第一篇:初級日語學習心得
公選課名稱:班
級:學
號:姓
名:
《初級日語》
時間如奔騰的江水急速而又一去不復返,幾周來的日語課已接近尾聲,對課堂上的那種學習日語的激情卻依依不舍。說實在的,現(xiàn)在日語作為一門小語種在中國很流行,許多學生學習日語的原因各有不同,有的為考研,有的為出國留學,有的為了將來能夠找到高薪的工作,還有的只是個人愛好等等??傊矣X得比別人多掌握一門外語就是優(yōu)勢,無論將來做什么。
談起我學日語的興趣,可以說是從高三就開始了,記得當時一位同學家的姐姐在日本留學,高考前打國際長途為她加油。當時很羨慕她姐姐能出國,我就想著我也要學習日語,將來有機會也去日本深造。慢慢地,我進入了大學,聽老師說學計算機的學生可以學習日語,現(xiàn)在對日外包的軟件項目很多,了解一點日語肯定會有好處的。這更加點燃了我學習日語的激情。所以從那時刻起,我開始從網(wǎng)上查找、下載一些初級日語的教程來學習,開始“”的學習起日語的五十音圖來,日語的語音分為平假名和片假名,我就一遍一遍的聽,一遍一遍的寫,但是當時臨近期末考試復習,所以對日語的初步學習也就擱置一旁。當了今年這學期,我留意到公選課里開設了初級日語,所以我就毫不猶豫的選了這門課。到了第四周開始《初級日語》這門課時,我記得當時我們的教室都爆滿了,同學們對學習日語的激情都很高漲,教我們日語的是我們學校安全學院的魯老師,在他的帶領下,我們一遍一遍的大聲朗讀,真的很有氣氛。我記得最深的是他的一句話,他總是說他在學習日語時,外面的一切事物都與他無關,他的頭腦里只有日語單詞和他自己。老師的這種精神很值得我們每一個學生學習,我想無論學習什么東西,如果達到了這樣一種如癡如醉的忘我的境界,遲早都會開花結果的。課后我也不斷從網(wǎng)上學習一些句子來記憶日語單詞,也朗讀日語課文來掌握初級日語里的一些詞匯及簡單的語法。慢慢地,同學也被感染了,開始學習起日語來,我們就每天“”的那樣打招呼,晚上“”的那樣問好,我不斷地練習自我介紹“”,通過一遍又一遍的聽、讀、寫、說,我感覺我每天的學習生活都充滿了樂趣。我覺得學習日語就像我們學習英語一樣,我們需要循環(huán)往復的記憶大量的單詞,需要不斷的聯(lián)系聽和說的能力,學習日語不是一朝一夕就能卓有成效的,掌握一門語言是需要時間的積累的,我們只有持之以恒才能小有成就??傊瑢W外語,聽說讀寫譯,各個都很重要。但是什么最重要呢?當然是聽了!不然怎么會把“聽”給排在第一位呢?
但是練習聽力沒有捷徑,它是一個循序漸進的過程,并且在過程中,你可能感覺不到自己有所進步提高,但要耐心堅持,總有天你會突然發(fā)現(xiàn)自己的聽力有了明顯的提高的。練習聽力,需要根據(jù)自己的實際水平和情況,制定適合自己的比較好的練習方法。這個制定過程需要慢慢摸索。我們都知道小孩學習語言非???,那么小孩是怎么學會語言的呢?要記得剛出生的嬰兒,什么都不會,不會說也不會寫。但是他們可以用耳朵來聽!這“聽”可是天生的能力,所以往往嬰兒特別集中注意力去聽,聽清了然后模仿。我想我們就應該學習這種類似嬰兒學語言的方法——初期時大量廣泛地聽,仔細認真地聽,精聽、泛聽都要練。所以我就平時休息的時候,看一些日語原聲的動漫劇、情景對話,在不知不覺的環(huán)境中來提高我的聽力。課堂上,老師也給我們放一些基礎日語語音及單詞的小動畫,老師也說我們趕上了好時代,可以通過網(wǎng)絡視頻來學習日語,比他們那時候幸福多了,真的,通過靈動的圖畫來記憶單詞真的很有效果。另外,經過同朋友們的交流,她們說平時的時候,你多看點日劇、聽聽日語廣播、訪談、綜藝類的節(jié)目會對你有所幫助的。簡而總之,聽力很重要,否則的話,學習過之后只會做題,看看文章,不會聽也不會說,就成了啞巴日語了。它就像學習英語一樣,培養(yǎng)我
們的語感,久而久之,耳濡目染,我們慢慢也就有所提高啦。只要聽力能聽懂,那么我們的讀寫譯也就變得容易了。
我認為學習日語同別的學科一樣,首要的是要有興趣,有了興趣,我們才能更有激情的去學習,因為要記憶日語的大量詞匯也是很繁瑣的一件事。課堂上老師說,如果你們有機會出國一趟,在那樣的語言環(huán)境里待上一段時間,你就會了。是啊,環(huán)境也很重要,現(xiàn)在我們可能沒有那么好的環(huán)境,但是需要我們自己去創(chuàng)造,就好比,你對著鏡子說日語。要不然,學習起來會越來越覺得累,逐漸的就放棄了、淡忘了。另外,我覺得學習日語的另外一個重要的方面,就是要做足夠的閱讀,這是我從英語的學習中感悟出來的,記得是當時考六級時,我覺得單純的背單詞,遺忘的速率很大,所以我每天都做一定量的閱讀訓練,遇到不懂的單詞就去翻字典,讀得多了,見得多了,慢慢地詞匯量也提高上去了。所以說學習日語也一樣,聽力很重要,但是閱讀多了也會有效果的,俗話說嘛,一回生二回熟。而且,不是有句話這樣說嗎,就是荀子在《勸學》里的一句話“不積跬步,無以致千里;不積小流,無以成江?!笨梢?,積累是很重要的。這都是我平時積累的感悟,我想利用這種方法學習日語也是行得通的。
此外,日語的語法也是需要牢牢掌握的,在我們做朗讀或是練習的時候,分析句子的結構組成也是至關重要的。
日語課即將結束,說真的,老師教會了我們很多啊,雖然只是短短幾周的時間。我們都知道,大學生學習最重要的一條就是要有自己的一套方法、一個完整的思路,老師給了我們學習日語的敲門磚,那么,剩下的就靠我們自己的勤奮了加汗水了。我會以飽滿的熱情與濃厚的興趣繼續(xù)學習我的日語,我始終相信一句話,那就是“貴在持之以恒”。
第二篇:初級日語作文
我的大學生活
種類によっての熱心な出現(xiàn)は時間に素晴しい教授で教師、思考の列車に近く學友と坐るために、歩行者がすべて妨げたそれらを座席のための一見引き出す教科書を、終日大學生命始めてしまった道の歩行者のプロローグを次第にであるずっとクラスに出席した多數(shù)、壊したキャンパスの靜けさを、すぐに、雑談していた最后の夜スポーツが一致する教室の教室の方に動かされて非常に速く浸るある恐れられていた軽いステップを置くことを可能にしたこと、ちょうど照らされた私の大學生命天候が何人かの人々陰の外國語を読むキャンパスで見る教師と上向きに飛んで、表面の古い教授は時間后に學校からの休暇に青年輝きの午后をある最も忘れられない渡している、これは行くために自分自身が割り當てる時間、割り當てられたアクセス網(wǎng)、一緒に、そしてまたそう食事した任命同時にだった各種類の活動が行なった元気づけた學生のサッカー競技場のグループの文學様式ホールからの音、送信された時間蹴る球をだったが、また何人かの何人かの若いメス學生はだったこの2 年に、住むために燃料を補給された叫ぶこと......意識不明に2 年の大學渡されて実際によかったそして、成長した育つ、自身の夢に日刊新聞の私達がすべて次第に先に行ってもいかにが生命の悪い狀態(tài)にすべてある
「私の友達」
私は積極的な性格ですから、友達がたくさんいます。しかし一番仲が良いのは你來我網(wǎng)さんという友だちです。彼女と初めて會ったのは、高校生になった時です。你來我網(wǎng)さんは私は反対に、女らしく優(yōu)しくて、すなおです。私と同じ年ですが、いつも私の悩みを聞いてくれて、私には本當のお姉さんのような人です。私が寂しい時や困ってにる時は、いつでも力になってくれました。你來我網(wǎng)さんは、今、ゲザイナーになって有名な洋服の會社につとめ、毎日いそがしいようです。私が日本へ來ているので會えませんが、暇があれば手紙を書き、電話も時時かけています。これからもずっと仲良くしていきたいと思ってにます。
「私の夢」
(日本人は理想よりも、夢と言う言葉を使っていると思いますので。)
私はまだ子供のころ、空を見上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを見て、心が愈されるような気がします。ですから、私はそのとき、「將來パイロットになりたい」と心で決めました。飛行機にのって、鳥のように、空を、云の間を縫いでいくことを、すばらしく思っていました。頭が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。
まだちっちゃいので、パイロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パイロットはみんな2.0以上の視力がなければならないと聞いて、近視眼である私はただ、空しく嘆くしか、しようがありませんでした。
高校に入って、私はサッカーに興味を持ち始めました。サッカー選手たちが、競い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同時に、新たな夢が私の心に芽生えま
した。それは、「中國一のゴールキーパーになって、中國チームを世界の頂點に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身長が必要です。1.80ちょうどの私には、中國一は無理だったのかもしれません。大學に入って、身長がほぼ固定された私の新たな夢は、無殘にも破られてしまいました。
日語
大學では、日本語を専攻しました。正直、初めの頃は、夢なんて、まだ見つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の夢とか、意志とか、ありませんでした。勉強していく中で、ちょっとした問題に気づきました。それは、必死に勉強している人ほど、成績が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。殘念なことに、彼らは勉強の仕組み、つまり勉強の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の學習を繰り返しているです。そこで、私は「將來日本語の教師になって、知識だけではなく、勉強の仕組みを、御紹介させていただきたい」という、夢を持つようになり、そして今までに至っています
我的家鄉(xiāng)
私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中國の中では、最も都會らしい都會です。上海には名所名跡が少ないが、中國最大の商業(yè)、工業(yè)、港灣地帯として特徴づけられている。
今、上海の人口がもうすでに1250萬人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革開放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに驚き、上海の一員として、夸りと喜ぴを持っている。
上海は長江の南側、支流の黃浦江の西側に拓かれた街だ。今世紀の初めに黃浦江西側のバンドと呼ばれる地區(qū)は、港灣設備が整備され、その周辺に各國の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽園」と呼ぱれ、このバンドは國內だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず訪れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ風格を持ち、「萬國の建筑物」と言われる。
バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。東京の銀座より人がいっぱいで賑やかである。南京路にある第一百貨店は毎日20萬人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30萬人を超えるほどだ。(你我 日語)
さらに、夜のバンドと南京路はまた格別だ。ネオンサインがまぷしいほど輝き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と絕賛している。
誰にも故郷がある。故郷を離れれぱ離れるほど故郷が戀しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回數(shù)が増えれぱ増えるほど戀しくなる私の大好きな上海である。
「自己紹介」
私は中國から來た「ぼくのゆめ」です。今島根にある寮に住んでいます。外國人は私一人です。ですから、はじめのころは、言葉や食事のことなどでとても苦労【くろう】しました。お風呂に入る時も恥ずかしくて嫌でした。でも、今はもうすっかり寮の生活にも慣れて、みんなと仲良くなりました。私は料理が得意なので、休みの日は、寮の友だちにごちそうします。すると、みんなとてもよろこんでくれます。私は好奇心が強く
いろいろなことを體験してみたいと、いつも思っています。それで、以前から趣味のあった日本へ來たのです。今熱中していることは生け花です。次は、お茶をやってみたいと思っています。にほんへ來る前は、病院に勤めていました。日本語の勉強が終わって帰國したら、日本語や日本で學んだことをどんどん仕事に生かしたいと思っています。
星期日(にちようび)
昨日は日曜日で、とてもいい天気でした。あんなにすばらしい天気はほんとにめずらしいです。留學生の田中さんは日本語科の趙さんと一緒に自転車で淮海路(わいかいろ)行きました。そして、淮海路のショッピングセンターで買い物をしました。趙さんは文房具や食べ物を買いました。買い物のあと、二人はレストランへ行きました。そこで、二人で食事をしました。それから、田中さんと趙さんは公園へ行きました。そこで三十分ぐらい散歩しました。そのあと、二人は映畫館でとてもおもしろい映畫を見ました。
譯文:
星期日
昨天是星期日,天氣非常好。那么好的天氣真是非常少見。留學生田中和日語系的小趙一起騎自行車去了淮海路。然后在淮海路的購物中心買了東西。小趙買了文具和食物。購物之后,兩個人去了餐廳。在那里,兩人吃了飯。然后,田中和小趙去了公園。在那里大概散步了三十分鐘。之后兩人又在電影院看了非常有趣的電影。
人生
私は一本の長い階段を設ける。一年三百六十五日たつと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。
下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結び付けられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけない。しかし、なんといっても、この英児二人が際立って溌剌としている。聲から何十段でも階段をのぼって行くエネルギ―を、その小さい體に詰め込み、いかなることでも、実現(xiàn)できる可能性を身內に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄譽も、金も無関係である。時時笑うが、神様が笑うことの練習をさせているとしか思わない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この英児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の英児が私の腰をかけているところまでのぼるのは大変である。英児のいる二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四段目あたりにかけてばら撒かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壯年期に入ろうとしている。當然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験しているところであろうと思う。私は殘念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親がくるしんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理していかねばならぬものが、人生
というものであろうからである。
「私の一日」
私は毎朝6時半に起きます。そしてラジオの中國語の勉強を始めます。中國語の発音は大変難しいです。7時半ごろ朝ご飯を食べます。私の家は郊外にあります。會社は町のまん中にあります。家から駅まで10分あまり歩きます。そして電車で會社へ行きます。家から會社まで55分かかります。電車はいつもたいへんこみます。會社は9時に始まります。仕事はたいてい6時に終わります。どきどき駅からタクシーで帰ります。3分ぐらいです。170円かかります。私の會社は旅行會社にいます。支店は全國に八か所あります。仕事はたいへんおもしろいです。私はよく出張します。來週は九州へ行きます。しかし、出張はとても疲れます。日曜日はほんとんどの會社は休みます。しかし、わたしの會社はめったに休みません。社員は交替で休みます。休みの日は一か月に4回とどです。その日は晝ごろに起きます。あまり外出しません。家でゆっくり小説を読みます。夜はビールを少し読みます。そしてステレオで音楽を聞きます。ときどきテレビも見ます。
私の家族(我的家庭)
私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。父、母とかわいい私です。
父は見るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 時々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。
私は 幸せな家庭があって 未來 両親は私に対して 最重要な人です。
私は父と母を愛しています。
夢を葉える―今考えている『夢』と『現(xiàn)実』について―
『私は將來、なりたものはあるのか』そんなことを尋ねられて『うん、あるよ』と平然と答えられるような夢を、正直言うと私は持ってはいない。夢を持っていたとしても、きっと家族や身近にいる人間にも影響、迷惑、負擔をかけてしまう可能性があるからである。おそらく、という私が推測する上では、夢のことを打ち明けたとしても家族は反対するだろう。
その夢のひとつが、『小説家』。
このメビウスリングというサイトでも、私は小説を連載している。正直言うと文章構成などはかなり得意分野でもあるし、その勉強にはかなり力を入れている。自分が今、何よりもなりたい職業(yè)――夢。
だがそれを現(xiàn)実的に考えてみると、小説家という職業(yè)は売れて生活できるものである。普通のサラリーマンとは訳が違う。本業(yè)としても売れなければ、必ず家族のほうに私の生活費を負擔させてしまうだろう。私の家族は七人。祖母と祖父、両親に二人の姉がいる。
將來のことを考えてみれば、きっと姉は二人ともどこかで一人暮らしたり、新たな家族を持つことになるだろう。そうなれば、何よりも両親に負擔がかかるのだ。
それが、怖かった。
今までずっとわがままを聞いてくれていた両親に、大人になってまでも負擔をかけるなど…。
だが私はずっと、この夢をあきらめたことはない。
第三篇:日語初級自我介紹
みなさん?和憐挫。暴?わたし?は??と賦?もう?します。書定?ことし?は22嗷?さい?で
書?いま??わたしの晩云囂?にほんご?はただ兜?はじ?めてなので、酒??かんたん?な晩云囂?にほんご?しか聞?つか?えません。?ima no nihongo wa tada hajimete na no de, kantan na nihongo shika tsukaemasen?。
でも、これから適薦?どりょく?に茶膿?べんきょう?するつもりです?demo, korekara doryoku ni benkyo-suru tsumori desu?。
そして、わたしの茶膿薦?べんきょうりょく?と癖丞?Γ┐討④?Δ蠅腓???殖┐弔茖?ぁ△修Δいψ墅釘┐犬靴鵤??孱┐癸?辰討襪?蕁■бoshite, watashi no benkyo-ryoku to tekio-ryoku ga tsuyoi, so-iu jishin ga motteru kara?。
これからお弊三?せわ?になって、どうぞよろしくお垳?ねが?いします。?korekara osewa ni natte, do-zo yoroshiku onegaishimasu?。
暴?わたし?の來鯉?せいかく?は苧?あか?るくて繁?ひと?との俊乾?せっしょく?がうまいです。夭販湖?せきにんかん?が膿?つよ?くて、この碧並?しごと?に??む?いていると房?おも?っています。
徭蛍?じぶん?が桐?きた?えの嶄?なか?で貧序?じょうしん?し、碧並?しごと?のほうもよくできるようがんばります。
第四篇:日語日記初級
2015年3月26日
木曜日
晴れ わたしは 一年間らい 日本語を 勉強しました。しかし、まだ あまり できません?今日は 日本語で 日記を書きます。少し 簡単な文法が 分かりましたが 上手ではありません。
毎朝 6時40分に 起きて、顔を洗います。いつも 7時20分頃 出ます。食堂で 朝ご飯を食べます。そのあと、教室で 本を読んで宿題をします。それから 授業(yè)を受けます
晝 半時間をかけて ご飯を食べた 後 2時間 休みます。午後 また 授業(yè)があります英語の文法が 嫌いですが 毎週 勉強しなければなりません。休みの日、私も授業(yè)を受けます楽しくないです。
夜 図書館で 勉強しに 行きません。よく 寢室で 宿題をします。大學院生に なりたいです。でも、難しいです。今、まだまだですから わたしは もっと頑張ります。
趣味は アニメを見ることです。ときどき 小説を読みます。よく 2時間くらいかかります。音楽も好きです。毎晩、寢る前に 音楽を聞きます。
いつも どこかへ 行きたいです。しかし どこへも 行著ませんでした。時間も お金も ありませんから。いつか 日本へ 行きます。日本で 日本のおいしい食べ物が ぜひ 食べたいです。アニメが 好きですから 秋葉原に 行きたいです。
毎日、頑張ります。
第五篇:初級日語作文
我的大學生活
種類によっての熱心な出現(xiàn)は時間に素晴しい教授で教師、思考の列車に近く學友と坐るために、歩行者がすべて妨げたそれらを座席のための一見引き出す教科書を、終日大學生命始めてしまった道の歩行者のプロローグを次第にであるずっとクラスに出席した多數(shù)、壊したキャンパスの靜けさを、すぐに、雑談していた最后の夜スポーツが一致する教室の教室の方に動かされて非常に速く浸るある恐れられていた軽いステップを置くことを可能にしたこと、ちょうど照らされた私の大學生命天候が何人かの人々陰の外國語を読むキャンパスで見る教師と上向きに飛んで、表面の古い教授は時間后に學校からの休暇に青年輝きの午后をある最も忘れられない渡している、これは行くために自分自身が割り當てる時間、割り當てられたアクセス網(wǎng)、一緒に、そしてまたそう食事した任命同時にだった各種類の活動が行なった元気づけた學生のサッカー競技場のグループの文學様式ホールからの音、送信された時間蹴る球をだったが、また何人かの何人かの若いメス學生はだったこの2 年に、住むために燃料を補給された叫ぶこと......意識不明に2 年の大學渡されて実際によかったそして、成長した育つ、自身の夢に日刊新聞の私達がすべて次第に先に行ってもいかにが生命の悪い狀態(tài)にすべてある
我的大學生活
天色剛亮,就可以看到校園里有人在樹陰中讀外語了,那種專注的樣子,讓行人都放輕了步子,怕打擾了他們.找個座位坐下來,掏出課本,一天的大學生活拉開了序幕.漸漸路上的行人多了,打破了校園的寧靜,快到上課的時間了,和同學邊聊著昨晚的球賽,邊走向教室.課堂上很快就沉浸到老師精彩的講課中去,思緒跟著老師在飛揚,年邁的教授臉上透著青春的光彩.下午放學后的時光是最難忘的,這是自己可以分配的時間了,可以去上網(wǎng),約會,聚餐,等等,同時也是各種活動舉辦的時間,從文體館傳來喝彩的聲音,足球場上一群學生在踢球,還有幾個小女生在喊著加油......不知不覺度過了兩年的大學生活了,這兩年中真的是酸甜苦辣都有.不管怎么樣,我們都在一天天的長大,成熟,一步一步向著自己的夢想前進著.「私の友達」
私は積極的な性格ですから、友達がたくさんいます。しかし一番仲が良いのは你來我網(wǎng)さんという友だちです。彼女と初めて會ったのは、高校生になった時です。你來我網(wǎng)さんは私は反対に、女らしく優(yōu)しくて、すなおです。私と同じ年ですが、いつも私の悩みを聞いてくれて、私には本當のお姉さんのような人です。私が寂しい時や困ってにる時は、いつでも力になってくれました。
你來我網(wǎng)さんは、今、ゲザイナーになって有名な洋服の會社につとめ、毎日いそがしいようです。私が日本へ來ているので會えませんが、暇があれば手紙を書き、電話も時時かけています。これからもずっと仲良くしていきたいと思ってにます。
「私の夢」
(日本人は理想よりも、夢と言う言葉を使っていると思いますので。)
私はまだ子供のころ、空を見上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを見て、心が愈されるような気がします。
ですから、私はそのとき、「將來パイロットになりたい」と心で決めました。飛行機にのって、鳥のように、空を、云の間を縫いでいくことを、すばらしく思っていました。頭が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。
まだちっちゃいので、パイロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パイロットはみんな2.0以上の視力がなければならないと聞いて、近視眼である私はただ、空しく嘆くしか、しようがありませんでした。
高校に入って、私はサッカーに興味を持ち始めました。サッカー選手たちが、競い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同時に、新たな夢が私の心に芽生えました。それは、「中國一のゴールキーパーになって、中國チームを世界の頂點に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身長が必要です。1.80ちょうどの私には、中國一は無理だったのかもしれません。大學に入って、身長がほぼ固定された私の新たな夢は、無殘にも破られてしまいました。
日語
大學では、日本語を専攻しました。正直、初めの頃は、夢なんて、まだ見つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の夢とか、意志とか、ありませんでした。勉強していく中で、ちょっとした問題に気づきました。それは、必死に勉強している人ほど、成績が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。殘念なことに、彼らは勉強の仕組み、つまり勉強の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の學習を繰り返しているです。そこで、私は「將來日本語の教師になって、知識だけではなく、勉強の仕組みを、御紹介させていただきたい」という、夢を持つようになり、そして今までに至っています
我的家鄉(xiāng)
私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中國の中では、最も都會らしい都會です。上海には名所名跡が少ないが、中國最大の商業(yè)、工業(yè)、港灣地帯として特徴づけられている。
今、上海の人口がもうすでに1250萬人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革開放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに驚き、上海の一員として、夸りと喜ぴを持っている。
上海は長江の南側、支流の黃浦江の西側に拓かれた街だ。今世紀の初めに黃浦江西側のバンドと呼ばれる地區(qū)は、港灣設備が整備され、その周辺に各國の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽園」と呼ぱれ、このバンドは國內だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず訪れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ風格を持ち、「萬國の建筑物」と言われる。
バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。東京の銀座よ
り人がいっぱいで賑やかである。南京路にある第一百貨店は毎日20萬人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30萬人を超えるほどだ。(你我 日語)さらに、夜のバンドと南京路はまた格別だ。ネオンサインがまぷしいほど輝き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と絕賛している。
誰にも故郷がある。故郷を離れれぱ離れるほど故郷が戀しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回數(shù)が増えれぱ増えるほど戀しくなる私の大好きな上海である。
「自己紹介」
私は中國から來た「ぼくのゆめ」です。今島根にある寮に住んでいます。外國人は私一人です。ですから、はじめのころは、言葉や食事のことなどでとても苦労【くろう】しました。お風呂に入る時も恥ずかしくて嫌でした。
でも、今はもうすっかり寮の生活にも慣れて、みんなと仲良くなりました。私は料理が得意なので、休みの日は、寮の友だちにごちそうします。すると、みんなとてもよろこんでくれます。私は好奇心が強くいろいろなことを體験してみたいと、いつも思っています。それで、以前から趣味のあった日本へ來たのです。
今熱中していることは生け花です。次は、お茶をやってみたいと思っています。にほんへ來る前は、病院に勤めていました。日本語の勉強が終わって帰國したら、日本語や日本で學んだことをどんどん仕事に生かしたいと思っています。
星期日(にちようび)
昨日は日曜日で、とてもいい天気でした。あんなにすばらしい天気はほんとにめずらしいです。留學生の田中さんは日本語科の趙さんと一緒に自転車で淮海路(わいかいろ)行きました。そして、淮海路のショッピングセンターで買い物をしました。趙さんは文房具や食べ物を買いました。買い物のあと、二人はレストランへ行きました。そこで、二人で食事をしました。それから、田中さんと趙さんは公園へ行きました。そこで三十分ぐらい散歩しました。そのあと、二人は映畫館でとてもおもしろい映畫を見ました。
譯文: 星期日
昨天是星期日,天氣非常好。那么好的天氣真是非常少見。留學生田中和日語系的小趙一起騎自行車去了淮海路。然后在淮海路的購物中心買了東西。小趙買了文具和食物。購物之后,兩個人去了餐廳。在那里,兩人吃了飯。然后,田中和小趙去了公園。在那里大概散步了三十分鐘。之后兩人又在電影院看了非常有趣的電影。
人生
私は一本の長い階段を設ける。一年三百六十五日たつと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。
下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結び付けられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけ
ない。しかし、なんといっても、この英児二人が際立って溌剌としている。聲から何十段でも階段をのぼって行くエネルギ―を、その小さい體に詰め込み、いかなることでも、実現(xiàn)できる可能性を身內に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄譽も、金も無関係である。時時笑うが、神様が笑うことの練習をさせているとしか思わない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この英児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の英児が私の腰をかけているところまでのぼるのは大変である。英児のいる二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四段目あたりにかけてばら撒かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壯年期に入ろうとしている。當然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験しているところであろうと思う。私は殘念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親がくるしんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理していかねばならぬものが、人生というものであろうからである。
「私の一日」
私は毎朝6時半に起きます。そしてラジオの中國語の勉強を始めます。中國語の発音は大変難しいです。7時半ごろ朝ご飯を食べます。
私の家は郊外にあります。會社は町のまん中にあります。家から駅まで10分あまり歩きます。そして電車で會社へ行きます。家から會社まで55分かかります。電車はいつもたいへんこみます。會社は9時に始まります。仕事はたいてい6時に終わります。
どきどき駅からタクシーで帰ります。3分ぐらいです。170円かかります。私の會社は旅行會社にいます。支店は全國に八か所あります。仕事はたいへんおもしろいです。私はよく出張します。來週は九州へ行きます。しかし、出張はとても疲れます。日曜日はほんとんどの會社は休みます。しかし、わたしの會社はめったに休みません。社員は交替で休みます。休みの日は一か月に4回とどです。その日は晝ごろに起きます。あまり外出しません。家でゆっくり小説を読みます。夜はビールを少し読みます。そしてステレオで音楽を聞きます。ときどきテレビも見ます。
私の家族(我的家庭)私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。父、母とかわいい私です。
父は見るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 時々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。
私は 幸せな家庭があって 未來 両親は私に対して 最重要な人です。
私は父と母を愛しています。
夢を葉える―今考えている『夢』と『現(xiàn)実』について―
『私は將來、なりたものはあるのか』そんなことを尋ねられて『うん、あるよ』と平然と答えられるような夢を、正直言うと私は持ってはいない。夢を持っていたとしても、きっと家族や身近にいる人間にも影響、迷惑、負擔をかけてしまう可能性があるからである。おそらく、という私が推測する上では、夢のことを打ち明けたとしても家族は反対するだろう。
その夢のひとつが、『小説家』。
このメビウスリングというサイトでも、私は小説を連載している。正直言うと文章構成などはかなり得意分野でもあるし、その勉強にはかなり力を入れている。自分が今、何よりもなりたい職業(yè)――夢。
だがそれを現(xiàn)実的に考えてみると、小説家という職業(yè)は売れて生活できるものである。普通のサラリーマンとは訳が違う。本業(yè)としても売れなければ、必ず家族のほうに私の生活費を負擔させてしまうだろう。私の家族は七人。祖母と祖父、両親に二人の姉がいる。將來のことを考えてみれば、きっと姉は二人ともどこかで一人暮らしたり、新たな家族を持つことになるだろう。そうなれば、何よりも両親に負擔がかかるのだ。
それが、怖かった。
今までずっとわがままを聞いてくれていた両親に、大人になってまでも負擔をかけるなど…。
だが私はずっと、この夢をあきらめたことはない。