である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強(qiáng)する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具體的な事物を使って説明してくれた。日本人の學(xué)生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動(dòng)が大部分の時(shí)間を占めている。普段、學(xué)校で學(xué)生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見て彼らの集団主義を強(qiáng)く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強(qiáng)になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外國人だから偏見があるのかなとずっと心配していた。長い時(shí)間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を體験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調(diào)になって、両方の距離が縮まるかもしれない。
そして、計(jì)畫を重視する日本人にも深い印象を受けた。學(xué)習(xí)でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計(jì)畫を作ることが好きだ。彼らは計(jì)畫が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習(xí)慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習(xí)慣を身につけることができたと思う。
日本人の部屋は大體皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の國民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類に分けて、捨てる時(shí)間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協(xié)力すべきだと意識(shí)するようになった。確かに、日本には多くの長所があると認(rèn)めなければならない。誰にでも長所があるように、どんな國にでも優(yōu)秀なところがある。この半年、私は人の長所を?qū)Wんで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時(shí)、自分は中國人であるということを強(qiáng)く意識(shí)するようになった。祖國のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。
私たちの成長は私たちだけで感じられるものである。日本語の勉強(qiáng)はただの資格証明書取得のための知識(shí)や教科書の知識(shí)だけでなく、忚用や実踐力を伴うものでなければならない。留學(xué)はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出會(huì)って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長に大きな影響を與えたと思う。今回の留學(xué)経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、學(xué)校にもう一度感謝したい。學(xué)校のおかげで、この留學(xué)は私の大學(xué)生活における最高の寶物になった。
留學(xué)の感想
日本語學(xué)科0401班 李 頴
半年の留學(xué)生活はあっと言う間に終わりました。本當(dāng)に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時(shí)のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留學(xué)生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留學(xué)生活を前にして不安がたくさんありました。
日本に來る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門出の時(shí)を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達(dá)がいました。留學(xué)とは私にとって夢でしかなかったけど、學(xué)校のおかげでそれは現(xiàn)実になりました。向こうの學(xué)校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本當(dāng)にありがとうって言いたいです。特に國際交流センターの先生たちが優(yōu)しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時(shí)々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達(dá)の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留學(xué)生活は幸せでした。
また留學(xué)してから、以前當(dāng)たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優(yōu)しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時(shí)、私の友達(dá)は皆まるで私の家族のようでした。留學(xué)が終れば友達(dá)とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時(shí)、私は中國に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滯在している時(shí)、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この靜かな動(dòng)物は急に獰猛な動(dòng)物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に殘っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語の世界にいるような感じがしました。
それぞれの場所を巡り歩いて感じたことは日本が本當(dāng)に綺麗な國であるということです。この綺麗な國にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時(shí)に見かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました?;挙工毪长趣摔瑜盲迫摔撕酶肖蚺cえられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習(xí)いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に來てから毎日自分でこれらの家事をしました。將來いい女にならなきゃとあの時(shí)はそう思いました。でも殘念なことに今中國の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時(shí)、日本の學(xué)生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に來てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時(shí)もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大學(xué)際の時(shí)、彼らは私たちを助けてくれて、私達(dá)の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時(shí)のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。
今の私は日本に行けて本當(dāng)に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達(dá)などいろいろな人と出會(huì)えてよかったです。もう二度と會(huì)うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出會(huì)いであったと思うと尚更會(huì)えて良かったという気になります。
また日本でいろいろなことを初めて體験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過ごす舊正月等等…。この半年間で私は大きく成長したと思います。
滑走、離陸、飛行
日本語學(xué)科0401班 繆 嬋
飛行機(jī)は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大學(xué)時(shí)代も、三年の努力と準(zhǔn)備で、この6ヶ月の交換留學(xué)のチャンスを勝ち取った。工商大學(xué)、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。
この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外國生活の苦しさを時(shí)々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強(qiáng)と生活へと戻らせた。
四天王寺國際仏教大學(xué)で日本文化論、中日通訳、経済常識(shí)などの科目を勉強(qiáng)して、日本語能力にも、日本についての知識(shí)にも、もっと自信を持つようになった。授業(yè)でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈(zèng)ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本當(dāng)にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業(yè)でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した內(nèi)容を真面目に準(zhǔn)備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級(jí)日本語の授業(yè)を通じ、進(jìn)歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無味乾燥な経済循環(huán)や金融危機(jī)を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元?dú)荬丹?。いろいろすばらしい先生方のおかげで、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績が取れたと思う。
國際交流センターの村上センター長、氏家課長、夢田さん、三輪さんは私たちの留學(xué)生活を充実させるために、職場以外でも「サービス殘業(yè)」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滯在中、私たちのわがままと油斷によってすっかりご迷惑をかけたが、國際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留學(xué)生たちのように、日本語能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業(yè)以外の時(shí)間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養(yǎng)護(hù)老人ホームにアルバイトに行った。園長は長い時(shí)間の面接をして、初めて外國人のバイトさんを採用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護(hù)たちの連絡(luò)や報(bào)告もちゃんとしなければならないし、初めての時(shí)、次長も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護(hù)の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外國で「中國人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護(hù)たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中國に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護(hù)たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時(shí)、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開けてくれる。
帰國してから、もう1週間だ。日本の先進(jìn)技術(shù)や禮儀作法などは中國人にとって勉強(qiáng)に値する。もうすぐ卒業(yè)して社會(huì)に入る私にとって、この半年は専門知識(shí)を高めることができ、肌で感じた日本の感觸はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。
日本はすばらしい國だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな畫面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている?;撙筏?、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を殘した島國に行くだろう。
思い出せば
日本語學(xué)科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留學(xué)生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時(shí)間だったと思う。日本語を三年間も勉強(qiáng)したけど、今まで日本語を?qū)g際に話す機(jī)會(huì)が多かったとは言えない。授業(yè)や日本語コーナー以外に、日本語を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留學(xué)のおかげで、思いっきり日本語を話す機(jī)會(huì)を手に入れることができて、本當(dāng)にうれしかった。私は日本に著いたばかりの日、迷子になってしまった?!袱工撙蓼护?。ここに行きたいのですけど」と小さい聲で地図を見てもらった方にそう言った時(shí)、胸がどきどきした?!袱ⅳ?。まっすぐに行って、二番名の信號(hào)を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調(diào)にいくと思っていたのだが、著いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり參ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語はまだまだで勉強(qiáng)すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優(yōu)しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語や外來語を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達(dá)もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達(dá)は主に大學(xué)祭の時(shí)できた。日本の大學(xué)祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと來ない感じがあった。それは私が見たドラマやアニメの中に大學(xué)祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に參加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中國に関する情報(bào)をできるだけ多く日本人に伝えるために留學(xué)生の私たちは參加させていただいた。先生たちは初めて大學(xué)祭に參加する私たちの為にわざわざボランティアの學(xué)生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服裝を準(zhǔn)備したり、見所を考えたり、會(huì)場を飾ったり、ボランティアで集まった日本の學(xué)生達(dá)の創(chuàng)造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遙かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時(shí)まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時(shí)根気よく敬語の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも學(xué)ぶべきだと思った。藤井寺には日本語教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語の話せない在日外國人に日本語を教えている。またそのお年寄りたちも外國人から外國の情報(bào)をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢神宮に行った時(shí)伊勢神宮のことを教えてくれたり、クリスマスの時(shí)料理を作ってくれたり、帰國の前には送別會(huì)を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本當(dāng)にありがたかった。人生は一期一會(huì)と言っても、人と人の縁が結(jié)ばれればそれは一生の寶だと日本語教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時(shí)のように頻繁に會(huì)えなくても、インターネットを通じて連絡(luò)している。今回の留學(xué)で、私は生活の勉強(qiáng)もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰國してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業(yè)する準(zhǔn)備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報(bào)いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰かの為に奉仕し、誰かを助ける事を通して、この恩に報(bào)いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。
半年の留學(xué)を振り返って
日本語學(xué)科0401班 王 洋
帰國して二ヶ月。親戚と友人に會(huì)う時(shí)によく「日本での留學(xué)生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤獨(dú)、それに感動(dòng)に溢れた日々を。
日本に到著し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、學(xué)校の宿舎行きの車に乗っている間中、ずっと夢のような青い海を眺めていた。僕は海を見るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異國體験だから。20年間暮らしていた母國を離れて、異國で生活するのは人生の中で初めての體験である?!竷Wは今後の半年の間に、どのような學(xué)校で勉強(qiáng)するのか、どのような環(huán)境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習(xí)慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた國際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ??崭郅蓼怯à藖恧皮い郡坤い郡獖棨丹螭涡︻啢纤?cái)长坤盲?。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車から降りた後、部屋までスーツケースを運(yùn)びながら、僕らの住む環(huán)境について紹介してくれた。結(jié)構(gòu)ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて會(huì)うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。國際交流センターのスタッフたちと學(xué)校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留學(xué)の間に色々細(xì)かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見知らぬ環(huán)境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動(dòng)販売機(jī)で電話カードの買い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、學(xué)校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や學(xué)校の友達(dá)に會(huì)いたくなるのだ。孤獨(dú)感が強(qiáng)かった。
學(xué)校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい學(xué)習(xí)環(huán)境は留學(xué)生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強(qiáng)した言語や文化の知識(shí)はいよいよ役に立つのだ?!赶兢蕰r(shí)が多すぎると皆退屈じゃないか」と學(xué)校側(cè)が考えてくれて、僕らの意見と合わせて授業(yè)の數(shù)を予定より少し増やした。その授業(yè)の中で、五つくらいは日本人の學(xué)生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文學(xué)史Ⅱと日本文化論。理解するのに時(shí)間がかかる。通訳理論と実踐や上級(jí)日本語及びビジネス日本語などは留學(xué)生向けの授業(yè)だから、人數(shù)が少ない。授業(yè)の雰囲気は比較的楽だった。運(yùn)動(dòng)や友達(dá)作りのため、僕は放課後の時(shí)間を利用して學(xué)校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習(xí)していた。週末は時(shí)々彼らと関西のバスケのリーグ試合に參加し、各學(xué)校のクラブ文化を體験し、関西周辺の學(xué)校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年會(huì)に參加した。
日本に著いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中國の社會(huì)事情を?qū)い亭俊¥饯欷摔瑜瞍沃肖扦ⅳ盲郡长趣摔膜い匹ⅴ丧啸ぅ工筏皮猡椁盲?。お正月の時(shí)もわざわざ家まで招待してもらった。映畫も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰國直前、感謝の気持ちを込めて中國式の水餃子を作ってあげた。それに、中國ではいい縁起を象徴 19 する「中國結(jié)」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調(diào)味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動(dòng)的だった。今だに時(shí)々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。
留學(xué)の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢神宮、大阪市內(nèi)の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見たこともない美しい赤色だった。大學(xué)での活動(dòng)にも沢山參加した。一番印象深かったのは大學(xué)祭。僕らは日本人の學(xué)生たちと中華茶館をやった。中國の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、國際交流センターのスタッフたちと學(xué)生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。
半年の留學(xué)生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本當(dāng)に勉強(qiáng)になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。
帰國直前、沢山の人が送別に來てくれた。感動(dòng)的だった。親切な學(xué)校の先生方、交流しに來た學(xué)生たち、それといつもお世話になっていた國際交流センター、教務(wù)課、総務(wù)課、図書館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも國際交流活動(dòng)を行っていただいた藤井寺市國際交流協(xié)會(huì)のスタッフたちに、心から感謝している。
帰國前最後の夜。一人で帰りの最後の電車に乗っていた。車窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過ぎってしまった。桜満開のキャンパスを見るチャンスは結(jié)局なかった。殘念だった。しかし、半年の短い留學(xué)生活は桜が散るのと同じようだった。花びらが枝から離れて散ってしまうのは確かに殘念だが、それより重要なのは開花してから散るまでの短く美しい過程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。
將來またいつか會(huì)えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある?!袱嗓Δ兢?dú)荬?!ザイジェン?。à蓼郡停?/p>
「さようなら」から「ただいま」へ
日本語學(xué)科0401班 徐 哲紋
2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機(jī)に乗って杭州に帰りました。これで半年の留學(xué)生活は完全に終わりました。
帰國する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別會(huì)、帰國手続き、お土産買いなどなど。本當(dāng)に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機(jī)が離陸した途端に日本への名殘惜しさがこみ上げてきました。
正直、大學(xué)四年生の時(shí)に交換留學(xué)するなんて今でも信じられないと思います。去年、王寶平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時(shí)のエピソードを今でも覚えています。當(dāng)時(shí)はクラスで誰もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出國手続き、一歩一歩進(jìn)んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留學(xué)へ行くことを?qū)g感しました。私にとって、今回は日本との初めての出會(huì)いです。こんなに長期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時(shí)、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時(shí)、先生が路線の調(diào)べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災(zāi)の遺跡を見て改めて命の大切さを感じました。
私は今回の留學(xué)を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動(dòng)物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場所には皆私の足跡が殘っています。旅を通して、自分は今日本という社會(huì)に、そして日本人という集団に屬して輝いているということをしみじみ感じました。
たとえ日本語學(xué)科の學(xué)生でいつも日本のことを勉強(qiáng)しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。
例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。來る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社會(huì)で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺國際交流協(xié)會(huì)の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、國際交流に非常に熱心で、特に私たち中國人の留學(xué)生と熱心に付き合ってくれたことは本當(dāng)にありがたいと思っています。
中國に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時(shí)よりも、むしろ今の方がこちらの環(huán)境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時(shí)に日本のバスが時(shí)間通りに來ることをいつも思い出しています。今の中國は他の國に習(xí)わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠點(diǎn)があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達(dá)できないはずです。他人の長所を見つけて、自分の欠陥を補(bǔ)ってこそ、國も人生も発展できると思います。
帰國してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留學(xué)は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます。「人生は不思議です。」一人の先生が日本に戻る時(shí)こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留學(xué)に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。
ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願(yuàn)いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。
私の日本留學(xué)
日本語學(xué)科0401班 葉 楠
稅関で検閲を受けて、飛行機(jī)に乗りました。疲れたせいかすぐ寢始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの聲が聞こえてきました。ついに日本に著いたということが分かりました。
初めての留學(xué)生活に対する憧れと心配の気持ちを同時(shí)に心に抱き、荷物を持って飛行機(jī)を降りました。日本に対する第一印象は「靜」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見えません。友達(dá)と話す時(shí)もわざと聲を小さくして話します。大學(xué)で授業(yè)を受けた時(shí)よく先生方から日本の電車はとても靜かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本當(dāng)にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに靜かです。日本の住宅街も靜かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている聲があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、殘念ながらなかなか答えが見つかりませんでした。
國內(nèi)にいた時(shí)も日本文化などの授業(yè)を受けたけれど、実際こちらに來て、毎日の新しい発見を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細(xì)なことで日本を感じ、日本人の生活を體験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚著してもぶるぶる震えながら學(xué)校へ向います。そんな時(shí)、よく見かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元?dú)荬市W(xué)生や中學(xué)生たちです。昔新聞で見たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中國の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を著せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。
また、日本の街を歩いてみると、時(shí)々著物を著ている女の人の姿が見えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり著物でしょう。結(jié)婚式や成人式など正式な場合だけではなく、普通に著ています。中國の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。殘念ながら、中國では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど著ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統(tǒng)的な美しさが味わえ、伝統(tǒng)的なものと現(xiàn)代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細(xì)かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機(jī)でも盲人専用の點(diǎn)字があります。普通のお弁當(dāng)でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時(shí)の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中國のことが放送されます。興味津々で見続けると、殘念ながら中國の悪いところばかり流れています。同じく殘念なことなのですが、中國の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報(bào)道する一方、意識(shí)的或いは無意識(shí)的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側(cè)面だけを強(qiáng)調(diào)する傾向があるよう 23 です。でもお互いの國の人々は大體マスメディアから情報(bào)をゲットし、そしてイメージします。それは両國の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語能力が上達(dá)したかはっきり言えないですが、確かに成長していると思います。言葉や知識(shí)だけでなく、いろんな面で勉強(qiáng)になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に殘っています。まずかったです。最初の時(shí)はフライパンを持って慌てて取り亂しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり來たりして、家に著いた時(shí)外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風(fēng)景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達(dá)と話す時(shí)とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に會(huì)話ができるようになりました。長いようで短かった半年、日本での留學(xué)生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ來て自分の目でその國を見ていろいろと體験できたことは本當(dāng)によかったと思います。
卒業(yè)する前の半年にこんな貴重な機(jī)會(huì)をいただいて日本を感じることができ、心から學(xué)院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。
私の留學(xué)日記
日本語學(xué)科0401班 張 叔傑
1月25日(晴)新幹線で東京へ
日本に來て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中國國內(nèi)で「和諧號(hào)」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。當(dāng)たり前のことですが、周りは誰もが日本語を話す日本人で、私は中國語を話す中國人だからです。新幹線で約三時(shí)間、途中の主要な駅は京都、名古屋、靜岡、新橫浜で、そして最後に日本の首都――東京に到著しました。東京駅を出て目を向けると、誰もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費(fèi)しない働きマンです。
1月26日(晴)東京めぐり
朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。
チーム活動(dòng)では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環(huán)、張叔傑、付穎です。チームで皇居の寫真をたくさん撮りましたが、集合寫真を撮りそびれました。殘念。遠(yuǎn)くの東京タワーにカメラを向け、數(shù)回「カシャカシャ」。その時(shí)、集合の合図が聞こえました。淺草の雷門では26人の集合寫真を撮影?!弗钎蟆工我簸摔撙螭胜Δい蓼筏俊?/p>
チームは解散、雷門で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動(dòng)。渋谷109、NHK、代々木體育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お臺(tái)場、フジテレビそして観覧車。いずれも外側(cè)から一度ざっと見るだけでしたが、日本の學(xué)生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい體験でした。中日學(xué)生交流會(huì)では、おのおの自分の意見を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、國籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での體験を全て言葉に出し盡くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見える船の科學(xué)館でビュッフェ。幸せ。
1月27日(雤)東京から沖縄へ
3時(shí)間ほど飛行機(jī)に乗り、ついに那覇空港へ到著。ずっと行きたかった沖縄。気溫19度??諝荬畏肿右护囊护膜撕¥蝿訾い绀欷皮い蓼筏?。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。
1月28日(雤)沖縄
ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦爭の殘酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や寫真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙禱を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願(yuàn)うことしかできません。
首里城はどこかで見たことがあるような感じがして、古代王朝を夢に描きました。沖縄は中國ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。
海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、寫真を撮りました。蒼い空と海、白い雲(yún)と砂。夢に見た冬の沖縄をついに自分で體験できて、本當(dāng)にこの上ない幸せでした。誰もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全體にさわやかな笑い聲が響いていました。すばらしい風(fēng)景を享受すると同時(shí)に、私たちも風(fēng)景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時(shí)間半も経っていました。余韻は盡きません。最大の成果は「川流會(huì)」を結(jié)成したことです。私たちの友情も「川流會(huì)」とともにたえず育っていくと思います。
1月29日(曇)神戸
10:05離陸、さようなら、親愛なる沖縄。大阪に到著…。有馬溫泉は、日本三大溫泉の一つです。日本人の溫泉好きは來日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の溫泉を自ら體験できたことは、本當(dāng)に私たちを興奮させました。唯一殘念だったことは、溫泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風(fēng)呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習(xí)慣がない國の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。
1月30日(晴)京都
金閣寺。天気予報(bào)では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黃金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風(fēng)情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見學(xué)するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見に値するところです。景色は同じ景色ですが、見る人は違います。今こうして清水寺を見學(xué)する時(shí)の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。
以上のシーンは留學(xué)生活のほんの僅かな一部分です。日本滯在中の半年間、一日一時(shí)一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大學(xué)の先生方、國際交流課の職員さんたち、學(xué)園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の學(xué)生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出會(huì)ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの國で出會(huì)った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠(yuǎn)に。
僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を體験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時(shí)に日本人との觸れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の斷片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奧に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠(yuǎn)に忘れることはないでしょう。
半年の留學(xué)生活を憶う
日本語學(xué)科04甲班 周 倩倩
時(shí)間が経つのは本當(dāng)に早く、半年の留學(xué)生活はあっという間に過ぎてしまいました。留學(xué)のチャンスを得て、異國の生活を體験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過ごす事ができて、いろいろな人に出會(huì)って、今まで體験した事の無い事をたくさん體験して、昔はテレビでしか見る事のできなかったものを自分の目で直に見る事ができて本當(dāng)に良かったです。日本人の先生方と學(xué)生さん達(dá)と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本當(dāng)に懐かしく思います。
到著したばかりの興奮
9月10日、私たち14人は関西國際空港に到著し、以前訪問し時(shí)と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに來てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問時(shí)と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留學(xué)生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時(shí)非常に興奮していました。和交寮に著いて、私たちは生活設(shè)備が完璧に用意されていることに気づき、日本に著いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。學(xué)校の授業(yè)が始まるまでにはまだ時(shí)間があったので、到著後の數(shù)日間は學(xué)校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また國際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車と攜帯も買いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動(dòng)の範(fàn)囲も幅広くなりました。日本に著いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。
ファッションを感じる
學(xué)校が始まりました。靜かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黃色く染めて、綺麗に化粧をしている女子學(xué)生達(dá)がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお灑落です。そんな若者達(dá)を見て、いつか見たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お灑落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長いブーツを履いて、寒さや暑さに構(gòu)わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見た時(shí)、さすが日本はファッション大國だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。
大阪弁
大阪にいるから、學(xué)校でも公共の場所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰國前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。
十一月の大學(xué)祭
大學(xué)祭。前はただ日本のドラマで見たことがあっただけでしたが、やっと自分も體験できることになりました。大學(xué)祭前には、學(xué)生さんが學(xué)校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大學(xué)祭のためにいろいろ準(zhǔn)備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も國際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの學(xué)生さん達(dá)のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中國結(jié)、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯(lián)、飾り物など、また浴衣を著ている日本人の學(xué)生さんとチャイナドレスを著ている私たちは開催の日にいろいろな市民と學(xué)生さんを引きつけました。參加してくれた人數(shù)は私たちの予想を遙かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中國の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖國中國を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。
伊勢神宮の見學(xué)
藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢に見學(xué)に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。內(nèi)宮へと向かう通路で、日本の伝統(tǒng)文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に參加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も體験しました。
アルバイトの生活
日本の學(xué)生はほとんど皆バイトしています。社會(huì)経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責(zé)任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時(shí)間営業(yè)のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている?yún)棨筏さ觊L、優(yōu)しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人數(shù)人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名稱に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優(yōu)しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを與えてくれた店長、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。
半年の間いろいろな人と出會(huì)って、その中の一部の人とは一期一會(huì)かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の寶物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。
最後に今回の貴重な留學(xué)の機(jī)會(huì)を作ってくれた本校の學(xué)院の先生方にまずはお禮を申し上げたいです。また四天王寺仏教大學(xué)國際交流センターの先生方にも心よりのお禮を申し上げたいです。日本の先生方は私たちの生活の面でも勉強(qiáng)の面でもいろいろ助けてくれて、その助けがあったからこそ今度の留學(xué)が順調(diào)に進(jìn)み、いっぱい素晴らしい思い出を作ることができたと思います。今度の留學(xué)で私たちは視野を広げ、大きく成長できました。