第一篇:中日兩國地震救災(zāi)對比
2008年5月12日,中國四川發(fā)生8.2級汶川大地震。遇難69142人,失蹤17551人,地震實際造成8.6萬多人死亡。-
2011年3月11日,日本本州島宮城縣發(fā)生9.0級地震。根據(jù)目前估計,地震至少造成1.2萬人以上死亡。是近千年來,日本境內(nèi)發(fā)生的最嚴重地震。-
中日兩國,一衣帶水,同屬東亞,文化相似。甚至文字都有30%是相同的。千年來,特別是近百年來,兩國發(fā)生了許多理不情的糾葛……-
巧合的是,中日兩國發(fā)生的地震時間竟然也是相同的。汶川地震發(fā)生的時間(2008年5月12日),與日本宮城地震發(fā)生的時間(2011年3月11日),兩個數(shù)字相加都是等于2025。即: 2008+5+12=2025;2011+3+11=2025。如果我們用數(shù)字游戲的方式來詮釋兩國地震的話,則是“汶川地震”與“宮城地震”的數(shù)值是相等的。當然,這純粹是一種巧合。但有一點不是巧合,那就是地震發(fā)生后,兩國對于抗震救災(zāi)的做法,有許多可比性。
根據(jù)幾天來的觀察,敝人以為,中日兩國在抗震救災(zāi)中,各有所長,各有所短。簡單來講,就是:中國政府抗震救災(zāi)的能力、效率、成效優(yōu)于日本政府;中國的民間社會抗震救災(zāi)的能力、心態(tài)、秩序弱于日本的民間社會。-
下面重點談?wù)勚腥諆蓢拐鹁葹?zāi)能力對比分析。-
2008年的汶川地震發(fā)生后,中國政府應(yīng)對災(zāi)情,呈現(xiàn)了高速、高效,運轉(zhuǎn)協(xié)調(diào)的應(yīng)對機制。對災(zāi)情判斷及時,處置有力,行動迅速,上下齊心,效果非常明顯。三天之內(nèi),即迅速平穩(wěn)整個災(zāi)區(qū)的混亂社會秩序。-
2011年日本宮城地震發(fā)生后,由于日本國民素質(zhì)高,民間社會比較成熟,災(zāi)情發(fā)生后,災(zāi)區(qū)社會秩序良好,沒有擁擠,哄抬物價等情況發(fā)生,災(zāi)民情緒比較穩(wěn)定。然而,由于日本政府抗震救災(zāi)指揮調(diào)度不力,行動不果斷、出手不迅速,猶猶豫豫,畏畏縮縮,首鼠蛇端,未及及時調(diào)譴大量人力、物力撲滅災(zāi)情,致使災(zāi)情在三天后迅速擴大,并發(fā)生了不可逆轉(zhuǎn)的災(zāi)難性后果:核電站爆炸、核泄漏、核輻射……壞消息一樁接一樁,接踵而至。
躲過地震、海嘯、火災(zāi)的日本災(zāi)民,在三天后,仍然缺水、缺糧、缺衣,日本的公路并未受到嚴重損毀,而奇怪的是,救災(zāi)物資卻運不進去……
可以對比的是,2008年,中國汶川地震發(fā)生后,政府立即調(diào)集大型機械不惜一切代價,挖山開路,填壑搭橋,在損毀極其嚴重的叢山峻嶺中,開辟出了抗震救災(zāi)的生命線。相比之下,日本政府的救災(zāi)是懶洋洋,根本沒有什么氣勢。觀者多,動者少。政府效率低下,協(xié)調(diào)能力也很差,指揮調(diào)度也不太靈,好象主要是靠自覺,而不是行政命令。-
3月12日,核電站發(fā)生冷卻劑失靈后,其實是重大災(zāi)難前奏,奇怪的是日本政府處置相當猶豫,先是拒絕美國答應(yīng)幫助運送冷卻劑,政府卻也不組織強有力的核電站事故搶險隊,害怕承擔責(zé)任,聽憑、放心地讓核電站公司獨立去去處理這場世紀劫難…… 所作所為,不可想象。象這種緊急情況,中國一定是出動軍隊,組成十萬火急的搶險隊,趕赴災(zāi)區(qū),及時除險,撲滅災(zāi)情,防止災(zāi)情進一步擴大!中國是絕不可能讓核電站發(fā)生爆炸泄漏事故的!-
險情處置得早,后續(xù)麻煩就會少許多。
但是,3月14日,福島核電站發(fā)生爆炸,重大危機爆發(fā)后,日本政府仍然沒有派軍隊前往處置,也沒有由政府協(xié)調(diào)組成搶險隊,舉一國之力,撲來險情,而是仍然由電力公司組織員工進行除險救災(zāi)。實在不可思議!
在最初處置核電站爆炸事故中,日本政府和首相基本好象是沒有什么作為。聽到核電站第二次爆炸,核電站公司為策安全,撤回大部分員工后,日本首相菅直人所做的事,竟然是暴哮一頓:“你們竟然敢全部撤了下來,你們的這樣的公司活該100%倒閉!”
都什么時候了,如此人命關(guān)天的天大之事,事涉全日本、全世界人民生命安危的大事,首相竟然如此搪塞責(zé)任,要一家電力公司獨立去承擔,如此嚴重的事故、責(zé)任和災(zāi)情,它一家小小的核電站公司應(yīng)對得了嗎?真是狗屁邏輯!-
面對如此艱難危局,政府要做的,不應(yīng)是去斥責(zé)心力交瘁的核電站公司,而應(yīng)是立即由政府牽頭,組成強有力的搶險隊,舉全國之力,調(diào)集人力、物力,立即抗災(zāi)撲險,把事故所帶來的危險控制在最小的范圍。
日本首相去斥責(zé)勢單力薄的核電站公司,叫他們?nèi)?yīng)對天塌下來一般的災(zāi)難?他們應(yīng)對得了嗎?日本政府抗震救災(zāi)嚴重失職!日本首相把最寶貴的搶險黃金時間錯失了!-
記得2008年5月12日下午2時32分地震發(fā)生后,溫家寶總理得到消息后,立即從中南海啟程,乘車趕往機場,乘專機飛往四川,指揮抗震救災(zāi)。他是一邊走在路上,一邊吩咐手下,通知國務(wù)院各部委立即入川,各司其職,組成抗震救災(zāi)搶險隊。
我依然記得,2008年5月12日和13日的電視新聞,當時,溫家寶總理走得很急,沒有帶厚衣服,只穿了一件西裝加薄白衫。他當晚就到達都江堰,看望了一所小學(xué)的受災(zāi)學(xué)生。他當晚在嘉凌江的江邊,設(shè)國務(wù)院抗震救災(zāi)指揮部,現(xiàn)場辦公,現(xiàn)場指揮。當時,夜深了,旁邊嘩嘩的河水聲都聽得到,溫總理因為穿衣少,冷得他有些打顫,后來不知是哪位民警給了他一件警服棉衣穿在身上,讓他遮風(fēng)擋寒。溫總理是穿著警服棉襖,四川度過了指揮抗震救災(zāi)的第一個極其重要的難眠之夜。-估計也是總理第一次穿警服吧。
溫總理從中南海出發(fā)飛四川的時候,有中央臺電視記者陪同前往。溫總理在飛機上接受了采訪,總理是將講話簡單地寫在一張紙上,偶爾看看,肯定是飛機上臨時寫的。我清楚記得總理當時講過的最關(guān)鍵、最重要的話:“當前,最重要的是要冷靜、鎮(zhèn)定、信心以及強有力的指揮!”
溫總理在飛往四川的空中,其實并不知道災(zāi)情有多嚴重。他只是聽到7.8級地震發(fā)生(后修正為8.0級),立即判明重大災(zāi)情,然后二話不說,立即趕赴災(zāi)區(qū)的。事后證明,總理對災(zāi)情的判斷多么及時、準確。溫總理此舉,挽救了多少災(zāi)區(qū)人民的生命!
中國政府的領(lǐng)導(dǎo)人,就這樣身先士率,高速、高效,勇敢、果斷地在第一時間趕赴災(zāi)區(qū)最前線,及時領(lǐng)導(dǎo)抗震救災(zāi),為汶川地震的抗震救災(zāi),贏得了最寶貴的時間!
溫總理對突發(fā)事件的處置,方法非常到位,那就是:冷靜、鎮(zhèn)定、信心以及強有力的指揮!后來的抗震救災(zāi),都基本遵循這一原則進行,特別是強有力的指揮。-中國政府對汶川地震的抗震救災(zāi),實現(xiàn)了強有力的指揮!
汶川地震發(fā)生后,中國政府在三天內(nèi),調(diào)集了10萬軍隊入川。其中,有8萬解放軍正規(guī)武裝部隊,2萬公安和武警人員,加上政府組成的救災(zāi)人員、志愿者等,直接參加救災(zāi)的人數(shù)至少50萬人以上。
當時,災(zāi)情發(fā)生后,中國的電視新聞實行24小時滾動播出救災(zāi)畫面,那些催人淚下的畫面,觸及了國人的情感,全國迅速掀起了支援災(zāi)區(qū)的高潮。民間的救災(zāi)物資、救災(zāi)人員源源不斷地往災(zāi)區(qū)輸送。
地震發(fā)生后,在三天,基本緩解了缺衣、缺糧、缺水的困難;五天后,基本確保生活的基本所需,有飯吃、有水喝、有地方睡覺。震后第七天,建起了“抗震救災(zāi)帳篷小學(xué)”。這是“抗震小學(xué)”的誕生,極大地振奮了全國人民的人心,迅速平穩(wěn)了災(zāi)區(qū)的秩序和人心。
以上這一些,中國政府所能夠做的,我沒有在日本政府中看到。-今天是日本地震進入第6天,我所看到的情景是,日本的地震災(zāi)區(qū)不僅沒有得到緩解,而且災(zāi)情在擴大!
日本政府的救災(zāi)能力效率低下,其災(zāi)區(qū)沒有發(fā)生大規(guī)模騷亂,得益于國民素質(zhì)好,平時守秩序。但是,如果災(zāi)區(qū)的情況在未來幾天內(nèi)沒有得到緩解的話,難保日本社會秩序是否會大亂,種種跡象顯示,日本發(fā)生騷亂,也不是不可能。-
最后,談?wù)勅毡臼紫唷N覍θ毡臼紫噍阎比说木葹?zāi)行為感到失望。我當然相信,日本各級政府官員、公務(wù)人員都在努力救災(zāi),他們的確很辛苦,夜以繼日,沒有休息。就日本政府而言,日本首相這樣去救災(zāi),是不行的。日本首相,好象是中國新聞發(fā)言人的角色。呆在東京首相官邸,時不時發(fā)一個新聞消息,這樣的事,不要首相去做呀,新聞發(fā)言可以交給部下去做,自己埋頭去指揮、協(xié)調(diào),去組織人力、物力抗災(zāi)救險呀!遺憾的事,日本首相對當新聞發(fā)言人很感興趣,對救災(zāi)的事,猶猶豫豫,畏畏縮縮,根本不象一個國家的領(lǐng)導(dǎo)人。-
另外,日本自衛(wèi)隊的表現(xiàn)也太讓人失望了。人們對日本自衛(wèi)隊(軍隊)的印象仍然停留在二戰(zhàn)時的水平,以為今日的日本軍人仍然會象二戰(zhàn)時一樣,勇猛頑強,服從命令,時刻有一種敢死之心?,F(xiàn)在看來,今日的日本自隊軍人,遠不是那么一回事了。他們接到首相命令,要求他們用直升機吊海水澆核電站以降溫后,竟然以核輻射太強、太高,生命健康受到威脅為由,拒絕執(zhí)行首相的命令。軍隊以保衛(wèi)人民為天職,竟然抗國家最高領(lǐng)導(dǎo)人的命,真是聞所未聞。
日本衛(wèi)隊竟然好意思袖手旁觀,單靠核電站留守的50名工人進行施救。這一幕,不僅日本在看,而且全世界在看!
日本福島核電站爆炸,不僅危及數(shù)百萬、上千萬日本人民的生命安危,而且影響全世界人民的健康,在國家遭受如此重大危機的面前,在最需要軍人前往救災(zāi)除險的時候,日本軍人竟然以堂而皇之的理由逃之夭夭,實在難于理喻,可憐、可嘆、可悲!-
日本自衛(wèi)隊在其他地方的救災(zāi),也是懶洋洋的,沒有什么氣勢和規(guī)模。我看到他們,更多的是處置遺體,而沒有什么象模象樣的救災(zāi)行為。日本此次調(diào)了10萬軍人前往救災(zāi),人數(shù)同中國當年的10萬軍人救災(zāi)一樣多,但是,救災(zāi)效果卻相差十萬八千里,完全不在一個水平之上。-
在抗震救災(zāi)中,日本的輿論不感謝政府,認為是政府的天然職責(zé),不值得感謝。這其實是不對的。是政府天職這沒有錯,但是,政府也是人,需要輿論的支持、鼓勵、激勵,如果媒體和輿論只盯著政府人員的責(zé)任,那么政府人員就會人人怕事,怕?lián)?zé),而畏畏縮縮,沒有人會猛打猛沖,什么都不敢作主,只好不斷向上請示,生怕承擔責(zé)任,就就沒有效率。日本首相可能就是怕承擔職責(zé),怕被人罵,所以行動很猶豫。國家最高領(lǐng)導(dǎo)人都這樣了,那么,下面的行動就可想而知了。中國有一句話,上梁不正下梁歪,中梁不正倒下來。日本政府的情形讓人嘆息。
救人,是最大的恩。被人救出來,獲得新生命,表示感謝是最起碼的人性,感謝政府,感謝救命恩人,沒有錯呢。日本媒體鼓吹不用感恩是錯誤的。
如果自己冒險救了人,不能獲得感恩,那么,誰會去救人了。且不要說有沒有利益,連一句好話都得不到,會有人積極去救人嗎?所以,日本媒體是失職的。
日本媒體的眼光只注重于傳播信息,沒有注重挖掘人性閃光的東西。這是中日媒體的差異。顯然,在抗震救災(zāi)中,日本媒體遜色于中國媒體。2008年中國抗震救災(zāi)時,中國媒體做得非常好,他們的報道極其感人,激發(fā)了全國人民團結(jié)一心、共同應(yīng)對國難。在這一點上,日本媒體要向中國媒體好好學(xué)習(xí)。-
在日本宮城地震發(fā)生后,日本成熟的公民社會,民間很有秩序,應(yīng)對災(zāi)難淡定、從容、不慌張,社會和人民團結(jié)、守紀,讓人很是欽佩。這一點,是值得中國人民學(xué)習(xí)的。
第二篇:日語論文——中日兩國飲食文化對比
目 次 要
旨...................................................................................................................................1 キーワード........................................................................................................................1 はじめに.............................................................................................................................2 1 日中飲食観の対比................................................................................................2 1.1 飲食観の形成...............................................................................................2 1.2 各飲食観が形成した原因....................................................................3 1.3 結(jié)論....................................................................................................................4 2 飲食観の中に含む「物」................................................................................4 おわりに.............................................................................................................................5 參考文獻.........................................................................................................................6 要 旨飲食観は人類と共に產(chǎn)生したものでなく。それは生產(chǎn)能力が飛躍的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると產(chǎn)生したのである。本論文は日中両國の飲食文化の中に含む飲食観を?qū)澅趣工毪膜猡辘韦扦ⅳ?。その形成した原因を分析する。最后に、各國の飲食観の中に含む文化はなんでしょうかも筆者自身の意見を出す。キーワード飲食観生產(chǎn)能力余裕 日中両國の飲食文化対比について 飲食観の比較 はじめに 中國人は飲食を論じる事から飲食を重視するようになったが、基本的な思想部分は日本人と共通しているためやはり飲食に関する飲食観の形成や其の原因を分析するな研究が尐なく、資料?9?9著作も尐ないといった問題がある。本論文はこのような問題點を基づいて研究を行う。1 日中飲食観の対比 1.1 飲食観の形成 飲食観とは人が飲食行為に対する見方であり、見方に対する評価でもある。これには食物飲料器及び調(diào)理法に対するものも含まれている。かつて人類がまだ采集?9?9狩猟?9?9漁労の時代、食べ物を見つけ出すことが非常に困難で、生命維持のために見つけ出し得た物を食べるしかなかった時には、もちろん飲食観など形成することは不可能であった。人類が労働道具を発明、使用后、生產(chǎn)能力が飛躍的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると、様々な生活経験を長い時間かけ次第に味覚も発達し嗜好に合うものを選ぶようになった。こうして食べ物に対して一種の見方が成立していった。嗜好に合うものを選んで采取し、保存するまでになる。嗜好に合わないものは舍て、見向きさえもしなくなる 人類の初期には特別な飲料があったわけではなく、自然の水と水分の多い果実や野生の瓜類があるだけであった。食べ物と同様に生活の過程において優(yōu)劣の順位や取舍選択をしている間に、ある種の飲食観が形成されてきた。人類のこの様な飲料や食物に対する評価が飲食観の形成につながるのである。1.2 各飲食観が形成した原因 日本は中國から多くの文化を受け容れているにもかかわらず、煎尐量の油でじっくりあげる、炒油でいためる烹油でいためた后調(diào)味料を入れて煮る、炸あげる、調(diào)調(diào)味料を配合するといった調(diào)理法と溫かい料理が日本に定著しなかった。なぜ日本は生ものとあっさりした冷たい食物を定著し発展させたのかこのことは今だ徹底的に解明されていない謎である。中國人として、中國人は干した食材料を使うのはよくわかるであろう。この原因を分析させていただく、中國の國土面積が広いである。各種の気候があるとよくわかる。例えば、內(nèi)陸の人民は海產(chǎn)物を食べたいなら、干した、運びやすい魚など最高の選択であろう。また、中國の北方は冬となると隨分寒いである。野菜とか、肉類などの產(chǎn)量はないとも言える。冬に食べる食品は夏に貯まった干したものが大部分である。でも、食べる時は乾燥したものを水に戻した。しかしこれによって鮮度はかなりおちる。鮮度を保ちかつ美味しく感じさせるためには色々な香辛料と調(diào)味料を加え復(fù)雑な加工作業(yè)と時間を費やすことによって初めて味覚と鮮度を保持することができる。この様にして多種多様な香辛料による調(diào)合法や、調(diào)理法煎、炒、烹、炸などの調(diào)理技術(shù)が生まれたのである。中國菜系の主流を分析すると油の使用が大部分を占めている素材を洗う、適度な大きさに切るなどして下処理をして油に通し、さくさくと美味しく、香りよくさせて人々の味覚を濃厚で復(fù)雑な味で満足させる。これが中國大陸菜系の主な特徴である。日本は海に囲まれ四千以上の島々から成り立つ。気候は溫暖で四季がはっきりしていて自然環(huán)境にも恵まれている。その條件の下で獨自の海洋性菜系を発展させることができた。これを受け容れることは大陸菜系を受け容れることよりも、自然である。存在決定の意識は菜系の発展においでも例外ではないつまり風(fēng)土が菜系を醸したのである。日本が海洋性菜系であると考えられるもう一つの原因は、日本が島國の上に資源が乏しいことである。また隣接する國がないために自然環(huán)境による危機感の意識が強く、常に何かの天災(zāi)による滅亡を危懼している?!赣蛿啻髷场工趣いλ淖质煺Zを見てわかるように、油がなくなることは敵に臨むことにつながる中國のように食事毎に油を大量に使うことはできない。常に節(jié)油しできる限り油を使わず料理をつくり生活を営んできた。長い間これが習(xí)慣になり平淡で新鮮な味が日本菜系の主流となっていった。1.3 結(jié)論 日本料理は味よりも形を重視するため日本料理は目で食べる料理とも言われている。これも風(fēng)土によるものである。日本は人口が多く面積が狹い。自然を重視し生活の一部に取り入れることは日本人古來の伝統(tǒng)であるために、膳の料理の中でもそれが如実に表現(xiàn)されている。これはまた、人々の生活を潤す役目も擔っている。一方中國では、広大な面積を持つため例え一部分失ってもどうにか生き延びられると思うためか自然の保護や破壊についての危機意識が薄い。異民族の侵略を防御するために萬里長城を修筑し、人類に偉大なる建筑物を遺したが、反面多くの自然景観を壊し原始森林を伐采した。人々の味覚を満足させるために野生動物の保護もしなかった。健康と長壽によいとされるあらゆるものを中國人は食した。この風(fēng)土が中國今日の獨特な菜系を作り上げたのである。それも大陸の性質(zhì)を十分備えたものである。2 飲食観の中に含む「物」 日本と中國とを比較した場合中國人の方が飲食に重きをおく、中國の昔から、中國人は客に必ず食事を接待する風(fēng)習(xí)があり、そこから人々の交流が生まれた。后にこれは禮儀とされた。中國のある地方では、“知り合い”と“一緒に食事”とは同意語として使われていたこともあるほどだ。だから、食事は中國人にとっては人間関系の円滑油とも言えるのであろう。いまでも「御飯を食べましたか」は挨拶かわりに使われている。それは相手に関心を示す表われである。「禮」のはじめは、これを飲食にはじまるとあるように、禮は飲食生活の中から生まれてきたものである。日本は飲食観においては、はるか中國に及ばない。日本の朝廷、もしくは上層階級は歴史の書物の中で飲食に関して觸れる事はほとんどないと言える。江戸時代になって武士の禁欲思想が后世に大きく影響し特に男子が飲食に対して語るべきではない諺にもあるように「武士は食わねどたかようじ」式の飲食観の伝統(tǒng)がある。日本人は持続性が強いとおもわれる。ある思想概念が定著すると変えることなく守り続ける事が多い。日本人が食べ物に持っていた穢れ観は第二次世界大戦まで続いた。當然、これは日本の自然環(huán)境?9?9政治制度?9?9宗教?9?9民族風(fēng)習(xí)などの影響もある。以上の分析によると中國の飲食観の中に「禮儀」が根ざした?!甘长咸欷扦ⅳ搿工趣いλ枷毪悉悉盲辘梭w現(xiàn)してのであろう。それによって、いろんな禮儀が出るし中華文化の特有の物となった。でも、日本は「武士道」の思想によって「武士は食わねどたかようじ」式の飲食観の伝統(tǒng)があるが、日本の飲食観も體現(xiàn)できるのであろう。おわりに 本論文を通して、両國の飲食観の形成は明らかとなった。これは人類の誕生からの物でなく、豊かな物資生活によって產(chǎn)生したものであるというこたがわかるのであろう。また、両國の飲食観は自己の風(fēng)土と密接した関系があるということも闡明した。最后に各國の飲食観に含む物を?qū)澅趣筏俊¥扦狻⒈菊撐膜喜蛔泓cもある。この飲食観に含む物の歴史淵源は何であるか、まだ研究しなかった。機會があれば、次回の論文に研究したいと思う。參考文獻 1 清水勛著.『日本飲食の歴史』M.日本: 巖波書店 1999.5-940-47.2 ジョンAランド著『.アジア太平洋の飲食観』J.北京中國傳媒大學(xué)出版社2003.23-29 3 中野晴行著.『飲食產(chǎn)業(yè)論』M.北京: 中國傳媒大學(xué)出版 2007.2-9 謝 辭 小論は、研究方法の確定から完成までは、半年間ぐらいかかりました。その間、指導(dǎo)先生から數(shù)え切れないご指導(dǎo)を賜りました。先生は時間を惜しむことなく、論文の構(gòu)成と執(zhí)筆の仕方から、文法などの細かい點まで、親切に教えてくださいまして、心よりお禮申し上げたいです。そして、大學(xué)院での勉強と研究の期間中、擔當先生からも多くの御示唆を賜り、また、同級生である諸君からも、いろいろなご協(xié)力をいただき、心から感謝の意を表したいです。最后に、本稿を読んで、貴重なご指摘をしてくださった論文の審査員の方々にも、感謝の意をあらわせて頂きたいです。
第三篇:中日兩國射箭禮儀
射箭不僅是一項運動,更是一種禮儀,這些你知道嗎?下面跟小編一起去了解一下吧。
中國射箭禮儀
射箭,可謂是中國古代體育項目的鼻祖了。據(jù)考古發(fā)現(xiàn),它在距今2.8萬多年前就已經(jīng)出現(xiàn)了。隨著箭頭從石頭到金屬的發(fā)展,射箭的形式發(fā)生了很多變化,譬如射箭在周代就被列入當時教育的內(nèi)容之一,當時六藝:禮、樂、射、御、書、數(shù),其中射箭就是一項很重要的內(nèi)容。當時,射箭是一種禮儀,射箭活動要喝酒,還要奏樂,這可以說是我國古代歷史上最早的射箭活動了。當時的孔子、荀子以及墨子等等,都是射箭愛好者,不僅自己身體力行,同時也鼓勵學(xué)生射箭。
到了魏晉南北朝時期,射箭出現(xiàn)了專業(yè)的比賽?!段鹤谑页I酵踝駛鳌吩?jīng)記載:當時的北魏孝武帝在洛陽的華林園舉行了一次射箭比賽,他把一個能容兩升的酒杯,懸于百步之外,讓19個運動員進行競射,最后誰把這個酒杯射著了,誰就把這個酒杯據(jù)為己有,這在當時叫獎杯賽。在中國體育史上,這可是最早的一次獎杯賽了。
日本射箭禮儀
如同中國一樣,弓道射箭作為日本古代的民族形式體育,具有豐富的哲學(xué)內(nèi)蘊。它不但要求射手要具有高超的射箭技術(shù),還要求射手在指引下,完成身、心和弓箭三者的高度和諧統(tǒng)一,以表達對高尚品德的追求,對力量美與準確美的向往和享受,最終融化成為對真理的追求和崇拜。
弓道講求高強度的基本功練習(xí),最主要的訓(xùn)練方法是對某一個基本動作千百次的重復(fù)練習(xí),直至矩,精確無誤。通過這種周而復(fù)始練習(xí)方法,不但可以達到提升射手技術(shù)的目的,更重要的是使練習(xí)者通過艱苦的練習(xí)以達到磨煉,逐步領(lǐng)悟到弓道的道。重視禮儀是日本弓道最大的特點之一。這源于之日本武道對和諧與道德的追求,也與日本民族崇尚禮儀的文化傳統(tǒng)有直接關(guān)系。弓道的基本原理是,練習(xí)者為了的高技術(shù)水平,必須首先認真的掌握弓道的各種禮儀,并貫徹于練習(xí)活動之中,乃至于曰常生活之中。只有通過行為上的高度約束與心身的統(tǒng)一,人才可以心平氣靜,進入一種道的狀態(tài)。在這方面,弓道無疑得益于中國古代的射禮,而日本的弓道家們也承認這一點,他們甚至認為,日本弓道在某種程度上乃是中國古代射禮的延續(xù)與本土化。
練習(xí)弓道前的禮儀過程已經(jīng)不像古過去那樣細瑣復(fù)雜,有趨于簡單的傾向。然而,簡單并不等于敷衍了事,更不代表著表演作秀和浮躁化。短短幾分鐘的儀式,仍然要求全神貫注,莊重肅穆,一絲不茍。執(zhí)弓之前,要求射手面向目標,身體直立,聚精會神,以達到神清氣定的狀態(tài)。要求在放射之前必須努力排除心中的雜念,并要認真的思考和明確射箭的目的與意義。在完成上述的精神調(diào)整的階段后,習(xí)射者儀態(tài)自然平靜,動作沉穩(wěn)而節(jié)奏清晰,然后才可以射箭了。
第四篇:中日酒文化對比日語
畢業(yè)設(shè)計
淺談中日酒文化對比
作者
專業(yè) 學(xué)號 指導(dǎo)老師 日期
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
目 錄
摘要 ······························································ 3 要旨 ·············································· 錯誤!未定義書簽。緒論 ·············································· 錯誤!未定義書簽。1中日酒文化背景概況 ························ 錯誤!未定義書簽。
1.1中日酒文化的起源 ············································ 6 1.1.1 中國酒文化的起源············································ 6 1.1.2 日本酒文化的起源············································ 7
1.2中日酒文化社會影響 ········································· 7 1.2.1中國酒文化社會影響 ·········································· 8 1.2.2日本社會酒文化 ············································· 9 2中日酒文化對比 ················································· 9 2.1中日酒的種類和命名 ··········································· 10 2.1.1中國酒的種類和命名 ········································· 10 2.1.2日本酒的種類和命名 ········································· 11 2.2中日酒德酒禮
··············································· 11 2.2.1飲酒方式和禮儀中的酒文化 ··································· 11 2.2.2祭祀中的酒文化 ············································ 12 2.2.3婚俗中的酒文化 ············································ 13 3中日酒文化的異同點 ············································ 13 3.1中日酒文化共同點 ············································ 13 3.2中日酒文化不同點 ············································ 14 結(jié)論 ····························································· 15 謝辭 ····························································· 16 參考文獻 ························································· 17
第 2 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
【摘要】
酒文化無論在哪個國家的民俗中都占有非常重要和特殊的地位。中日兩國是一衣帶水的鄰邦,同屬東方民族。兩國從古代就開始了交流,日本從中國學(xué)習(xí)技術(shù)的同時也吸收了中國文化,在各方方面有相似的生活方式及文化。其中酒文化也出自同一淵源,中國的傳統(tǒng)文化、農(nóng)業(yè)文明和曲酒釀造技術(shù)傳到日本,促進了日本文化及酒業(yè)的發(fā)展。中日兩國的酒文化歷史、酒俗、飲酒態(tài)度和酒德酒禮都大同小異,各有所長,各有所短。中日兩國人民相互交流、相互學(xué)習(xí)和借鑒,在差別中尋求融合,在融合中保存差別,共同創(chuàng)建適合于本國國情和世界酒文化發(fā)展方向的新型酒文化。本文以中日兩國的酒文化為研究對象,進行展開論述。本文首先從中日兩國酒文化的起源,社會影響等方面詳細說明,接著從中日兩國酒文化的多個方面,例如酒的種類和命名,喝法的差異,酒德酒禮等方面,對中日兩國的酒文化進行詳細的分析,最后通過對兩國酒文化的比較,總結(jié)出兩國酒文化的異同點?!娟P(guān)鍵詞】中日;酒文化;交流;發(fā)展;異同點
第 3 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
要旨:
酒文化はどのような國の習(xí)慣においても重要な地位を占める。両國の距離が近く,一衣帶水の國である。兩國は古代からさまざまな交流がはじまり、日本は中國からの技術(shù)を勉強するとともに、中國の文化を吸収し、各方面に似ている生活方式と文化がある。その中の酒文化が同じ根源であり、中國の伝統(tǒng)的な文化、農(nóng)業(yè)文明および醸造技術(shù)は日本につたわり、日本文化と酒造の発展を促進した。中日の酒文化史、飲酒の習(xí)俗、酒に対する態(tài)度と飲酒の禮儀作法は大同小異であり、それぞれの長所と短所がある。中日の國民はお互いに交流し、勉強し、差異の中に共通処を見つけ出しながら、自分の特色を保つ。共同で自國文化と世界酒文化の発展に適する新型酒文化を創(chuàng)ろうとしている。本稿は中日酒文化を研究対象にして検討し、先ずは中日の酒文化の起原、発展、特徴などから説明する。それで、中日酒文化の各方面から、たとえば、酒の種類とか飲む方法の異同とか禮儀などの方面から中日酒文化を詳しく分析する。最後に両國酒文化の比較することを通じて両國の酒文化を総括する。
キーワード: 中日 酒文化 差異 交流 発展 異同
第 4 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
緒論
在中國,酒有著悠久的歷史,古人們曾有無酒不成席,無酒不成禮儀,無酒沒有樂趣這樣的說法。人們用酒來招待朋友,因為酒可以增強氣氛,同時酒也可以暫時消除自己的煩惱。無論是家里過節(jié),人際交往,還是慶祝國家喜事都離不開酒。酒已經(jīng)融入到人們生活的各個方面,甚至對于更多的人來說,酒已經(jīng)成為他們生活中的重要伙伴。酒在我們?nèi)粘I钪衅鹬匾淖饔?,甚至是一種不可取代的作用。酒被譽為“繁榮之水”。
在世界上,酒的種類非常之多,因為各個民族受氣候和風(fēng)土的影響,都有著各自的釀酒方式,自然也就孕育出了與眾不同的酒文化,酒文化可以定義為以酒為中心的一系列物質(zhì),藝術(shù),精神,風(fēng)俗,心理,行為等現(xiàn)象的綜合體。這其中包含了酒的起源,生產(chǎn),流通和消費,而且還涉及到了關(guān)于酒的社會文化,以及相關(guān)的社會問題。
研究酒文化,我們可以了解一個國家的文化特征,而且酒文化本身就是人類文明史中不可或缺的重要一劃。中日兩國一衣帶水,一直以來維持著友好的關(guān)系,彼此之間互相學(xué)習(xí),互通有無,因此兩國的文化和習(xí)慣非常類似,但是兩國在歷史的發(fā)展中還是形成了自己特有的酒文化。
第 5 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
1中日酒文化背景概況
1.1中日酒文化的起源 1.1.1中國酒文化的起源
中國是世界上最早的釀酒國,是三大酒系的發(fā)源地之一。關(guān)于中國酒的起源有著許許多多不同的傳說。但是,最原始的酒是依靠谷類發(fā)霉,并且經(jīng)過長時間的發(fā)酵下形成的。
中國的釀酒技術(shù)可以說是中國酒文化發(fā)展的重要象征。日本著名的釀酒專家坂口謹一郎曾經(jīng)高度評價中國發(fā)明的曲子(將糧食、糠等蒸后繁殖酵母菌而成的發(fā)酵劑)完全可以和中國的四大發(fā)明相提并論。
當然,古書中關(guān)于酒歷史的記載的真實性很難去驗證,俗話說:“耳聽為虛,眼見為實?!标P(guān)于中國的人工釀酒究竟是什么時候開始的?這一問題,我們可以從地下挖掘出來的文物來證實一下。實際上從出土的大量河姆渡文化時期的古老酒杯來看,早在7000多年以前,中國人就開始人工釀酒了。1.1.2日本酒文化的起源
日本,關(guān)于酒的起源和酒的釀造文獻并不多,大多數(shù)日本人認為彌生時代的農(nóng)耕者在九州,京畿等地的釀酒活動是日本酒文化的起源。那個時候,日本用咀嚼法來造酒,在日語中稱之為口齒辦。在《古事記》中有關(guān)于咀嚼酒的記述。在古代的王宮,通常用女人咀嚼過的飯來發(fā)酵造酒。在那個時代,酒只用于祭祀神靈和祖先。人們通過酒來和神靈交流,表達敬意。
到了奈良時代,用曲子釀酒的方法開始普及起來,在宮廷已經(jīng)設(shè)立了專門造酒的部門,釀酒者被稱為“刀自”意為已婚的婦女。之后,因為和中國進行交流。得知中國釀酒的鼻祖叫做杜康。所以日本人把釀酒水平最高的人的稱號由“刀自”改為杜氏?,F(xiàn)在,日本把釀酒工廠的最高技術(shù)指導(dǎo)者稱為杜氏。由此可見,中國和日本兩國酒文化淵源之深。在鐮倉,室町時期,隨著商業(yè)的繁榮,釀酒已經(jīng)不僅限在王宮內(nèi),已經(jīng)擴展到寺院和神社,酒開始作為普通的商品在市場上廣為流通,以京都為中心的都市,開始出現(xiàn)了賣酒的居酒屋,因為居酒屋的出現(xiàn)給愛喝酒的人們提供了喝酒的場所,所以居酒屋非常有人氣。至此以后,酒從高級的祭祀品轉(zhuǎn)變成為人們?nèi)粘I钪械娘嬈贰?/p>
第 6 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
1.2中日酒文化社會影響 1.2.1中國社會酒文化
酒文化是中華民族飲食文化的一個重要組成部分。酒是人類最古老的飲品之一,它的歷史幾乎是與人類文化歷史一起開始的。自從酒出現(xiàn)之后,作為一種物質(zhì)文化,酒的形態(tài)多種多樣,其發(fā)展歷程與經(jīng)濟發(fā)展是同步,而酒又不僅僅是一種飲料,它還具有精神文化價值,作為一種精神文化,它體現(xiàn)在社會政治生活,文學(xué)藝術(shù)乃至人生態(tài)度,審美情趣等諸多方面。從這個意義上講,飲酒不單是為飲酒而飲酒,也是在飲文化。
中國是屹立世界的文明古國,是酒的故鄉(xiāng),在中華民族五千年的歷史長河中,酒文化一直占據(jù)著重要的地位。就是一種特殊的食品,是屬于物質(zhì)的,但又同時溶于人們的精神生活中,酒文化作為一種特殊的文化形式,在傳統(tǒng)的中國文化中,有其獨特的地位。在五千年的文明史中,就已經(jīng)滲透到社會生活中的各個領(lǐng)域。首先來講,中國是一個農(nóng)業(yè)國家,因此所有的政治和經(jīng)濟活動都以農(nóng)業(yè)發(fā)展為立足點。因為中國的酒,多是用糧食釀造而成的。所以酒必須緊緊依附于農(nóng)業(yè),成為農(nóng)業(yè)經(jīng)濟的一部分。糧食生產(chǎn)的好壞直接影響到酒業(yè)的興衰,各個朝代統(tǒng)治者都會根據(jù)糧食的收成情況,通過發(fā)布酒禁或開禁來調(diào)控酒的生產(chǎn)量,從而確保民食,在一些地區(qū),酒業(yè)的繁榮對提高當?shù)氐纳鐣钏揭财鸬搅酥匾饔?,酒與社會經(jīng)濟活動也是密不可分的。
酒,在中文化的歷史長河中,已不僅是一種客觀的物質(zhì)存在,而是一種文化的象征,及酒神精神的象征。
因醉酒而獲取藝術(shù)的自由狀態(tài),這是中國古代的藝術(shù)家擺脫精神束縛獲得藝術(shù)創(chuàng)造力的重要途徑。
“李白一斗詩百篇,長安市上酒家眠,天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙?!蹦纤握卧娙藦堅暾f:“雨后飛花知底數(shù),醉來贏得自由身?!本谱矶蓚魇涝娮鳎@樣的例子在中國詩史中俯拾皆是。
不止詩詞如此,在繪畫和中國的書法中酒神精神也到處可見。眾所周知,鄭板橋的字畫很難得,于是人們拿狗肉和美酒款待他,鄭板橋明知道這是求畫者的把戲,但他還是經(jīng)不住狗肉和美酒的誘惑,只好寫詩自嘲:“看月不妨人去盡,對月只恨酒來
第 7 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
遲。笑他縑素求書輩,又要先生爛醉時?!庇纱丝梢?,酒對中國的藝術(shù)文化產(chǎn)生了重要影響。
在中國,酒有著其他事物不可替代的作用。例如:人們通過喝酒來表達自己的感情,構(gòu)建和維持人際關(guān)系。在世界上,喜歡喝酒的民族多不勝數(shù),但是像中國這樣把酒和民族,文學(xué),風(fēng)俗緊密的結(jié)合起來,并且形成了自己獨特的酒文化,恐怕世界上沒有第二個國家能做到。1.2.2日本社會酒文化
日本是非常重視集團活動的國家,為了保持機體的穩(wěn)定,喝酒成了一種不可或缺的儀式。日本人下班以后,上級和下級會一起喝酒聊天,這樣做不僅可以使上下級關(guān)系融洽,還可以提升整個集體的凝聚力。因此,就可以看做是日本社會的潤滑劑。
在日本全國大約有一半的人喝酒,而且這個數(shù)量還在增加。日本男人非常喜歡喝酒,很多人下班后不會直接回家,而是要到居酒屋喝上一杯。居酒屋是體現(xiàn)日本酒文化特征的產(chǎn)物。雖然日本人把沉默是金當做自己的座右銘,但是遇到麻煩時,還是可以借酒消愁。
從上個世紀60年代以來,日本的酒文化迅速發(fā)展起來。而且一發(fā)不可收拾。一些有名的小說家和文學(xué)家發(fā)明的酒文化名詞被流傳開來。外國的記者和評論家甚至把這一現(xiàn)象稱之為“酒店文學(xué)”。日本酒文化的發(fā)展對維持日本社會的人際關(guān)系,日本經(jīng)濟的快速增長,以及維護日本社會的等級秩序起到了重要的作用。
2中日酒文化對比
2.1中日酒的種類和命名
從中日兩國的酒文化起源來看,兩國不僅釀酒歷史悠久,而且由于釀造方式不不同和多樣,兩國的酒的種類和命名也就名目繁多,因此,從酒的種類和命名也能清楚的反映出中日兩國的酒文化的特色。2.1.1中國酒的種類和命名
中國酒大致上可以分為白酒、老酒、果酒、藥酒和啤酒等五類。
白酒是用糧食和其他含有淀粉的農(nóng)作物為原料,以酒曲為糖化發(fā)酵劑,經(jīng)發(fā)酵蒸餾而成。白酒并非是白顏色的,而是指無色透明的蒸餾酒,特點是質(zhì)地純凈、醇香濃
第 8 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
郁,味感豐富,酒精度在30度以上,刺激性比較強。有名的的白酒有茅臺酒(53度),五糧液(60度),汾酒(50-60度)等。
黃酒因為是釀造酒,所以顏色為接近琥珀的黃色,這便是所謂的老酒,其中尤為有名的是紹興酒(13—18度),黃酒的產(chǎn)地主要在長江以南地區(qū)。
藥酒是以成品酒(大多用白酒)為酒基,配各種中藥材和糖料,經(jīng)過釀造或浸泡制成,具有不同作用的酒品。藥酒可以分成兩大類:一類是滋補酒,它既是一種飲料酒,又有滋補作用,如竹葉青酒,五味子酒,男士專用酒,女士美容酒;另一類是利用酒精提取中藥材中的有效成分,以提高藥物的療效,此種酒是真正的藥酒,大都在中藥店出售。
啤酒是以大麥為原料,啤酒花為香料,經(jīng)過發(fā)芽、糖化、發(fā)酵而制成的一種低酒精含量的原汁酒,通常人們把它看成為一種清涼飲料。其酒精含量在2度~5度之間。中國酒類品種繁多,命名方法各異,但是能清楚的反映出中國的酒文化特色。歸納起來大致有以下十種方法:
⑴以地名或地方特征命名。以一個地名(省、市、縣)來作白酒名稱或以地方名勝
或地方的美麗傳說來命名,如貴州茅臺酒、山西汾酒、瀘州老窖酒、雙溝大曲酒、蘇 酒、皖酒、孔府家酒、杏花村酒、等等。
⑵以生產(chǎn)原料和曲種命名。以生產(chǎn)白酒所用的糧食原料及曲種來命名,如五糧液酒、雙溝大曲酒、瀏陽河小曲酒、高粱酒、滄州薯干白酒、小高粱酒等等。
⑶以生產(chǎn)方式命名。主要是以“坊”、“窖”、“池”等作酒名,讓人感到這酒的年代的悠久,有信任感。如瀘州老窖酒、水井坊酒、千年酒坊酒、國坊老窖酒、月池酒等等。
⑷以詩詞歌賦、歷史故事命名。如蒙古王酒、杏花人家酒、杏花村家酒、大宅門酒等等。
⑸以帝王將相、才子佳人命名。如兩相和酒、曹操酒、宋太祖酒、百年諸葛酒、華佗酒、鐘旭酒、秦始皇酒、君臨天下酒、太白酒、等等。
⑹以佛教道教、仙神鬼怪命名。如老子酒、莊子酒、中國道酒、小糊涂仙酒、酒妖酒、酒鬼酒、酒神酒等等。
第 9 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
⑺以歷史年代命名。如1573酒、1915酒、百年皖酒、六百歲酒、1952晉原酒、清宮酒、千秋汾酒等等。
⑻以時代特征和場所命名。如國藏汾酒、國賓酒、國粹酒、中南海酒、釣魚臺酒、藍色經(jīng)典酒、神舟酒等等。
⑼以動、植物命名。如桂花酒、紅杉樹酒、牡丹酒、真龍酒、熊貓酒、紅駿馬酒等等。
⑽以情感命名。有情、緣等情感,如今世緣酒、情緣酒、同心結(jié)酒、隨緣酒等等;有祝福情感,如金六福酒、好日子酒、紅雙喜酒、等等;有區(qū)域情感,如店小二酒、百年老店酒、宿遷人酒、黑土地酒、劉老根酒、土老帽酒等等;有民俗情感,如藏羚羊酒、王朝奶酒、金駱駝酒、唐古拉酒、等等。
從中國酒的名目繁多的種類和命名的特色來看,中國是歷史悠久的酒文化大國。2.1.2日本酒的種類和命名
日本酒以米為主要原料,利用酒曲和酵母釀造而成,其酒精純度在13度至16度左右。釀酒所用的水的水質(zhì)也是重要的因素,日本各地的純凈水源孕育了日本酒肚特的品質(zhì)。日本白酒以其釀造方式可分為清酒和燒酒兩種。
日本清酒是借鑒中國黃酒的釀造法二發(fā)展起來的日本國酒。日本清酒雖然借鑒了中國黃酒的釀造法,但卻有別于中國的黃酒。該酒色澤呈淡黃色或無色,清亮透明,芳香宜人,口味純正,綿柔爽口,其酸甜苦澀辣諸味協(xié)調(diào),酒精含量在15%以上,含多種氨基酸、維生素,是營養(yǎng)豐富的飲料酒。
日本清酒的制作工藝十分考究,清酒一般可分為最高級的吟釀酒、純米酒和本釀造酒。
吟釀酒使用碾磨留存率在60%以下的白米、米麯、釀造酒精經(jīng)過精心釀制而成的日本酒,其特點是帶有果香和花香,而且口味清純。白米碾磨留存率在50%以下的被稱為“大吟釀酒”。
純米酒以白米、米麯以及水為原料釀制的酒,具有香氣醇和、口味濃郁且潤澤的特點。
本釀造酒以碾磨留存率在70%以下的白米、米麯、釀造酒精以及水為原料釀制的酒,其特點是香味溫和,口感清爽。
第 10 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
日本燒酒制造方法為蒸餾,將原料糖化,發(fā)酵后的液體蒸餾生產(chǎn)的酒類,根據(jù)原料不同有番薯燒酒,麥燒酒,紅糖燒酒,米燒酒等。一些度數(shù)較高的酒如泡盛,也是蒸餾而成的米酒,但與燒酒不同的是,泡盛使用泰國米,由泰式風(fēng)格制作而成,而燒酒使用的是日本米;另外泡盛由黑米曲菌發(fā)酵而成,而燒酒是白米曲菌。
清酒的牌名很多,并且基本都有其特定的來由,在一定程度上顯示出其獨特的日本文化。日本《銘酒事典》中介紹的就有400余種,命名方法各異。有的用一年四季的花木和鳥獸及自然風(fēng)光等命名,如白藤、鶴仙等;有的以地名或名勝定名,如富士、秋田錦等;也有以清酒的原料、釀造方法或酒的口味取名的,如本格辣口,大吟釀、純米酒之類;還有以各類譽詞作酒名的,如福祿壽、國之譽、長者盛等。最常見的日本清酒品牌及其有月桂冠、櫻正宗、大關(guān)、白鷹、白牡丹、松竹梅及秀蘭等。大多數(shù)日本清酒的命名都有其特定的來由和含義,因此顯示出日本獨特的酒文化。如:
菊正宗——菊花在繁花叢中顯自然淳樸,到處可見。人人喜愛的花卉,不求高貴但求人人喜愛。
朝香——酒的清香就好像清晨撲面而來的空氣一樣,怡人愜意。
松竹梅——松、竹、梅,日本庭園自然高貴的植物,此酒就像他們一樣給人和諧自然又不失高貴的感覺。
千壽、萬壽——長壽之人必不可少之意。
上善如水-----感覺就像奔流的水一樣向四面八方流傳。而日本燒酒的命名多以原料命名區(qū)分,如麥燒酒,番薯燒酒等。
日本酒口感多傾向于清淡,并且對于酒的命名也比較素雅,凸顯日本酒文化的特色。
2.2中日酒德酒禮
2.2.1飲酒方式和禮儀中的酒文化
俗話說沒有規(guī)矩不成方圓。飲酒也有飲酒的規(guī)矩。
在中國的宴會上喝酒大體有三個忌諱:
⑴不能按自己的節(jié)奏喝酒
在飲酒的時候,雙方一定要干杯,還要一邊目光交流,一邊喝酒,這是中國式宴會飲酒的基本規(guī)矩。而且,中國人一定要大家一起喝。例如:12個人圍坐在桌子旁,第 11 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
主人會舉起杯子說:“非常歡迎大家的到來,干杯”。在日本所謂的干杯是舉起杯子適量飲酒,但是在中國卻不同,必須將杯中的酒全部喝完才行。在中國最理想的干杯方式就是和所有人干杯,從自己右側(cè)的人開始,一個一個的干杯對飲,盡可能使所有人飲酒的量相同是中國宴會重要的做法。
⑵絕對不可以喝醉
在中國人的宴會上,會因為有許多特殊的情況喝了很多的酒。但失去論什么原因,也不能表現(xiàn)出喝醉酒的樣子。直到宴會結(jié)束必須保持清醒。換言之,即使在桌子上喝得再多,也不能表現(xiàn)出失禮的舉動,這樣的人在中國的社會是被尊重的。
⑶在宴會上必須注意自己的言行
在宴會上一定要注意自己的言語和措辭,尤其在談?wù)撚嘘P(guān)政治方面問題的時候,更要如此注意。中國人不能很放松的喝酒,因為在中國人看來,宴會不是娛樂的場所,而是向人們展現(xiàn)個人素養(yǎng)的地方。除此之外,宴會對于中國人來說有著重要的意義。第一:在宴會上可以分辨出哪些人值得結(jié)交哪些人不值得結(jié)交;第二:宴會上可以結(jié)交一些新的朋友。
而在日本,喝酒的氣氛會比較輕松。日本人在宴會剛開始時會干杯,之后自己隨意飲酒。對于無論喝多少酒都不醉的人被認為不實在,關(guān)系處的不到位,而帶有醉態(tài)的人會給人一種信賴的感覺。日本人在飲酒后對自己的言行會有適度的調(diào)整,到了宴會后半段會變的非常自由。人們交換座位后,可以無視等級觀念。及時和上級開玩笑也無妨。日本的宴會只是為了喝酒,消遣,并沒有像中國宴會這樣的復(fù)雜的關(guān)系。2.2.2祭祀中的酒文化
在日本,傳統(tǒng)祭祀是為了供拜神靈而舉行的某種儀式,日本祭祀各式各樣,作為一個祭祀大國,日本的傳統(tǒng)祭祀已經(jīng)成為日本一種非常重要的無形的文化遺產(chǎn)。一年中每一個月份都有各式各樣的祭祀活動在全國各地舉行。男女老少載歌載舞十分熱鬧。有天皇參與的祭祀活動要使用特定的酒,其余祭祀活動的酒都是市民和政府部門提供的。在日本祭祀活動一結(jié)束,大家就一起喝供奉神靈的酒,吃供奉的食物。這就是所謂的“神人共食”。捧起酒杯喝酒向神靈和祖先祈禱來滿足自己的愿望,這樣可以營造出人們團結(jié)的氣氛。
第 12 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
而在中國,我國各民族普遍都有用酒祭祀祖先,在喪葬時用酒舉行一些儀式的習(xí)俗。人死后,親朋好友都要來吊祭死者,漢族的習(xí)俗試吃齋飯,這就是葬禮期間舉辦的酒席。雖然都是吃素,但酒還是必不可少。云南怒江地區(qū)的怒族,村中若有人病亡,各戶帶酒前來吊喪,巫師灌酒于死者嘴內(nèi),眾人各飲一杯酒,稱此為“離別酒”。古代的習(xí)俗還有在墓穴內(nèi)放入酒,為的是死者在陰間也能享受到人間飲酒的樂趣。漢族人在清明節(jié)為死者上墳,必帶酒肉。在祖先的靈象前,還要插上蠟燭,放一杯酒,若干碟菜,以表達對死者的哀思和敬意。2.2.3婚俗中的酒文化
在中日兩國的婚俗中,酒起著重要的作用。無論在訂婚的時候,還是接受定親的時候都少不了酒。
在中國,“喜酒”往往是婚禮的代名詞,置辦喜酒即承辦婚事,去喝喜酒,也就是參加婚禮,由此可以看出酒在中國婚俗中扮演著非常重要的角色。
南方的“女兒酒”,南方人生下女兒數(shù)歲,便開始釀酒,釀成酒后埋葬于池塘底部,帶女兒出嫁之時才取出供賓客引用,承載了濃濃的祝福與愛意。此外還有我們熟知的一些風(fēng)俗,如交杯酒,接風(fēng)酒,出門酒,定親儀式時的會親酒,回門酒等。均表現(xiàn)出酒在我國傳統(tǒng)婚俗中的重要地位。
日本在婚禮上,新婚夫婦也要喝交杯酒,這是神前式婚禮中最為重要的一個程序。在日本有“三三九”制度。(用三個大杯,分別代表著天,地,人?!叭贝碇年枖?shù),“九”則代表著最高的數(shù)字。這兩個數(shù)字都意味著好事情到了無以復(fù)加的程度。)新郎和新娘在婚宴上,用三只酒杯互相交換,每只就被交換三次,一共九次。這種飲酒習(xí)慣,作為訂婚儀式一直被日本人沿用至今。
3中日兩國酒文化的異同點
3.1中日酒文化的共同點
通過以上對比論述我們可以看到
日本與中國一衣帶水,兩國從古代就開始進行交流,兩國人民都喜歡喝酒,關(guān)于酒的文章很多,例如中國的三國時代有曹操的《短歌行》,日本的《萬葉集》中上億良寫的著名的《貧躬問答歌》都講述飲酒抒懷的故事。
第 13 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
在酒的種類和命名上,中日兩國的國酒都是以米作為原料以酒曲發(fā)酵而釀制成的。且色澤清亮透明,芳香宜人,口感獨特。且兩國都有果酒,都有按地名來命名酒名的習(xí)慣,并且酒的命名都帶有各自特色文化的印記。
在飲酒方式和禮儀中,飲酒是可以作為釋放壓力的一個方式,并在兩國社會關(guān)系中都起到了潤滑劑的作用。
酒在祭祀中的作用是明顯的,中日兩國都用酒來祭祀,酒是人與神之間的橋梁,是奉獻給神的物品,并能表達出我們的喜怒哀樂。
酒在中日兩國婚俗中,代表著祝福,喜慶,扮演著非常重要的角色。
中日兩國人民都將自己的生活、喜怒哀樂與酒聯(lián)系起來,形成了自己獨特的酒文化。
除此之外,中日兩國在烹調(diào)的時候也經(jīng)常會使用酒來調(diào)味,中國使用黃酒,日本使用甜料酒。
3.2中日酒文化的不同點
在中國,以白酒為“國酒”,酒精度數(shù)相對于日本的清酒比較高,口感綿柔卻辛辣。日本的清酒分為甜味和辣味,酒精度數(shù)一般都比中國的白酒低,口感也比較清淡可口,所以絕大多人都可以喝。而中國酒則偏向于成年人的口味。對于酒的釀造方式,相對于中國,日本酒的的分類比較細致,且制作工藝比較講究,根據(jù)米的碾磨留存率來釀成不同口感的酒,并注重酒的容器、酒與不同料理的搭配,來獲得最好的感官和心理的享受。而中國人在酒桌上喝酒則更多的注重的是量。追求酒桌上每個人喝酒的量是相同的,而日本則比較隨意,即使喝醉也沒有失禮之說,相反會讓人覺得可以信賴。這在中國是不同的。
在祭祀中,相對于日本,中國公共的或大規(guī)模的祭祀活動比較少,但在重大節(jié)日,用是選用酒來祭奠祖先,酒的選擇性自由度比較大。而在日本,天皇參與重大祭祀活動的酒都和其他祭祀活動所用的酒是不同的。在婚俗中,中日兩國雖然都是用酒來表達喜慶,但是表現(xiàn)的方式也是不同的。
第 14 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
結(jié)論
酒是飲料的一種,按分類,它當屬飲料范疇,但它又不同于一般的飲品,因為它的重要功用并不是用來解渴。然而,酒在人們的日常飲食當中,卻扮演著重要的角色,起著不可替代的作用。中國人、日本人都在以不同方式,不同場合,如喪葬,嫁娶,禮儀等,不同程度地享用酒這一飲品。酒是人生的伴侶,人們經(jīng)常以酒敬友,以酒餞行,以酒慶功,以酒作詩,以酒繪畫,以酒助興等。自從酒出現(xiàn)之后,作為一種物質(zhì)文化,酒的形態(tài)多種多樣,其發(fā)展歷程與經(jīng)濟發(fā)展史同步,因此酒又不僅僅是一種食物,它還具有精神文化價值。作為一種精神文化它體現(xiàn)在社會政治生活、文學(xué)藝術(shù)乃至人的人生態(tài)度、審美情趣等諸多方面。在這個意義上講,飲酒不是就飲酒而飲酒,它也是在飲文化??梢哉f酒深入到我們生活的各個領(lǐng)域,于兩國政治,經(jīng)濟,文化活動密不可分,構(gòu)成姿態(tài)萬千、內(nèi)涵豐富的酒文化,它對社會、經(jīng)濟、文學(xué)藝術(shù)等各個領(lǐng)域都產(chǎn)生著巨大的影響,對于整個民族文化的形成起到了一定的作用,并折射出各自民族的文化特點,可以說是巨大的文化財產(chǎn)。
由于酒文化深入到了各民族人們的生活中,通過對中日酒文化的了解,不僅可以豐富酒文化方面的知識,可以通過它來窺視中日社會,加深對彼此社會生活的理解、認識,中日兩國都是世界大國,而且兩國都視對方為重要的合作伙伴,只有加強雙方的政治經(jīng)濟文化等多方面的交流和溝通,才能真正意義上實現(xiàn)兩國長期的友好關(guān)系。
第 15 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
謝辭
在寫這篇“淺談中日酒文化對比”論文的時候,筆者站在辯證分析的角度上思考問題,起初思考方向一片空白,翻閱了從學(xué)校圖書館借來的相關(guān)書籍,查閱了相關(guān)期刊,先用手寫摘錄的方式一邊整理要點一邊思考論文切入點。從提交任務(wù)書、開題報告,我的指導(dǎo)老師傾注了大量的時間和心血,嚴格把關(guān),一遍又一遍地看完修改稿,一絲不茍地指出修改稿中的不足之處。從開始選題到論文的最終完成,我收到了許多老師、朋友和同學(xué)的幫助,在這里請接受我真心的感謝。感謝老師的諄諄教誨,感謝朋友們的熱忱幫助。這三年的大學(xué)生活結(jié)束是我人生道路的轉(zhuǎn)折點,也同樣是我人生的一筆財富。今后我將更加努力的接受挑戰(zhàn)。
第 16 頁
共 17頁
┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 裝 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 訂 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ 線 ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊ ┊
畢業(yè)設(shè)計(論文)報告紙
參考文獻
1范作申.日本的傳統(tǒng)文化.三聯(lián)書店出版社,2000,237-240 2賀靜彬.日本歷史與文化.大連理工大學(xué)出版社,1998,52-60 3秦明武.日本習(xí)俗文化比較.北京大學(xué)出版社,1990,24-36 4徐少華.中日酒文化比較研究.新疆出版社,1987,134-146 5新邦.日本的酒文化.浙江出版社,2003,131-147 6秋山裕一.酒文化研究會及與中日酒文化的交流.人民大學(xué)出版社,2001,234-255 7吉牧.中日飲食文化的差異.光明日報出版社,2007,115-151 8[美]羅伯特.庫里斯特發(fā).日本精神與風(fēng)俗.吉林人民出版社,1986,123-151 9胡雪峰.日本的飲食文化.黑龍江出版社,2001,124-156 10何滿子.醉鄉(xiāng)日月.上海古籍出版社,1995,356-467
第 17 頁
共 17頁
第五篇:中日茶文化對比論文
中國與日本茶文化對比
引言:茶葉是起源于中國的世界性飲品,由茶的發(fā)展而形成的茶文化也是世界文化史上的一個重要組成部分。中國作為茶文化的發(fā)祥地,在茶文化的發(fā)展史上占有舉足輕重的地位。而日本,這個毗鄰中國的東方島國,其對茶文化的發(fā)展和研究無論是從數(shù)量上還是在質(zhì)量上都位居世界前列。下文將通過中國茶文化與日本茶道文化的對比來發(fā)現(xiàn)其差別。關(guān)鍵詞:茶 茶道 民族 正文
中國是茶葉的故鄉(xiāng)茶文化歷史悠久層次復(fù)雜內(nèi)容豐富。日本茶道和茶道文化起源于中國的茶文化無論從形式還是從實質(zhì)來說都同中國文化有著不可割裂的聯(lián)系。然而一方面中國茶文化傳到日本已經(jīng)一千多年了經(jīng)過日本本土的影響從最初的模仿到不斷地改造和不斷地注入日本的民族特性而最終成為了代表和體現(xiàn)日本民族性的文化另一方面中國茶文化也處于不斷的歷史變遷過程中所以中國茶文化和日本茶道既有聯(lián)系又有了較大的差異。
一、中國茶與文化
(一)中國茶文化發(fā)展歷程
中國是茶的故鄉(xiāng),是世界上最早發(fā)現(xiàn)茶樹、利用茶葉和栽培茶樹的國家。茶樹的起源至少已有六七萬年的歷史。茶被人類發(fā)現(xiàn)和利用,大約已經(jīng)有四五千年的歷史。茶文化產(chǎn)生之初是由儒家積極入世的思想開始的。兩晉北朝時,一些有眼光的政治家便提出“以茶養(yǎng)廉”,以對抗當時的奢侈之風(fēng)。魏晉以來,天下騷亂,文人無以匡世,漸興清淡之風(fēng)。這些人終日高談闊論,必有助興之物,于是,多興宴飲,所以最初的清淡家多酒徒。如:竹林七賢。后來清淡之風(fēng)發(fā)展到一般文人,但能豪飲終日不醉的畢竟是少數(shù),而茶則可長飲且始終保持清醒,于是清淡家們就轉(zhuǎn)向好茶。所以后期出現(xiàn)了許多茶人。唐代茶圣陸羽的茶經(jīng)在歷史上吹響了中華茶文化的號角。從此茶的精神滲透了宮廷和社會,深入中國的詩詞、繪畫、書法、宗教、醫(yī)學(xué)。幾千年來中國不但積累了大量關(guān)于茶葉種植、生產(chǎn)的物質(zhì)文化、更積累了豐富的有關(guān)茶的精神文化,這就是中國特有的茶文化,屬于文化學(xué)范疇。
(二)中華民族茶文化的社會作用
人們常說,“茶中人生,哲理悠悠”。大概是說的就是飲茶和思茶之人往往能從茶中得到深刻的人生道理吧。這句話并不是沒有道理的,茶文化深刻的內(nèi)涵和其重要的歷史地位早已經(jīng)神扎入每一個中華兒女的心中。中華民族在歷史的長河中,不斷改造自然創(chuàng)造物質(zhì)財富的同時,也創(chuàng)造了光輝燦爛的文化,為世界人類的進步和發(fā)展做出了巨大的貢獻,意義十分深遠。茶文化是中華文化教育的一個重要組成部分;茶文化教育的表現(xiàn)及存形式,既有物質(zhì)形態(tài)的,也有精神形態(tài)的。表現(xiàn)為物質(zhì)形態(tài)的,諸如茶的歷史文物、遺跡、茶書、茶畫、各種名優(yōu)茶、茶館、茶具、茶歌舞和茶藝表演等等。表現(xiàn)為精神形態(tài)的,諸如茶德、茶道精神、以茶待客、以茶養(yǎng)廉、以茶養(yǎng)性等等,其內(nèi)涵極其豐富;由于茶文化的內(nèi)涵極其豐富,既是物質(zhì)的,也是精神的,因此中華茶文化在發(fā)展的過程中所發(fā)揮的社會功能和作用也必然是多方面的。傳統(tǒng)的茶文化與人們社會生活的關(guān)系,向來就是非常密切的,無論是歷史文人生活中的“琴棋書畫灑詩茶”,還是平民百姓生活中的“柴米油鹽醬醋茶”,茶都是不可缺少的。茶文化發(fā)展至現(xiàn)代,茶的社會功能更加突出,例如,以茶會友、以茶聯(lián)誼、以茶代酒、以茶養(yǎng)性等等著名詞語,更是將中華茶文化的精髓體現(xiàn)的淋漓盡致。茶能洗凈塵心,導(dǎo)致清和。中華民族是一個文明古國、禮儀之邦,無論貧富,大凡家有客來,均有以茶待客的禮儀。在民間亦有“粗茶淡飯,不成敬意”的說法。國家領(lǐng)導(dǎo)人會見外賓時,也往往以茶贈客,中國茶文化在社交場合中的地位,由此可見一斑。中華茶文化中的“禮”,幾乎貫穿了整個茶文化的所有內(nèi)容,從倒茶、敬茶、品茶等一系列活動中,均與“禮”有密不可分的聯(lián)系。
二、日本茶道
(一)從中國而來的日本茶道
日本的茶道已具有800年的歷史,是日本的傳統(tǒng)文化。茶道,顧名思義,即品茶之道。就是在茶藝操作過程中所追求和體現(xiàn)的精神境界和道德風(fēng)尚。日本與中國一衣帶水,中日兩國自古以來就有著政治、經(jīng)濟和文化的聯(lián)系。茶文化是兩國源遠流長的文化交流內(nèi)容之一,特別是茶文化作為中日文化交流關(guān)系的紐帶,一直起著重要作用。
唐順宗永貞元年,日本最澄禪師從我國研究佛學(xué)回國,在他回國的行李中,就有中國的茶籽,最澄禪師將茶籽種在近江(滋賀縣)。815年,日本嵯峨天皇蒞臨滋賀縣梵釋寺,僧人們獻上清茶一杯。天皇飲后龍心大悅,開始大力推廣飲茶,于是茶葉在日本得到大面積栽培。
(二)日本茶文化
日本茶道是在“日常茶飯事”的基礎(chǔ)上發(fā)展起來的,以千利休提出的“和,敬,清,寂”四字為宗旨,將日常生活行為與宗教、哲學(xué)、倫理和美學(xué)熔為一爐,成為一門綜合性的文化藝術(shù)活動。它不僅僅是物質(zhì)享受,通過茶會,學(xué)習(xí)茶禮,它還可以陶冶性情,培養(yǎng)人的審美觀和道德觀念。正如桑田中親說的:“茶道已從單純的趣味、娛樂,前進成為表現(xiàn)日本人日常生活文化的規(guī)范和理想?!?茶道之茶稱為“佗茶”,“佗”有“幽寂”、“閑寂”的含義。“清”與“寂”指的是環(huán)境的清幽與寂靜。邀來幾個朋友,坐在幽寂的茶室里,邊品茶邊閑談,不問世事,無牽無掛,無憂無慮,修身養(yǎng)性,心靈凈化,別有一番美的意境。千利休的“茶禪一味”、“茶即禪”觀點,可以視為茶道的真諦所在。
日本的茶道源于中國,卻具有日本民族味。它有自己的形成、發(fā)展過程和特有的內(nèi)蘊,它將日常生活行為與宗教、哲學(xué)、倫理和美學(xué)熔為一爐,成為一門綜合性的文化藝術(shù)活動。它不僅僅是物質(zhì)享受,而且通過茶會,學(xué)習(xí)茶禮,陶冶性情,培養(yǎng)人的審美觀 和道德觀念。日本茶道在許多方面受禪宗影響的成為一個完整的生 活體系。日本茶道的鼻祖僧人村田珠光強調(diào)“茶道之美來自自身的內(nèi)心功夫”。這正是禪宗所提倡的“內(nèi)省”或“自悟”。而歷代茶人要去禪寺修禪后,返回茶室過茶人的生活,對茶人來說,佛法就存在于茶湯之中,別無他求,飲茶的過程就是追求“茶禪一味”的境界。也就是說茶道里“禪”的內(nèi)涵,在于通過繁瑣的規(guī)則來磨練人心,當這些規(guī)則不再令飲茶者厭煩,當飲茶人信手而為就符合茶道禮法時,才算領(lǐng)會了茶的真諦,才能喝到一杯好茶,才能最終達到“茶禪一味”的境界。
三、中國茶文化的繼承發(fā)揚者
(一)兩國茶文化聯(lián)系
中日茶道都是取茶的清心、靜氣、養(yǎng)神、助智等健康向上的精義。兩者之間有頗深的淵源。中日茶文化雖有不同,但淵源頗深。中國茶葉傳入日本,最初,應(yīng)是圣德太子派遣遣隋使并且隨著唐朝的強盛發(fā)展,日本已不在滿足于當時沒落而又單純的部民制形式,試圖探索和汲取中國文化的精髓。而隨著“大化改新”的推行,日本從政治制度,土地制度,科學(xué)文教,風(fēng)俗習(xí)慣等向唐朝開始了全面的模仿和學(xué)習(xí),這其中也包括茶文化,所以中日茶文化頗有淵源。
(二)兩國茶文化差異
由于地理環(huán)境,社會發(fā)展程度以及思想文化的不同,中日茶文化又存在巨大的差異。中國茶文化以儒家思想為核心,融儒、道、佛為一體,三者互為補充、絕少抵觸,從而使中國的茶文化內(nèi)容非常豐富,無論從哪個層次、哪個方面講都能做出宏篇大論。而日本茶道則主要反映中國禪宗思想,當然也融進了日本國民的精神和思想意識。中國人“以茶表禮仁”、“以茶表敬意”、“以茶可行道”、“以茶可雅志”,充分貫徹了儒家禮、義、仁、德的道德觀念以及中庸和諧的精神標準。日本茶道吸收了中國茶文化思想的部分內(nèi)容,主張“和、敬、清、寂”,公開申明“茶禪一位”,它規(guī)勸人們要和平共處,互敬互愛,廉潔樸實,修身養(yǎng)性。但同時日本茶文化注重修性,有非常復(fù)雜繁瑣的程序,它的傳播階層多為上流社會,帶有濃重的宗教色彩。
結(jié)論:
從兩國茶文化的差異可看出中華民族與大和民族的差異:中國茶文化所反映的中華民族特性主要有四 一是重視現(xiàn)實人生,二是追求人格完善,三是講求和諧,四是以天人合一為最高的審美美感;日本茶道所反映的日本民族的特性也主要有四:一是重規(guī)范,二是重禮義,三是重視自我克制和堅強意志訓(xùn)練,四是獨特的悲劇審美美感。中國茶文化和日本茶道都是東方文化的奇葩在世界文明史上各顯風(fēng)采、引人深思。日本茶道與中國茶道一樣,其中蘊涵著的文化博大精深,尤其是對于一個外人來說,要把握其精髓,確實需要淵博的知識和不懈的努力茶道在日本傳統(tǒng)文化中占有標致性的主導(dǎo)地位,成為極具代表性的日本傳統(tǒng)文化的瑰寶。茶道是日本民族的文化象征,在世界傳統(tǒng)文化中頗具影響。無論是中國茶文化還是日本茶道,都是一衣帶水一脈相承的文化,經(jīng)過千百年的演化,它們形成了自己獨特的風(fēng)格并將繼續(xù)傳承下去。中國茶文化和日本茶道都是東方文化的奇葩在世界文明史上各顯風(fēng)采、引人深思。理解中國茶文化和日本的茶道文化的聯(lián)系要結(jié)合各自的歷史及茶文化在歷史過程中的變遷才能得到正確的認識。
參考文獻:
韓旭李睿杜泳 中日茶文化交流的歷史地理學(xué)透視 [J];農(nóng)業(yè)考古;2011年02期
高燕 淺談日本的茶道文化 [J];網(wǎng)絡(luò)財富;2010年11期 彭云 龍中日茶文化發(fā)展的對比探討 [J];魅力中國;2010年04期 關(guān)劍平文化傳播視野下的茶文化研究 [J]農(nóng)業(yè)出版社;2009年5月1日