第一篇:中日企業(yè)文化之不同
中日企業(yè)文化之不同
摘要:隨著知識(shí)經(jīng)濟(jì)和經(jīng)濟(jì)全球化的發(fā)展和我國(guó)改革開(kāi)放的日漸深入,很多日企紛紛落戶中國(guó)。比較中國(guó)企業(yè)文化和日本企業(yè)文化,人們發(fā)現(xiàn)。。。
企業(yè)文化:
企業(yè)文化是以民族文化為基礎(chǔ),其核心是以人為中心,在企業(yè)內(nèi)部以獨(dú)特的潛意識(shí)滲透企業(yè)的各個(gè)領(lǐng)域,支配著人們的行為??梢园哑髽I(yè)文化概括為:企業(yè)文化是一種微觀文化現(xiàn)象,是在企業(yè)長(zhǎng)期實(shí)踐中逐步形成并確定起來(lái),全體職工認(rèn)同的價(jià)值觀念、行為準(zhǔn)則、道德規(guī)范等構(gòu)成的總和。
日本企業(yè)文化的形成、特征及其發(fā)展:
一、日本文化的形成日本的企業(yè)文化主要是由這樣一些原因形成的:首先,日本是單一民族的社會(huì),結(jié)構(gòu)是同質(zhì)的,具有國(guó)民意識(shí)和行為趨于同一的民族習(xí)慣。其次,是長(zhǎng)期受到東方文化的熏陶,有一種和現(xiàn)代企業(yè)文化一脈相承的傳統(tǒng)文化基礎(chǔ)。第三,日本在第二次世界大戰(zhàn)后的改革 為日本企業(yè)文化發(fā)展創(chuàng)造了一個(gè)有利的環(huán)境。第四,日本的社會(huì)文化的恩恥觀。第五,日本善于吸收世界各民族的優(yōu)秀的文化,把這些文化的優(yōu)良特征融于一體,形成了既有原則又有信條和精神的企業(yè)文化。第六,依靠企業(yè)自身的努力長(zhǎng)期堅(jiān)持身體力行、潛移默化,經(jīng)歷了一個(gè)相當(dāng)長(zhǎng)的時(shí)期才逐步形成。
二、日本文化的特征
1、集團(tuán)意識(shí)和思想上的“和”“忍”“信”等觀念。
2、企業(yè)的家族化。
3、重視培養(yǎng)員工對(duì)企業(yè)的忠誠(chéng)感。
4、加強(qiáng)企業(yè)內(nèi)部的凝聚力。
5、充分發(fā)揮群體的優(yōu)勢(shì),提倡企業(yè)內(nèi)部的競(jìng)爭(zhēng)是一種為企業(yè)出力的競(jìng)爭(zhēng),鼓勵(lì)員工在企業(yè)中提出包括技術(shù)革新的各種意見(jiàn)和建議,提倡一致對(duì)外。
三、日本文化的發(fā)展
日本企業(yè)突出的是群體的作用,以“和“為“貴”,這種思想來(lái)源于中國(guó)的儒家學(xué)說(shuō)。在日本,企業(yè)經(jīng)營(yíng)就是以此作為其理論的依據(jù)。
企業(yè)文化建設(shè)應(yīng)堅(jiān)持“以人為本”。在日本,“人本 主義企業(yè)經(jīng)營(yíng)”的觀念深入人心,成為了日本在戰(zhàn)后 迅速崛起的法寶之一。這一經(jīng)營(yíng)理念堅(jiān)持以人為本 的原則,確認(rèn)“人”是經(jīng)濟(jì)發(fā)展中超越物質(zhì)的最為珍 貴的資源;注重經(jīng)營(yíng)管理的人性化,挖掘員工的潛 能,調(diào)動(dòng)員工的工作積極性和主動(dòng)性。
中日兩國(guó)企業(yè)文化的個(gè)性差異:
1日本企業(yè)文化的特性
師家制度終身雇傭制年功序列制
終身雇傭制,是指從各類學(xué)校畢業(yè)的求職者,一經(jīng)企業(yè)正式錄用直到退休始終在同一企業(yè)供職,除非 出于勞動(dòng)者自身的責(zé)任,企業(yè)主避免解雇員工的雇傭習(xí)慣。終身雇傭制與年功序列制、企業(yè)內(nèi)工會(huì)被稱做日本式經(jīng)營(yíng)的“三件神器”或三大支柱。2中國(guó)企業(yè)文化的特性
是政治與經(jīng)濟(jì)的統(tǒng)一體提倡“重義輕利”追求“自強(qiáng)不息”
2.2海爾公司和松下電器的企業(yè)文化的比較:
海爾公司的企業(yè)文化
海爾企業(yè)文化是被全體員工認(rèn)同的企業(yè)領(lǐng)導(dǎo)人創(chuàng)新的價(jià)值觀。
海爾文化的核心是創(chuàng)新。海爾文化以觀念創(chuàng)新為先導(dǎo)、以戰(zhàn)略創(chuàng)新為方向、以組織創(chuàng)新為保障、以技術(shù)創(chuàng)新為手段、以市場(chǎng)創(chuàng)新為目標(biāo),伴隨著海爾從無(wú)到有、從小到大、從大到強(qiáng)、從中國(guó)走向世界,海爾文化本身也在不斷創(chuàng)新、發(fā)展。員工的普遍認(rèn)同、主動(dòng)參與是海爾文化的最大特色。
海爾文化分三個(gè)層次:
1、物質(zhì)文化
2、制度行為文化
3、精神文化
海爾精神:敬業(yè)報(bào)國(guó)追求卓越
海爾作風(fēng):迅速反應(yīng)馬上行動(dòng)
先謀勢(shì),后謀利——海爾的戰(zhàn)略觀
松下電器的企業(yè)文化
松下電器公司的創(chuàng)始人及領(lǐng)導(dǎo)者松下幸之助,被譽(yù)為“經(jīng)營(yíng)之神”、“民族英雄”。該公 司的成功是在于完善的企業(yè)文化。這種企業(yè)文化突出地表現(xiàn)在三個(gè)方面:
一是強(qiáng)化企業(yè)命運(yùn)共同體建設(shè).二是在進(jìn)行總體企業(yè)文化的培育前提下,把培養(yǎng)人才作為重點(diǎn),強(qiáng)調(diào)將普通人培訓(xùn)為有才能的人。
三是注重不斷豐富企業(yè)文化的內(nèi)容,使員工新鮮感,這樣更易于自覺(jué)接受。每年年終時(shí),公司自上而下動(dòng)員員工提出下一年的行動(dòng)口號(hào),然后匯集起來(lái),由公司宣傳部口號(hào)委員會(huì)挑選、審查,最后報(bào)總經(jīng)理批準(zhǔn)、公布。
比較啟示:
致謝
第二篇:中日企業(yè)文化
日本の企業(yè)文化の
[抄錄](méi)日本の企業(yè)文化は獨(dú)自の文化的??デンテ?テ?を持っています。日本文化への影響の長(zhǎng)期的な制品です。我々の研究で、日本経済は、企業(yè)の內(nèi)部分析から行くことはできません。宗教的な風(fēng)味が強(qiáng)いと、日本の事業(yè)。宗教も、意思決定や企業(yè)のシステムに影響を及ぼした。
[キーワード]日本の文化、宗教
ご承知のとおり、“企業(yè)文化”最初の転送は、?メリカ、日本に最初の練習(xí)をした。第二次世界大戦の失敗の后、日本経済の崩壊后。しかし、その后國(guó)営企業(yè)は、なぜ日本企業(yè)が開(kāi)発することができますので、早く一緒にド?を開(kāi)けて一晩、?メリカに比べて日本の制品は、そうですか? 90年代の金融危機(jī)は、日本経済は景気后退している。日本企業(yè)は、これらの問(wèn)題に対処する方法は何ですか?現(xiàn)在、我々の國(guó)の高速経済発展の時(shí)代では、中國(guó)企業(yè)から學(xué)ぶ必要がありますこのどうやって?私たちは、企業(yè)文化を企業(yè)の発展の影響で開(kāi)始させてください。
第一に、宗教文化
日本は、儒教、仏教、神道の宗教の歴史日本での開(kāi)発に最大の影響を與えます。最終的には、中國(guó)の儒教“博愛(ài)、正義、正當(dāng)性、知恵、手紙、忠義、孝行、大好きな”と他の倫理的な??デ?や企業(yè)文化の主要な考えを日本の神道思想の皇帝“には、地域社會(huì)の”忠誠(chéng)心。日本企業(yè)は、明治維新を必然的に戦士のさまざまな伝統(tǒng)や習(xí)慣の管理に武士の多くは、武家制度の廃止は、事業(yè)に続いているので、孔子を増やす計(jì)畫(huà)の論語(yǔ)“の時(shí)に”明治維新の近代化を開(kāi)始すると、障害のあるビジネスフ??ナンスの“魂”と、企業(yè)文化と述べた。彼らのビジネス哲學(xué)の宗教的な考え方にいくつかの起業(yè)家。は、同社の日常業(yè)務(wù)はしばしば宗教的な傾向となっています。朝と夕方の訓(xùn)練と企業(yè)統(tǒng)治に関する社會(huì)的な曲を日本の主な特長(zhǎng)は、次のように、仏教の僧侶など。とから、毎日20分の最初の仕事は、クラブのメンバーが一緒に歌を歌っています?;辘驔坊工毪郡幛恕⑺上陇?、同社への敬意を表してここに來(lái)て毎周仏壇を設(shè)定している。トヨタ自動(dòng)車は社會(huì)的な訓(xùn)練の“仏の尊重、チャンに感謝し、感謝の借金を払うために生きている?!?/p>
第二に、決定の宗教的思考の影響を受けて決定。儒教文化-の効率的な組織文化。日本企業(yè)の成長(zhǎng)の謎を探索、ほとんどの人は、獨(dú)自の組織文化を魅了します。無(wú)効電力の特性のような順序で終身雇用制度の日本の企業(yè)の練習(xí)、、。
“博愛(ài)”と“正義” :スタッフの撤廃、これは企業(yè)で働くことが懸念解任し、必要があるため、壽命の長(zhǎng)さの雇用システムは、最良の選択となっている。このエコーは、その學(xué)問(wèn)の資格は、年齢に応じて、サービスの長(zhǎng)さのためにその會(huì)社で働くスタッフの給與(70 %)メソッドの主要部分を決定するには、賃金制度の順序で反応システムの導(dǎo)入は、日本の大手企業(yè)。このシステムを生活の中で反応配列の長(zhǎng)さは従業(yè)員の雇用システムの基本的な生活水準(zhǔn)を守るためには、會(huì)社の近くと、スタッフの気持ちをスタッフの改善に役立つだろうと獻(xiàn)身の帰屬意識(shí)のビジネスセンス。
“善玉” :従業(yè)員の評(píng)価のための主な基準(zhǔn)は、企業(yè)への忠誠(chéng)である。個(gè)人の能力との共同意識(shí)の操作は重要ではないシステムは、體重の評(píng)価には、元よりも低い。中國(guó)のビジネスエリート履歴書(shū)の山では異なる企業(yè)の経験に注目していると、火災(zāi)のように上司との強(qiáng)力な個(gè)人への企業(yè)より容量。ホワ?トカラー労働者は日本ではなく、自分のキャリ?悪い、このです。悪い場(chǎng)合は、スタッフは本當(dāng)に多くの人々のシングルは、多くの企業(yè)はレ?オフの基本的な條件として、?ニシ?チブをとることはないと、それを納付しないとき情報(bào)を発信する方法を使用するように選択してください。仕事では頻繁にすることはできませんが、次の候補(bǔ)は、說(shuō)得力のある理由を受けることは不可能ではない。日本のため、同社は、以前は舍て敝履起業(yè)家の場(chǎng)合、人々の目を信頼してはいけません。“と”成功の考えです。各企業(yè)は、“ホームです。”日本の人々はしばしば、“私の家は自分の仕事の場(chǎng)。”多くの日本の若者が、同時(shí)に彼らは會(huì)社に自分の生活をしている大企業(yè)に入ります。ホームは、同社の“コーナー”は、集団行動(dòng)休暇の場(chǎng)合には、多くの場(chǎng)合、メ?ンの上司からの結(jié)婚は、もちろん自己負(fù)擔(dān)ですが、定年后の補(bǔ)助金は、同社が配布した。悪くても、いくつかの企業(yè)が従業(yè)員の墓地に戻す]を選択します。従業(yè)員の死が、記念墓地にも高レベルの集団企業(yè)。このように、同社は従業(yè)員の家族の絆や感情の意味になっている道徳的かつ簡(jiǎn)単に會(huì)員企業(yè)のスタッフを解任されず、要求の際の責(zé)任を負(fù)う。ビジネスリーダーや組織のすべての人事を同時(shí)に動(dòng)作の雇用では、親の責(zé)任を自分の子供と同じケ?や介護(hù)の問(wèn)題で、雇用と生活のすべての良い仕事の世話をするように。同時(shí)に、それぞれの家族の企業(yè)として、事業(yè)者にも感謝祭のような子供の親としての采用は進(jìn)んでは、演算子の組織とリーダーシップに敬意を提出するだけでなく、企業(yè)が心配と同じ方法に興味運(yùn)用と開(kāi)発。個(gè)々の企業(yè)が心と體、調(diào)整、理解を、企業(yè)に個(gè)人的な暴落に忠誠(chéng)度の高いのは、大きな意味があります。
第三に、日本の企業(yè)文化、企業(yè)文化とは、?メリカ合眾國(guó)
1980年にホーフステッドエコノミストは、世界50カ國(guó)からの企業(yè)文化の一部は、內(nèi)部のサンプルでは、統(tǒng)計(jì)した。遠(yuǎn)くから人々は、リスク回避、個(gè)人主義、男性の調(diào)査を行っている。
(チャート)全國(guó)規(guī)模の企業(yè)文化の主要な値。人権活動(dòng)のうち、?メリカ合眾國(guó): 40、日本54、52の世界平均。その后、米國(guó)と日本の人権のためのギャップ。ある程度の人々の権利の問(wèn)題を內(nèi)部反射と権力の民主的なバランスを?qū)g現(xiàn)します。観點(diǎn)から64の世界平均のリスクを避けるために、米國(guó)は46、日本92、これは日本ではリスク回避の強(qiáng)い感覚。ビューの個(gè)人主義的観點(diǎn)から、50、日本46の世界平均は、米國(guó)91、日本、日本の社會(huì)、企業(yè)のグループは、その人が自分に注目している表現(xiàn)ですが、それは怒りや同僚や上司からの抵抗にもつながるわけではないことがありますがの脅威になるので、冷酷な抑圧感。森の中で木材を、風(fēng)にも、日本企業(yè)に適用する中國(guó)哲學(xué)を破壊してしまいます。4。また、人から尊敬: 95日本は、世界から、米國(guó)は62。日本の男性の社會(huì)は、男性の考えがあまりにも強(qiáng)いので、ある程度までです。日本は、男性の大多數(shù)は、女性が家族の、當(dāng)然のこと結(jié)婚后に辭任を世話をすると主張した。日本では、強(qiáng)い女性をより軽蔑的な用語(yǔ)です。
?メリカ合眾國(guó)の近代化と企業(yè)文化を日本では、企業(yè)文化の伝統(tǒng)を比較し、自分の特性があります。集中力やグループの意識(shí)につながったの“忠誠(chéng)心”と“と”という考え。日本の宗教文化の影響の制品です。
まとめると、日本の企業(yè)文化は、伝統(tǒng)的な日本の宗教文化と近代的経営手法の組み合わせです。ある程度はない日本の企業(yè)文化とは宗教があるために、宗教的信念は、日本企業(yè)は、信仰のうつ病は、なぜ日本企業(yè)の段階で、まだ殘業(yè)している従業(yè)員の職場(chǎng)への義務(wù)は、精
神を強(qiáng)調(diào)する文化の重要なコンポーネントを構(gòu)成され企業(yè)向けのハード。日本企業(yè)はこのような特殊な宗教的な文化、そして企業(yè)と開(kāi)発の継続を保證します。
日本企業(yè)文化日本企業(yè)文化的5條潛規(guī)則
世事如棋,上世紀(jì)80年代日元經(jīng)濟(jì)橫掃全球之際,日本企業(yè)獲得廣泛的贊譽(yù),終身雇傭制和集體主義成了國(guó)際企業(yè)的樣板??僧?dāng)日本經(jīng)濟(jì)陷入失落的十年之時(shí),日本企業(yè)又因?yàn)閯?chuàng)新匱乏和反應(yīng)遲鈍成為被批判的靶子。然而迄今為止,在財(cái)富500強(qiáng)排行榜中,日本企業(yè)比比皆是;在現(xiàn)代市場(chǎng)經(jīng)濟(jì)體系下幾乎所有重要的行業(yè)中,都能看到著名日本企業(yè)的影子。與創(chuàng)新叛逆、雷厲風(fēng)行的美國(guó)企業(yè)文化相比,日本企業(yè)文化有其自身的特色,這既是日本企業(yè)稱雄世界的動(dòng)因,也是約束日本企業(yè)進(jìn)一步發(fā)展的桎梏。筆者試圖在這里梳理一下日本主流企業(yè)文化中的潛規(guī)則。
潛規(guī)則一,評(píng)價(jià)員工的首要標(biāo)準(zhǔn)是對(duì)企業(yè)忠誠(chéng)度。個(gè)人能力和合作意識(shí)并非不重要,但是在評(píng)價(jià)體系中的權(quán)重低于前者。中國(guó)企業(yè)界的精英們熱衷于在個(gè)人簡(jiǎn)歷里堆砌不同公司的經(jīng)歷,似乎自己炒掉的老板和公司越多,個(gè)人能力就越強(qiáng)。在日本白領(lǐng)看來(lái),這恰是職業(yè)生涯大忌。雖然終身雇傭制名義上已經(jīng)取消,但仍然有不少人選擇從一而終,很多公司還將不主動(dòng)裁員作為一個(gè)基本準(zhǔn)則,如果員工實(shí)在太差,就用不加薪的方法來(lái)傳遞信息。跳槽不是不可以,而是不能太頻繁,并且在下一次應(yīng)聘時(shí)要給出令人信服的理由。因?yàn)樵谌毡酒髽I(yè)家眼中,一個(gè)對(duì)以前公司棄若敝履的人,絕對(duì)不值得信賴。
潛規(guī)則二,要在一家企業(yè)中長(zhǎng)期發(fā)展,穩(wěn)居中游是最優(yōu)策略。這條規(guī)則尤其適合于初進(jìn)職場(chǎng)的大學(xué)畢業(yè)生。要在日本公司里長(zhǎng)期發(fā)展,必須具有耐心。在很多日本人的潛意識(shí)中,不落后于他人是最佳狀態(tài)。如果一個(gè)人過(guò)分熱衷于自我表現(xiàn),不但會(huì)招致同事的反感和抵制,而且上司也可能感覺(jué)受到威脅從而無(wú)情打壓之。木秀于林,風(fēng)必摧之的中國(guó)哲理同樣適用于日本企業(yè)。
潛規(guī)則三,用人不疑,疑人不用。新人剛進(jìn)公司,往往會(huì)做些瑣碎細(xì)致的工作。很多人都覺(jué)得無(wú)聊沒(méi)勁,事實(shí)上這是管理層考驗(yàn)員工的第一步。通過(guò)這一關(guān)后,尤其在某些中小公司,管理層往往會(huì)給員工很大的自由,讓其放手去干一件重要事情,借此來(lái)考察一個(gè)員工應(yīng)對(duì)壓力、整合各方面資源和協(xié)調(diào)各方面關(guān)系的能力。一旦員工通過(guò)了這項(xiàng)考驗(yàn),就可能被重用,否則就會(huì)被貼上不堪大用的標(biāo)簽。這種從每件事情成功與否,來(lái)決定下一件事情是否分配給
特定員工來(lái)干的做法,看似不給犯錯(cuò)誤的員工第二次機(jī)會(huì),顯得不合情理,實(shí)則是要求員工集中精力完成每一項(xiàng)任務(wù),從而有助于提高公司效率。
潛規(guī)則四,不率先創(chuàng)新,但是把細(xì)節(jié)做到極致。按照經(jīng)濟(jì)學(xué)術(shù)語(yǔ)來(lái)說(shuō),日本企業(yè)家多是風(fēng)險(xiǎn)規(guī)避者,他們不愿意付出創(chuàng)新的高風(fēng)險(xiǎn)成本,但是日本企業(yè)令人尊敬之處,就在于實(shí)現(xiàn)了模仿時(shí)滯最小化。往往是歐美企業(yè)研制出新技術(shù)不久,日本企業(yè)就用巨資購(gòu)買之,并且在極短的時(shí)間內(nèi)消化吸收之,然后用全球領(lǐng)先的工藝迅速地生產(chǎn)成品,而且其產(chǎn)品無(wú)論在品質(zhì)還是價(jià)格上往往都優(yōu)于歐美的競(jìng)爭(zhēng)對(duì)手。推而廣之,那種雄才大略但是忽視細(xì)節(jié)的精英們,在日本企業(yè)往往得不到太好的發(fā)展。原因就是上司們習(xí)慣于從細(xì)節(jié)來(lái)考察員工的績(jī)效。正所謂魔鬼在細(xì)節(jié)中。
潛規(guī)則五,女性依然難以受到重用。在日本企業(yè)界和政界的高層,女性身影依然寥寥。大多數(shù)日本男女堅(jiān)持認(rèn)為,女性結(jié)婚后辭職照顧家庭,天經(jīng)地義。在日本,女強(qiáng)人更多地是個(gè)貶義詞。據(jù)說(shuō),日本女大學(xué)畢業(yè)生在就業(yè)時(shí)依然會(huì)努力尋找工作,但是目的不是為了事業(yè)和金錢,而是為了覓得金龜婿。因?yàn)橐坏┱业絺€(gè)好郎君,婚后就可以不再工作一勞永逸,不亦樂(lè)乎?
第三篇:中日企業(yè)文化比較研究
中日企業(yè)文化比較研究
摘要:20世紀(jì)80年代初,企業(yè)文化就被提出,自此以后越來(lái)越受到企業(yè)界和理論界的重視,成為企業(yè)加強(qiáng)管理、提高市場(chǎng)競(jìng)爭(zhēng)能力的內(nèi)在要求。由于不同國(guó)家所處的社會(huì)、歷史和文化背景不同,企業(yè)文化現(xiàn)象也千差萬(wàn)別。本文將以中日為例,探討中日企業(yè)文化的區(qū)別與融通之處,其融通之處是中日兩國(guó)企業(yè)交流的基礎(chǔ),其區(qū)別則是互相借鑒、互相學(xué)習(xí)、互相提高的基礎(chǔ)。如果我們中國(guó)的民營(yíng)企業(yè)能夠在實(shí)踐中吸取和借鑒日本優(yōu)秀的企業(yè)文化,一方面能為企業(yè)文化建設(shè)帶來(lái)新的思想,另一方面也能為中國(guó)企業(yè)進(jìn)入日本市場(chǎng)奠定基礎(chǔ)。本文也將結(jié)合松下和海爾的企業(yè)文化建設(shè)來(lái)展開(kāi)討論,從某種程度上說(shuō),松下和海爾的企業(yè)文化就是中日企業(yè)文化的縮影。相關(guān)結(jié)論也為中國(guó)企業(yè)處理在日本發(fā)展時(shí)由文化差異引起的問(wèn)題的解決提供建議。-
關(guān)鍵詞:中日 企業(yè)文化 比較啟示
正文:
1、企業(yè)文化的由來(lái)、內(nèi)涵和作用
企業(yè)文化這一概念來(lái)自西方,企業(yè)文化的內(nèi)容卻形成于東方。本世紀(jì)三、四十年代,日本的企業(yè)界開(kāi)始出現(xiàn)了企業(yè)的經(jīng)營(yíng)哲學(xué),這就是企業(yè)文化的萌芽。到了80年代,美國(guó)加利福尼亞大學(xué)的日裔美籍管理學(xué)教授威廉·大內(nèi),憑借自己所兼?zhèn)涞娜?、美兩?guó)文化以及心理素質(zhì)的優(yōu)勢(shì),提出了企業(yè)文化理論。大內(nèi)及其他學(xué)者發(fā)現(xiàn)一些企業(yè)中形成的特殊企業(yè)文化成為企業(yè)發(fā)展的強(qiáng)大動(dòng)力,經(jīng)過(guò)總結(jié)、推廣,被視為現(xiàn)代企業(yè)走向成功的管理意識(shí)革命,從而進(jìn)入了以企業(yè)文化為核心的管理時(shí)代。
何為企業(yè)文化?國(guó)內(nèi)外專家學(xué)者的說(shuō)法并不統(tǒng)一。我們認(rèn)為:企業(yè)文化是本國(guó)民族文化與現(xiàn)代文化相互影響在企業(yè)中的具體反映,是企業(yè)所形成的具有自身特色的思想、意識(shí)、觀念等意識(shí)形態(tài)和行為方式,以及與之相適應(yīng)的制度和組織機(jī)構(gòu)。企業(yè)文化以企業(yè)精神為核心,由三個(gè)層次組成:
(1)最外層:即企業(yè)的物質(zhì)文化層。包括企業(yè)生產(chǎn)經(jīng)營(yíng)的物質(zhì)基礎(chǔ)。這是企業(yè)精神文化的物質(zhì)體現(xiàn)和外在表現(xiàn),具有物質(zhì)特性,構(gòu)成企業(yè)的硬文化。
(2)中間層:即企業(yè)的制度文化層。包括企業(yè)領(lǐng)導(dǎo)體制、人際關(guān)系及其為開(kāi)展正常生產(chǎn)經(jīng)營(yíng)活動(dòng)所制訂的各項(xiàng)規(guī)章制度。它是企業(yè)物質(zhì)和精神文化的中介。
(3)最內(nèi)層:即企業(yè)精神,屬于企業(yè)文化的軟文化,是企業(yè)文化的內(nèi)核。物質(zhì)文化、制度文 化和精神文化從不同側(cè)面反映了企業(yè)文化的豐富內(nèi)涵。
由此可見(jiàn),企業(yè)文化實(shí)質(zhì)上是企業(yè)內(nèi)部的物質(zhì)、制度和精神諸要素的動(dòng)態(tài)平衡和最佳結(jié)合。其精髓是提高人的文化素質(zhì),重視人的社會(huì)價(jià)值,尊重人的獨(dú)立人格。企業(yè)文化對(duì)企業(yè)和職工的行動(dòng)發(fā)揮滲透、潛移、感染等作用,具有傳統(tǒng)的企業(yè)管理方法難以相比的管理功能。它通過(guò)打破傳統(tǒng)觀念,樹(shù)立與發(fā)展戰(zhàn)略相適應(yīng)的新觀念,使職工理解經(jīng)營(yíng)戰(zhàn)略,通過(guò)價(jià)值觀體系的建立和調(diào)整,形成強(qiáng)大的實(shí)施經(jīng)營(yíng)戰(zhàn)略的精神動(dòng)力;通過(guò)組織制度的調(diào)整,提供戰(zhàn)略實(shí)施的組織制度保證;通過(guò)科學(xué)文化技術(shù)培訓(xùn),使職工勝任戰(zhàn)略實(shí)施的職責(zé)。大量事實(shí)證明:企業(yè)成 功的決定性因素并不全在于擁有先進(jìn)的技術(shù)和設(shè)備,企業(yè)文化在企業(yè)中起著不可替代的作用。
2.中國(guó)的企業(yè)文化的特點(diǎn)
早在企業(yè)文化沒(méi)引進(jìn)中國(guó)以前,不少企業(yè)中就存在著類似企業(yè)文化的企業(yè)精神:如“三老四
嚴(yán)”的“大慶精神”、“鞍鋼憲法”等等。80年代中后期引入企業(yè)文化理論后,越來(lái)越多的企業(yè)提出了自己的企業(yè)文化理論,突出了以人為中心的企業(yè)經(jīng)營(yíng)管理模式。企業(yè)文化在當(dāng)代企業(yè)中正發(fā)揮著越來(lái)越重要的作用。中國(guó)在企業(yè)文化建設(shè)方面有許多特點(diǎn),主要表現(xiàn)在以下四個(gè)方面:
(1)自強(qiáng)自信、艱苦奮斗的民族精神。翻開(kāi)中國(guó)的近、現(xiàn)代史,我們就會(huì)發(fā)現(xiàn),中國(guó)人民為民主和自由的斗爭(zhēng)一刻也未停止過(guò),中國(guó)人民也從未被帝國(guó)主義列強(qiáng)下倒過(guò)。不屈不撓的斗爭(zhēng),磨練了中華兒女的意志和毅力,造就了自力更生、艱苦奮斗的民族精神。這種精神在中國(guó)社會(huì)及當(dāng)代企業(yè)中起著不可忽視的作用。所以中國(guó)企業(yè)在企業(yè)文化建設(shè)中也將表現(xiàn)出不甘落后、追求卓越的頑強(qiáng)精神。
(2)博大精深的儒家文化。儒家文化產(chǎn)生于中國(guó),因此在中國(guó)發(fā)展以人為本的企業(yè)文化理論有其得天獨(dú)厚之處。諸如,儒家文化中倡導(dǎo)人勤勞、愛(ài)國(guó)、孝敬父母、和為貴、與人為善等一直是中華民族的傳統(tǒng)精神,也是企業(yè)文化的靈魂。這也啟示我們企業(yè)的領(lǐng)導(dǎo)者如何不只憑權(quán)力建立威信和征服人心,而靠“個(gè)人魅力”去影響員工,增強(qiáng)自身的道德、關(guān)心員工的成長(zhǎng)等,這樣才能等去獲得職工的服從和信賴。
(3)“人治”、“ 情治” 與“ 法治” 相結(jié)合企業(yè)文化。雖然改革開(kāi)放以來(lái)我國(guó)許多企業(yè)都在進(jìn)行企業(yè)文化建設(shè)工作, 而且也取得了十分明顯的成效, 但從總體上來(lái)說(shuō), 我國(guó)的企業(yè)文化建設(shè)活動(dòng)仍然處在起步階段, 所以法治化的局面并未真正形成, “人治”的成分仍然 相當(dāng)多。諸如長(zhǎng)官意志,說(shuō)話隨意性的和模糊性的習(xí)慣, 裙帶關(guān)系等行為隨處可見(jiàn), 嚴(yán)重制約了企業(yè)的規(guī)范化和制度化的發(fā)展歷程。
(4)個(gè)性不明顯。如果從作為個(gè)體的企業(yè)這個(gè)角度進(jìn)行比較, 我國(guó)大部分國(guó)有企業(yè)也并未形成自己有特色的企業(yè)文化, 國(guó)外許多企業(yè)大多有自己的特色鮮明的個(gè)性化企業(yè)文化, 他們各自的企業(yè)文化實(shí)質(zhì)上形成自身的象征和標(biāo)志。例如美國(guó)IBM 公司的“ 服務(wù)”文化, 日本SONY 公司的“開(kāi)拓者” 精神等都是與眾不同的很富有個(gè)性特點(diǎn)的企業(yè)文化實(shí)例。
以中國(guó)代表性企業(yè)----------海爾公司為例。90年代, 建立企業(yè)文化在中國(guó)企業(yè)界被廣泛提及。其中最具代表性企業(yè)是綜合家電廠家海爾集團(tuán)公司。海爾公司在短短的20年里從一個(gè)瀕臨倒閉的總校企業(yè)成長(zhǎng)為躍居世界第五位的家電廠家。海爾之所以能實(shí)現(xiàn)快速增長(zhǎng), 其中一個(gè)重要原因就是擁有自己優(yōu)秀而獨(dú)特的企業(yè)文化。海爾的企業(yè)文化是企業(yè)在多年的發(fā)展過(guò)程中形成的獨(dú)具特色的文化體系, 海爾公司的經(jīng)營(yíng)理念是以人為本、追求卓越、敢于創(chuàng)新。海爾按照廣義文化觀的要求, 以觀念創(chuàng)新為引導(dǎo), 以制度創(chuàng)新為手段,實(shí)現(xiàn)技術(shù)創(chuàng)新、產(chǎn)品創(chuàng)新的效果, 并以物質(zhì)文化創(chuàng)新實(shí)現(xiàn)“敬業(yè)報(bào)國(guó)“、創(chuàng)世界名牌的企業(yè)精神與追求。海爾的文化管理, 是基于中國(guó)特有的民族文化傳統(tǒng)和社會(huì)心理, 密切結(jié)合社會(huì)轉(zhuǎn)型的現(xiàn)實(shí), “兼收并蓄、創(chuàng)新發(fā)展、自成一家”(張瑞敏)的中國(guó)式管理的典范之一。張瑞敏認(rèn)為,現(xiàn)代化首先是人的現(xiàn)代化, 現(xiàn)代化的主題是人, 因此人的意識(shí)和價(jià)值就有著特殊地位。海爾把人當(dāng)作主體, 一切以人為中心的理念, 在企業(yè)內(nèi)部營(yíng)造信任人、關(guān)心人、理解人的文化氛圍。你擁有多大的發(fā)展空間, 企業(yè)就為你搭建多大的發(fā)展舞臺(tái)。海爾的目標(biāo)是創(chuàng)世界名牌, 振興民族產(chǎn)業(yè)。這一理念與員工個(gè)人價(jià)值的追求完全一致, 成為企業(yè)強(qiáng)大的推動(dòng)力。在這種力量的推動(dòng)下, 在創(chuàng)新理念引導(dǎo)下, 海爾從無(wú)到有, 從小到大, 從大到強(qiáng), 從中國(guó)走向了世界。
海爾的企業(yè)文化是中國(guó)企業(yè)文化建設(shè)的成功代表,海爾擯棄中國(guó)企業(yè)文化中很多不適應(yīng)現(xiàn)代化企業(yè)發(fā)展的因素,將中國(guó)優(yōu)秀傳統(tǒng)文化與企業(yè)自身企業(yè)文化建設(shè)相結(jié)合,形成自己獨(dú)特的、適應(yīng)企業(yè)國(guó)際化發(fā)展戰(zhàn)略的文化,是這種文化支撐著海爾的持續(xù)發(fā)展,我們很多企業(yè)在發(fā)展到一定程度后往往忽略企業(yè)文化建設(shè),認(rèn)為文化很虛,不如領(lǐng)導(dǎo)的決策、硬制度來(lái)得實(shí)在,花人力物力去搞企業(yè)文化還不如多買幾套設(shè)備,這在短期看是對(duì)企業(yè)有利的,但眼光放長(zhǎng)遠(yuǎn)一點(diǎn),這就行不通,企業(yè)也許發(fā)展四年、五年后就缺乏發(fā)展動(dòng)力了,到時(shí)企業(yè)還得花更大的代價(jià)去搞企業(yè)文化建設(shè),企業(yè)文化做得好,員工素質(zhì)就上來(lái)了,潛移默化地就按照企
業(yè)文化的引導(dǎo)去參與企業(yè)的各項(xiàng)任務(wù),而且不用上級(jí)領(lǐng)導(dǎo)不停地指示才會(huì)去做,這樣企業(yè)管理成本就下來(lái)了,另一方面,員工的工作積極性提高,工作效率也高。綜合來(lái)看,企業(yè)文化是對(duì)企業(yè)長(zhǎng)遠(yuǎn)發(fā)展百利而無(wú)一弊的,我們企業(yè)要牢記這一點(diǎn)。
3.日本企業(yè)文化的特點(diǎn)
(1)忠誠(chéng)精神和“ 家”的 觀念
“忠”和“誠(chéng)”是大和民族價(jià)值觀的最高境界,忠誠(chéng)與否成為社會(huì)衡量個(gè)人人格的最高標(biāo)準(zhǔn), 市場(chǎng)經(jīng)濟(jì)條件下則是企業(yè)考評(píng)員工最基本要求。以廠為家, 愛(ài)崗敬業(yè), 企業(yè)就是員工家的縮影, 員工與企業(yè)保持家的血緣, 就是把企業(yè)當(dāng)成家來(lái)看業(yè)的薪酬制度和激勵(lì)機(jī)制主要是終身雇傭制、年功序列制和資歷等級(jí)制, 并通過(guò)這些強(qiáng)化企業(yè)為家的理念, 使員工與企業(yè)合為一體, 使員工對(duì)企業(yè)形成強(qiáng)烈的認(rèn)同感、歸屬感和忠誠(chéng)心, 為企業(yè)盡忠, 對(duì)家長(zhǎng)(企業(yè)主)感恩。日本企業(yè)廣泛存在家族主義、家庭理念, 企業(yè)也在有意識(shí)地營(yíng)造“家庭”氣氛。在企業(yè)內(nèi), 員工與管理者、員工與員工之間有著家庭成員般的感受, 把企業(yè)看成是“自家的企業(yè)”;在企業(yè)外, 員工主動(dòng)維護(hù)本企業(yè)的利益和形象, 以為企業(yè)服務(wù)為榮, 以企業(yè)為家, 有著崇高的自豪感。一個(gè)人一旦選擇了某一企業(yè), 其命運(yùn)就同該企業(yè)聯(lián)系在一起, 企業(yè)的成敗與自身的利益密切相關(guān), 企業(yè)成為員工的衣食父母, 員工的經(jīng)濟(jì)地位完全取決于企業(yè)的經(jīng)營(yíng)狀況,甚至員工的社會(huì)地位也取決于供職企業(yè)的地位。所以, 企業(yè)內(nèi)家族式的人際關(guān)系, 使個(gè)人對(duì)企業(yè)有極大的同心力, 每一員工都主動(dòng)為企業(yè)的存續(xù)和發(fā)展而奮斗。在今天的日本, 一個(gè)人全部生活的幸福,實(shí)際上仍取決于他是否受雇于一個(gè)大企業(yè)。員工以“家”的態(tài)度來(lái)對(duì)待企業(yè), 不僅是為了企業(yè)發(fā)展,同時(shí)也是為了自身利益。從企業(yè)角度看, 員工對(duì)企業(yè)的忠誠(chéng)感、經(jīng)驗(yàn)與資歷對(duì)企業(yè)的潛在貢獻(xiàn)遠(yuǎn)比其他物質(zhì)資源、資金、技術(shù)重要。企業(yè)也把員工視為家庭成員, 努力為員工提供物質(zhì)保障和精神動(dòng)力, 員工不僅是企業(yè)的一種生產(chǎn)要素, 也是企業(yè)的主人。
(2)集體主義和團(tuán)隊(duì)精神。
日本企業(yè)雖然等級(jí)森嚴(yán), 但在管理、決策上仍以集體主義傾向見(jiàn)長(zhǎng)。日本企業(yè)的集體主義觀念外化為團(tuán)隊(duì)精神, 員工的團(tuán)隊(duì)精神是以個(gè)人加入特定企業(yè)為前提的, 個(gè)人進(jìn)入某一企業(yè), 成為企業(yè)的一員,個(gè)人利益與企業(yè)命運(yùn)即成一體并維系終身。日本企業(yè)十分重視并充分發(fā)揮非正式組織在企業(yè)管理上的效能。因此, 企業(yè)的團(tuán)隊(duì)精神不僅表現(xiàn)外在形式上, 而且也體現(xiàn)在心理感知上。日本企業(yè)非常重視集體努力與協(xié)作, 推崇團(tuán)體智慧, 發(fā)揮整體優(yōu)勢(shì), 講究和諧統(tǒng)一, 培育共存共榮的團(tuán)體意識(shí), 企業(yè)認(rèn)為員工的積極性是企業(yè)的重要資源, 企業(yè)要為員工營(yíng)造一個(gè)愉快、溫馨的環(huán)境, 員工也需要一個(gè)和諧、互動(dòng)、認(rèn)同的集體。個(gè)體被融合在團(tuán)體中, 團(tuán)體意識(shí)被強(qiáng)化, 個(gè)體要想在企業(yè)中獲得成功, 必須與周圍同化, 求同的企業(yè)文化客觀上有利員工的責(zé)任感、事業(yè)心和團(tuán)隊(duì)精神的發(fā)揮。日本企業(yè)的決策方式是一種自上而平和, 自下而互相結(jié)合的集體決策形式, 既能群策群力, 集思廣益, 保證決策的科學(xué)性與合理性, 又能調(diào)動(dòng)員工的參與意識(shí), 使計(jì)劃得到順利落實(shí)。
(3)人本主義精神
日本文化吸收了儒學(xué)“人和” 思想, 還把它引入到企業(yè)文化中來(lái), 并得以淋漓盡致的發(fā)揮, 進(jìn)而升華為人本主義。日本企業(yè)管理者認(rèn)為, “人和”不僅是人生哲學(xué)和倫理觀念, 也是企業(yè)的管理哲學(xué)。在企業(yè)管理中, 各項(xiàng)規(guī)章制度只是管理的外化形式,而企業(yè)員工共同的價(jià)值理念、群體意識(shí)和精神面貌這些是內(nèi)在本質(zhì)的東西。日本企業(yè)文化是在“和合”理念基礎(chǔ)上, 經(jīng)過(guò)潛移默化逐漸形成了以人為本的管理思想。日本企業(yè)文化強(qiáng)調(diào)“以人為核心”來(lái)培養(yǎng)人和使用人, 在企業(yè)生產(chǎn)經(jīng)營(yíng)諸要素中, “人”是最重要的資源, 沒(méi)有高素質(zhì)人的管理, 機(jī)器、設(shè)備、各種原材料就不能發(fā)揮最大效率?!叭撕汀?是一種精神境界, 企業(yè)不僅是一個(gè)以追求利潤(rùn)最大化為目標(biāo)的經(jīng)濟(jì)體, 而且應(yīng)當(dāng)成為滿足企業(yè)全體成員人文需求的精神家園。在企業(yè)管理者、所有者與員工之間, 員工與員工之間, 除了在本職工作上的通力配合外, 還需要不斷
增加相互之間的親密感與信任感, 努力創(chuàng)造一個(gè)友善、愉快、和諧的氛圍, 使員工擁有極大的滿足感、歸屬感, 能在工作中體味出工作樂(lè)趣。企業(yè)不僅要為員工創(chuàng)造舒適的工作環(huán)境, 為員工及家庭提供物質(zhì)生活保障, 還要尊重員工的精神需求, 特別是為員工設(shè)計(jì)自我發(fā)展、自我實(shí)現(xiàn)的人生舞臺(tái), 充分調(diào)動(dòng)員工的積極性和創(chuàng)造性, 使員工與企業(yè)成為一個(gè)集物質(zhì)利益與精神需求合二為一的命運(yùn)共同體, 使員工自覺(jué)、主動(dòng)地為企業(yè)工作, 為企業(yè)發(fā)展著想, 從而起到事半功倍的效果。所以, 索尼公司總裁盛田昭夫說(shuō): “日本企業(yè)的成功并無(wú)任何秘訣和不可與外人言傳的公式。不是理論, 不是計(jì)劃, 也不是政府政策, 而是人, 只有人才能使企業(yè)獲得成功。
縱觀日本的大量成功的企業(yè)的企業(yè)文化建設(shè),松下公司的企業(yè)文化是日本優(yōu)秀企業(yè)文化的代名詞。松下的企業(yè)文化內(nèi)涵十分豐富,但其中最具特色、給人留下最深刻印象的,還是自來(lái)水哲學(xué)。早在松下電器產(chǎn)業(yè)公司建立之初,其創(chuàng)始人松下幸之助就以自來(lái)水的供給為例,闡述了他的創(chuàng)辦企業(yè)宗旨及經(jīng)營(yíng)信念。他認(rèn)為,松下公司所生產(chǎn)的產(chǎn)品,首先要價(jià)格便宜,廣大消費(fèi)者能買得起,其次要貨源充足,保證市場(chǎng)的大量需求,就好比日常生活中不可缺少的自來(lái)水一樣,既價(jià)格便宜又源源不斷。按照松下的企業(yè)哲學(xué),那就是社會(huì)培育了企業(yè),企業(yè)應(yīng)該滿足社會(huì)的需要。而與此同時(shí),企業(yè)也將得到社會(huì)的酬勞。松下的企業(yè)文化中另一重要層面就是以人為本的經(jīng)營(yíng)理念,這點(diǎn)正是日本企業(yè)文化的最大特點(diǎn)。每當(dāng)新入公司的員工進(jìn)行培訓(xùn)時(shí),經(jīng)營(yíng)者們都說(shuō)這樣一句話:松下公司是制造人才的地方,也同時(shí)制造產(chǎn)品,但在制造產(chǎn)品之前先培育人才??梢钥闯?優(yōu)秀的企業(yè)文化是企業(yè)成功的決定因素。松下公司正是因?yàn)閾碛辛诉@種優(yōu)秀、獨(dú)特的企業(yè)文化,才使企業(yè)經(jīng)營(yíng)獲得了成功。
4.中日企業(yè)文化比較分析
(1)中日企業(yè)文化的共性。
中日兩國(guó)同在亞洲,并且彼此毗鄰,盡管中日兩國(guó)企業(yè)文化的淵源存在著諸多的差異,但是,在社會(huì)結(jié)構(gòu)、倫理道德價(jià)值觀等方面仍具有一致性,這使得中日兩國(guó)企業(yè)有著許多共性文化特征。如日本企業(yè)所倡導(dǎo)的“工業(yè)報(bào)國(guó)”、“團(tuán)結(jié)一致”、“家庭式的美德”、“人和”與“忠誠(chéng)心”,以及團(tuán)隊(duì)精神、家庭式經(jīng)營(yíng)等等,與中國(guó)企業(yè)所奉行和提倡的“富強(qiáng)國(guó)家”、“實(shí)業(yè)救國(guó)”、“科學(xué)救國(guó)”、“愛(ài)廠如家”、“識(shí)大體、顧全局”、“以誠(chéng)相待、以信為本”等等,都或多或少地反映出儒家道德道德的影子。從這點(diǎn)上來(lái)看兩國(guó)企業(yè)文化是共通的。
具體來(lái)說(shuō),中日企業(yè)文化的共性特征表現(xiàn)為:
1.家族化的特性。中日社會(huì)結(jié)構(gòu)都有家族化的共性,這在一定程度上形成了中日企業(yè)的經(jīng)營(yíng)也都具有家族色彩。日本企業(yè)的家族式或泛家族式經(jīng)營(yíng)、年功序列制、終身雇傭制,中國(guó)傳統(tǒng)計(jì)劃經(jīng)濟(jì)下國(guó)營(yíng)企業(yè)的“鐵飯碗”等等,都帶有家族特征。由于家族是一個(gè)穩(wěn)定的整體,不需要流動(dòng),是與生俱來(lái)的。這就促使企業(yè)員工終身全力在企業(yè)內(nèi)部經(jīng)營(yíng),缺乏流動(dòng)性。員工把企業(yè)視為了包含濃厚道德意識(shí)的“第二個(gè)家庭”企業(yè)的經(jīng)營(yíng)者被擬化為社會(huì)家庭的家長(zhǎng)。
2.穩(wěn)定性。
社會(huì)結(jié)構(gòu)的家族化保障了中日企業(yè)的穩(wěn)定,但傳統(tǒng)倫理價(jià)值觀的束縛卻使這種穩(wěn)定走向了極至。中日傳統(tǒng)倫理價(jià)值觀均受中國(guó)傳統(tǒng)儒家思想影響較深,諸如仁、義、禮、智、忠、孝、和等行為準(zhǔn)則已深入人心。特別是在日本社會(huì)中,“忠”被放到倫理道德準(zhǔn)則的金字塔尖,是涵蓋一切倫理標(biāo)準(zhǔn)的最高美德。員工進(jìn)入公司,有一種對(duì)公司感恩報(bào)得,從一而終的感情。另外,這種忠誠(chéng)還表現(xiàn)為對(duì)企業(yè)文化存續(xù)的認(rèn)同,使得企業(yè)文化持久延續(xù)、難以變異。中國(guó)企業(yè)也有同樣的特點(diǎn),“鐵飯碗”的觀念長(zhǎng)期使職工思想穩(wěn)定,樂(lè)知天命,企業(yè)領(lǐng)導(dǎo)“不求無(wú)功但求無(wú)過(guò)”的消極心態(tài),又在一定程度上促使企業(yè)文化遵循其應(yīng)有的模式一成不變。中古傳統(tǒng)文化中的“中庸”、“平衡”也在引導(dǎo)企業(yè)追求平穩(wěn)、中性的發(fā)展,既不激進(jìn)也不萎縮,這在一
定程度上強(qiáng)化了企業(yè)文化的穩(wěn)定性特征。
3.情感性、微妙性和親密性。
由于中日企業(yè)文化都有視企業(yè)為大家族的特點(diǎn),所以其中必然存在家族內(nèi)部“和為貴”、“仁愛(ài)”、“禮讓”等特征。具體來(lái)說(shuō),中國(guó)企業(yè)文化以儒家倫理為核心,以情感為基礎(chǔ),注重感情投資,倡導(dǎo)諸如“關(guān)心職工生活”、“互尊互信互助互諒”等等。日本企業(yè)常向員工昭示“禮貌謙讓”、“感恩戴德”、“待人親切”等信條,企業(yè)主、廠長(zhǎng)、經(jīng)理等扮演著嚴(yán)父慈母的角色,并通過(guò)自身示范和講解,向員工傳播企業(yè)經(jīng)營(yíng)哲學(xué)和人生價(jià)值觀。
當(dāng)然,作為兩個(gè)相互毗鄰的國(guó)家,其企業(yè)文化的共性特征遠(yuǎn)不止以上所列舉的幾種,只不過(guò)它們是兩國(guó)企業(yè)文化中最具特點(diǎn)、最為明顯的共性特征。這種共性特征是中日兩國(guó)企業(yè)交流的基礎(chǔ),日本有豐田、松下這樣的大公司,中國(guó)也有聯(lián)想、華為、海爾這樣成功的企業(yè),有這樣的企業(yè)文化共性基礎(chǔ),中國(guó)企業(yè)到日本發(fā)展或者說(shuō)日本企業(yè)到中國(guó)發(fā)展就更有成功實(shí)現(xiàn)的可能性。你比如說(shuō)華為到日本發(fā)展,派出中國(guó)的員工,招聘日本員工,建廠生產(chǎn)產(chǎn)品,兩國(guó)員工或管理者需要交流、溝通,由于有一些共性文化的基礎(chǔ),溝通起來(lái)就方便自然很多,減少很多管理成本,我們很容易理解日本企業(yè)的家族化特性,因?yàn)槲覀冎袊?guó)企業(yè)也有這種特點(diǎn),這樣,日本企業(yè)的終身雇傭制、家族式經(jīng)營(yíng)我們中國(guó)公司就可以繼承,完全沒(méi)必要引入新的機(jī)制,同時(shí)在與其他企業(yè)的交流中,我們也能根據(jù)其文化特點(diǎn)推斷它們的一些經(jīng)營(yíng)戰(zhàn)略,這樣對(duì)于中國(guó)企業(yè)參與與日本企業(yè)的競(jìng)爭(zhēng)或合作都有利。所謂知彼知己百戰(zhàn)不殆,正是這個(gè)道理。
對(duì)于中日兩國(guó)更多的中小型企業(yè)來(lái)說(shuō),出口進(jìn)口是中日兩國(guó)企業(yè)最重要的交流方式,這貌似與企業(yè)文化沒(méi)什么關(guān)系,其實(shí)不然,產(chǎn)品設(shè)計(jì)、產(chǎn)品促銷往往也體現(xiàn)著一個(gè)企業(yè)的文化,以產(chǎn)品促銷來(lái)說(shuō),從本質(zhì)上講,產(chǎn)品的促銷溝通過(guò)程也就是幫助顧客認(rèn)知產(chǎn)品、改善產(chǎn)品形象的過(guò)程,從而也是提升產(chǎn)品競(jìng)爭(zhēng)力的過(guò)程。在溝通過(guò)程中,準(zhǔn)確地對(duì)目標(biāo)顧客的文化心理的把握,以及對(duì)其意識(shí)深層中的愿望的迎合,往往可以使產(chǎn)品在廣大溝通受眾的心目中形成奪目的暈輪,從而使本企業(yè)產(chǎn)品輕而易舉地?fù)屨嫉筋櫩托撵`位置的制高點(diǎn)。中國(guó)企業(yè)出口產(chǎn)品到日本,因?yàn)橛衅髽I(yè)文化的共性根基在,所以我們企業(yè)設(shè)計(jì)產(chǎn)品、在日本進(jìn)行促銷就有優(yōu)勢(shì),產(chǎn)品賣得好,企業(yè)就能發(fā)展更好。當(dāng)然,這種優(yōu)勢(shì)在在日本對(duì)中國(guó)的出口也同樣體現(xiàn)。日本貿(mào)易振興機(jī)構(gòu)16日公布的“2011年上半年(1~6月)日中貿(mào)易”數(shù)據(jù)顯示,貿(mào)易總額為1631億5101萬(wàn)美元,比上年同期增長(zhǎng)17.9%,創(chuàng)上半年貿(mào)易總額的歷史新高。這么大的中日貿(mào)易額也暗示這兩國(guó)企業(yè)文化中強(qiáng)勁的共性特征。
研究中日企業(yè)文化的共性,以這種共性為基礎(chǔ),增進(jìn)相互之間的了解,加強(qiáng)相互之間的交流,為兩國(guó)企業(yè)提供更大的發(fā)展空間,兩國(guó)企業(yè)要把握好這樣的契機(jī),積極需求與對(duì)方的交流,追求企業(yè)的長(zhǎng)遠(yuǎn)發(fā)展,實(shí)現(xiàn)兩國(guó)企業(yè)的雙贏。
(2)中日企業(yè)文化的差異性。
盡管中日企業(yè)文化深受傳統(tǒng)文化中家族化、儒家倫理價(jià)值觀的影響,表現(xiàn)出一定的相似特征。但是由于企業(yè)文化淵源上的諸多不同,也導(dǎo)致兩國(guó)企業(yè)文化在一定程度上存在著差異。具體表現(xiàn)為:
1.個(gè)體與群體
中日社會(huì)結(jié)構(gòu)都表現(xiàn)出家族化的特點(diǎn),其企業(yè)文化理念中群體意識(shí)都很強(qiáng)。但是在企業(yè)內(nèi)部,個(gè)體價(jià)值觀、個(gè)性自由的體現(xiàn)卻差異明顯。日本人很早就注意到個(gè)人主義在某些方面的重要的作用。但他們也清醒地意識(shí)到,極端的個(gè)人主義將會(huì)導(dǎo)致社會(huì)和組織協(xié)調(diào)的困難。只有將個(gè)人主義融入群體和諧之中,個(gè)人在群體中的價(jià)值才能得以充分的發(fā)揮。于是,他們將個(gè)
人主義與東方文化巧妙融合在一起,形成了既重視個(gè)人表現(xiàn),又講究群體和諧的獨(dú)具特色的日本式“個(gè)人主義”。在對(duì)待群體與個(gè)體的關(guān)系問(wèn)題上,中國(guó)文化強(qiáng)調(diào)整體和諧統(tǒng)一,但卻忽視個(gè)性價(jià)值表現(xiàn)。特別是在傳統(tǒng)的中央集權(quán)計(jì)劃經(jīng)濟(jì)的氛圍中,中國(guó)企業(yè)“集體主義”中的統(tǒng)一、整體的一面被無(wú)限夸大,群體與個(gè)體被對(duì)立起來(lái),對(duì)外缺乏競(jìng)爭(zhēng)與協(xié)作精神,最終形成中國(guó)企業(yè)內(nèi)部活性的不足。
2.物質(zhì)與精神。
中日均深受儒家思想的影響,但兩國(guó)對(duì)儒家思想的認(rèn)識(shí)卻并不相同。中國(guó)把“仁”作為核心,常有“重義輕利”之舉,即過(guò)分的追求名分道德,正當(dāng)?shù)奈镔|(zhì)利益要求被視為“利欲熏心”。這種輕視物質(zhì)利益的傳統(tǒng)觀念導(dǎo)致了我國(guó)企業(yè)管理的激勵(lì)結(jié)構(gòu)失衡,管理者一味重視“精神激勵(lì)”,而輕視“物質(zhì)激勵(lì)”對(duì)發(fā)揮員工能動(dòng)性的作用。當(dāng)西方現(xiàn)代物質(zhì)利益觀念流入中國(guó)時(shí),“傳統(tǒng)文化中提倡倫理中心的原則又與之發(fā)生了沖突,又出現(xiàn)了片面追求物質(zhì)刺激的傾向,從一個(gè)極端走向另一個(gè)極端”。這反映出中國(guó)企業(yè)文化中對(duì)“義”和“利”理解的不足。日本人習(xí)慣于把外來(lái)文化加以“日本式”的改造。在對(duì)待中國(guó)傳統(tǒng)儒家文化方面,他們既看到了儒家文化中“重義輕利”思想對(duì)企業(yè)發(fā)展和員工激勵(lì)的局限性,也認(rèn)識(shí)到在一定條件下中國(guó)儒家文化中節(jié)欲、勤奮的觀念,對(duì)企業(yè)發(fā)展壯大和員工激勵(lì)的積極作用。他們巧妙的利用中國(guó)傳統(tǒng)文化的這種雙重性,把獲取物質(zhì)利益視為人的正常需求,用物質(zhì)利益激勵(lì)員工去努力工作,同時(shí)教育員工應(yīng)勤儉節(jié)約,不必奢侈浪費(fèi)。這樣,“他們既接受了中國(guó)儒教崇尚簡(jiǎn)樸、勤勞的美德,又巧妙地避開(kāi)了中國(guó)文化中抑制物質(zhì)欲望的觀念”。二戰(zhàn)后,日本工人的生活水平遠(yuǎn)遠(yuǎn)低于歐美國(guó)家的工人,但個(gè)人儲(chǔ)蓄率卻遠(yuǎn)遠(yuǎn)高于其他發(fā)達(dá)國(guó)家。正是日本的高儲(chǔ)蓄率,幫助了日本戰(zhàn)后經(jīng)濟(jì)的迅速發(fā)展。
對(duì)于中日企業(yè)文化差異的比較中,我們可以看出中國(guó)企業(yè)文化中的局限性,中國(guó)的市場(chǎng)經(jīng)濟(jì)發(fā)展并不成熟,日本經(jīng)歷二戰(zhàn)后迅速崛起,已形成了成熟市場(chǎng)經(jīng)濟(jì)體制,其企業(yè)文化也相對(duì)中國(guó)更為成熟,這使我們應(yīng)該認(rèn)識(shí)到的。認(rèn)識(shí)到這種差異是中日兩國(guó)企業(yè)文化相互學(xué)習(xí)的基礎(chǔ),特別是對(duì)中國(guó)而言,這種差異為我們的企業(yè)向日本企業(yè)學(xué)習(xí)提供了契機(jī),我們要學(xué)習(xí)日本企業(yè)如何將個(gè)人主義與集體主義相結(jié)合來(lái)發(fā)揮企業(yè)文化巨大的引導(dǎo)作用,將物質(zhì)激勵(lì)與精神激勵(lì)相結(jié)合來(lái)發(fā)揮巨大的激勵(lì)作用,學(xué)習(xí)如何將西方先進(jìn)的企業(yè)管理理論與國(guó)內(nèi)傳統(tǒng)文化相結(jié)合。。。這都是我們企業(yè)想進(jìn)一步發(fā)展必須去做的,去學(xué)習(xí)改進(jìn)的。
5.結(jié)語(yǔ)
企業(yè)文化的機(jī)能就在于給予企業(yè)共同的思維和行為模式據(jù)此能夠統(tǒng)一企業(yè)內(nèi)部,形成巨大的“合力”,發(fā)揮出“整體效應(yīng)”,企業(yè)文化的建設(shè)是現(xiàn)代企業(yè)走上長(zhǎng)遠(yuǎn)發(fā)展道路的基石,企業(yè)文化不是一朝一夕能形成的,它需要企業(yè)的長(zhǎng)久積累,通過(guò)學(xué)習(xí)先進(jìn)的企業(yè)文化企業(yè)可以為自己企業(yè)注入新的文化基因,不斷升級(jí)改造原有文化中不足的方面,以此支撐為企業(yè)的長(zhǎng)久發(fā)展。通過(guò)中日企業(yè)文化的詳細(xì)比較,一方面,我們能看到兩國(guó)企業(yè)文化中共性的特征,這些共性使我們兩國(guó)企業(yè)交流的基礎(chǔ),也是交流的機(jī)會(huì),它能促進(jìn)兩國(guó)經(jīng)濟(jì)上的發(fā)展,為雙方企業(yè)提供契機(jī),我們中國(guó)企業(yè)要把握好這樣的機(jī)會(huì);另一方面,我們也能發(fā)現(xiàn)兩國(guó)企業(yè)文化中的差異要素,差異的存在有其必然性也有其要性,因?yàn)樗梢栽鲞M(jìn)雙方的優(yōu)勢(shì)互補(bǔ),只要運(yùn)用得當(dāng),對(duì)方優(yōu)秀的企業(yè)文化完全可以用來(lái)完善自己企業(yè)文化建設(shè)中的不足。整體上看,日本的企業(yè)文化建設(shè)更有其先進(jìn)之處,日本企業(yè)在發(fā)展過(guò)程中,積極吸收西方先進(jìn)的管理經(jīng)驗(yàn),并結(jié)合自身?xiàng)l件,形成日本獨(dú)特的企業(yè)文化,是這種企業(yè)文化支撐著日本企業(yè)的長(zhǎng)足發(fā)展。所以才有了世界著名的豐田、索尼、松下……..中國(guó)企業(yè)最缺少的還是學(xué)習(xí)力,企業(yè)文化建設(shè)尤為如此,我們很多企業(yè)發(fā)展到一定程度后就固步自封了,沒(méi)有學(xué)習(xí)的動(dòng)力了,企業(yè)文化沒(méi)有新的基因注入,老的模式不能適應(yīng)市場(chǎng)的變化,這樣的企業(yè)必然缺乏進(jìn)一步發(fā)展的動(dòng)力。中國(guó)的企業(yè)要認(rèn)識(shí)到這一點(diǎn),這也能從日本文化建設(shè)中學(xué)習(xí)來(lái),要將這種學(xué)習(xí)力融入到企業(yè)文化中,這是根本,這種學(xué)習(xí)能力注入企業(yè)文化中,必然引導(dǎo)企業(yè)積極尋求與外界交流,這樣才能學(xué)到先進(jìn)的管理經(jīng)驗(yàn),將其引入企業(yè)文化建設(shè)中,讓企業(yè)文化保持一種“動(dòng)態(tài)平衡”,動(dòng)態(tài)是相對(duì)于外界環(huán)境變化,平衡是相對(duì)于企業(yè)已建立的文化。只有如此,我們的企業(yè)文化建設(shè)才能適應(yīng)新經(jīng)濟(jì)條件下市場(chǎng)經(jīng)濟(jì)的不斷發(fā)展,只有如此,企業(yè)文化才能成為促進(jìn)企業(yè)不斷發(fā)展的重要力量。
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第四篇:中日茶文化的不同發(fā)展方向分析
中日茶文化的不同發(fā)展方向分析
一、中日兩國(guó)茶道觀念的反差及其原因
所謂茶藝,就是泡茶的技藝和品嘗的藝術(shù)。其中又以泡茶的技藝為主體,因?yàn)橹挥信莺貌柚蟛耪劦蒙掀凡?。但是,品茶是茶藝的最后環(huán)節(jié),如果沒(méi)有品嘗,泡茶就成了無(wú)的放矢,泡的目的本來(lái)就是為了要品。而且,只有通過(guò)品嘗過(guò)程中的各種感受和遐想,產(chǎn)生審美的愉悅,才有可能進(jìn)入詩(shī)化的境界,達(dá)到哲理的高度,才可能升華為茶道。
茶道就是在茶藝操作過(guò)程中所追求和體現(xiàn)的精神境界和道德風(fēng)尚。它經(jīng)常和人生處世哲學(xué)結(jié)合起來(lái),成為茶人們的行為準(zhǔn)則和道德要求。故中國(guó)古代也將茶道精神稱作茶德,如唐代的劉貞亮就提出?茶十德?:?以茶散悶氣,以茶驅(qū)腥氣,以茶養(yǎng)生氣,以茶除癘氣,以茶利禮仁,以茶表敬意,以茶嘗滋味,以茶養(yǎng)身體,以茶可雅志,以茶可行道。?其中?利禮仁?、?表敬意?、?可雅志?、?可行道?等就是屬于茶道精神范疇。劉貞亮所說(shuō)的?可行?之?道?,是指道德教化的意思。即飲茶可以有助于社會(huì)道德風(fēng)尚的培育,明確地以理性語(yǔ)言將茶道的功能提升到最高層次,可視為中國(guó)古代茶道精神的最高概括。
中國(guó)的茶道精神至少可以追溯到西晉杜育的《?F賦》,但是直到唐代中期才出現(xiàn)?茶道?概念,最早見(jiàn)于詩(shī)僧皎然的《飲茶歌?誚崔石使君》。詩(shī)中描寫(xiě)了飲茶的三個(gè)層次:?一飲滌昏寐,情思朗爽滿天地。二飲清我神,忽如飛雨灑輕塵。三飲便得道,何須苦心破煩惱。?其第三層次就是飲茶的最高層次,即品茶悟道,達(dá)此境界一切煩惱苦愁自然煙消云散,心中毫無(wú)芥蒂。該詩(shī)的最后兩句是?孰知茶道全爾真,唯有丹丘得如此。?意思是世上有誰(shuí)能真正全面地了解茶道的真諦呢?看來(lái)只有仙人丹丘才能做到這一點(diǎn)。這是茶文化史上首次出現(xiàn)的?茶道?概念,其內(nèi)涵與詩(shī)中的?三飲便得道?相呼應(yīng),也與現(xiàn)代對(duì)?茶道?的界定較為接近,在中國(guó)乃至世界茶道發(fā)展史上都具有重大意義。
但令人難以理解的是,自此之后,在中國(guó)古代茶書(shū)中卻不見(jiàn)?茶道?一詞,直至明代張?jiān)吹摹恫桎洝凡盘岬?茶道:造時(shí)精,藏時(shí)燥,泡時(shí)潔,茶道盡矣。?但這里的?茶道?僅是一些技術(shù)要求,并無(wú)品茗悟道等精神層面的東西,既與皎然的?茶道?也與現(xiàn)代的?茶道?精神相去甚遠(yuǎn)。在張?jiān)粗髷?shù)百年間的明清茶書(shū)中,又不見(jiàn)?茶道?一詞。個(gè)中原因?qū)嵲谀腿藢の?。在我看?lái),恐怕與茶圣陸羽的影響有關(guān)。
皎然是唐代著名的茶人和詩(shī)僧,也是陸羽的摯友。他大陸羽13歲,是忘年之交。他對(duì)茶道的理念陸羽定然了解。但是盡管陸羽的《茶經(jīng)》中涉及(或者說(shuō)流露)了一點(diǎn)茶道精神的內(nèi)容,但卻沒(méi)有出現(xiàn)?茶道?一詞,也沒(méi)有正面敘述茶道精神的段落或詞句。顯然,陸羽沒(méi)有接受皎然?茶道?的觀念,他在《茶經(jīng)》中重點(diǎn)闡述的是煮茶技藝(茶藝)和對(duì)茶湯的觀賞,對(duì)茶具的實(shí)用性和藝術(shù)美非常重視,但沒(méi)有從?形而上?角度來(lái)考慮茶道問(wèn)題。茶圣的《茶經(jīng)》不談茶道,后來(lái)的茶書(shū)也不談茶道問(wèn)題。如與陸羽同時(shí)的裴汶在《茶述》中就已經(jīng)提到茶的功能?其性精清,其味浩潔,其用滌煩,其功致和。?這已涉及到茶道的基本精神,但是就是沒(méi)有歸納為?茶道?一詞。又如宋徽宗趙佶的《大觀茶論》中也涉及到茶道精神:?祛襟滌滯,致清導(dǎo)和,則非庸人孺子可得而知矣。中淡閑潔,韻高致靜,則非遑遽之時(shí)可得而好尚矣。?可以說(shuō),?致清導(dǎo)和?、?韻高致靜?是對(duì)中國(guó)茶道基本精神的高度概括。顯然,趙佶繼承、發(fā)展了裴汶的觀點(diǎn),然而書(shū)中也沒(méi)有出現(xiàn)?茶道?一詞,可見(jiàn),他也沒(méi)有接受皎然的理念。既然號(hào)稱茶圣陸羽的《茶經(jīng)》和作為皇帝趙佶的《大觀茶論》都不提?茶道?,往后的茶書(shū)作者大多是官僚地主出身,都是一些保守成性的儒生,只會(huì)蕭規(guī)曹隨,更不會(huì)獨(dú)辟蹊徑去探討什么茶道問(wèn)題。
中國(guó)文人真正接近于揭示茶道實(shí)質(zhì)的是明末清初的杜浚,他在《茶喜》一詩(shī)的序言中曾經(jīng)指出:?夫予論茶四妙:曰湛、曰幽、曰靈、曰遠(yuǎn)。用以澡吾根器,美吾智意,改吾聞見(jiàn),導(dǎo)吾杳冥。?①
所謂茶之四妙,是說(shuō)茶藝具有四個(gè)美妙的特性。?湛?是指深湛、清湛;?幽?是指幽靜、幽深;?靈?是指靈性、靈透;?遠(yuǎn)?是指深遠(yuǎn)、悠遠(yuǎn)。都是與飲茶時(shí)生理上的需求無(wú)關(guān),而是品茶意境上的不同層面,是對(duì)茶道精神的一種概括。所謂?澡吾根器?是說(shuō)品茶可以使自己的道德修養(yǎng)更高尚。?美吾智意?是說(shuō)可以使自己的學(xué)識(shí)智慧更完美。?改吾聞見(jiàn)?是說(shuō)可以開(kāi)闊和提高自己的視野。?導(dǎo)吾杳冥?則是使自己徹悟人生真諦進(jìn)入一個(gè)空靈的仙境。這正是現(xiàn)代茶人們所要追求的茶道精神和最高境界??梢哉f(shuō)杜浚已經(jīng)碰撞到了茶道的大門,可惜的是他也未能跨過(guò)這道門檻,因?yàn)樗矝](méi)有接受?茶道?的概念,他所概括的?論茶四妙?也未得到后人的重視和弘揚(yáng),真是一件非常遺憾的事情。
縱觀中國(guó)古代茶學(xué)史,出現(xiàn)了眾多的茶書(shū),其書(shū)名有《茶經(jīng)》、《茶述》、《茶譜》、《茶錄》、《茶論》、《茶說(shuō)》、《茶考》、《茶話》、《茶疏》、《茶解》、《茶董》、《茶集》、《茶乘》、《茶譚》、《茶箋》等等,就是沒(méi)有一本叫《茶道》,也沒(méi)有一本茶書(shū)中有專門談?wù)?茶道?的章節(jié)。反觀此時(shí)的日本,茶道已經(jīng)發(fā)展到很成熟的地步。至少到了16世紀(jì)后期,日本茶道高僧千利休就已集茶道之大成,制定出茶道的基本精神茶道四規(guī):和、敬、清、寂,一直沿襲至今,奉為圭桌。兩相對(duì)照,確實(shí)反差很大。茶道的源頭的確在中國(guó),?茶道?一詞也是最早誕生于中國(guó),然而自唐代以后,中國(guó)歷史上的茶道觀念并不發(fā)達(dá),至少在近代以前是如此。這是不爭(zhēng)的事實(shí),我們應(yīng)該有勇氣承認(rèn)這一點(diǎn)。
那么,中日兩國(guó)在茶道方面為何會(huì)有如此之大的反差呢?依我之見(jiàn),是由于兩國(guó)的歷史文化背景不同、茶道在社會(huì)政治生活中的地位不同等諸多原因造成的。至少有三個(gè)方面值得注意:
一是將中國(guó)的飲茶方式引入日本的是一批來(lái)中國(guó)留學(xué)的日本僧人(遣唐僧),他們是在中國(guó)的佛教寺廟中將佛門茶事學(xué)回去的,并且將它們作為佛門清規(guī)的組成部分一直在佛門嚴(yán)格的傳承下來(lái)。日本歷史上的茶道大師都是聲名卓著的大德高僧,不但賦于日本茶道以濃郁的佛教色彩,也增強(qiáng)了日本茶道的權(quán)威性,特別是自千利休之后,形成了嫡子繼承的?家元制?,使其權(quán)威性更為穩(wěn)固持久。
二是日僧來(lái)中國(guó)留學(xué)之時(shí),中國(guó)的飲茶方式已經(jīng)相當(dāng)成熟,引入日本之后是作為一種高級(jí)文化形態(tài)首先在皇室貴族之間流傳,長(zhǎng)期為統(tǒng)治階級(jí)所專享,后來(lái)才逐漸傳播到民間,上行下效,原已成熟定型的飲茶方式和清規(guī)戒律也為民間所全盤接受,形成社會(huì)共識(shí)。三是日本統(tǒng)治階級(jí)對(duì)茶道的重視利用,加強(qiáng)了茶道與權(quán)力的關(guān)系。如15世紀(jì)的幕府第八大將軍足利義正,讓高僧村田珠光撰寫(xiě)茶湯法則《心之文》和其他茶故事,在寺廟中推行村田珠光所提倡的禪院式茶禮,竭力以飲茶方式來(lái)改善人際關(guān)系,并且祈禱天下太平。后來(lái)的統(tǒng)治者織田信長(zhǎng)及豐臣秀吉更將茶道作為一種新型文化來(lái)擴(kuò)大自己的影響,企圖在群雄爭(zhēng)霸的戰(zhàn)國(guó)時(shí)代一統(tǒng)天下。因此他任命千利休為專職茶頭,要他繼續(xù)制定和完善茶道的儀式和規(guī)則。豐臣秀吉還常在重大政治活動(dòng)前后舉行規(guī)模盛大的茶會(huì),進(jìn)一步擴(kuò)大了茶道的社會(huì)影響。因此,在一定意義上,茶道成為日本統(tǒng)治者駕馭民眾的一種思想武器。茶道在日本社會(huì)中能產(chǎn)生巨大影響就不足為奇了。
①杜浚:《變雅堂集》詩(shī)卷3。
但是,這種現(xiàn)象在中國(guó)不存在.中國(guó)的茶文化是在民間土壤上發(fā)育起來(lái),逐步成熟。在中國(guó)是先有庶民茶文化,后來(lái)才被統(tǒng)治階級(jí)所接受,形成宮廷貴族茶文化。民間的飲茶風(fēng)習(xí)之盛已達(dá)到?茶為食物,無(wú)異米鹽?、?遠(yuǎn)近同俗?、?難舍斯須?、?田閭之間,嗜好尤甚?(《舊唐書(shū)?李玨傳》)的程度,這是任何統(tǒng)治者都不可能剝奪的。茶葉已成為百姓們?nèi)粘I?開(kāi)門七件事之一?的必需品,以茶提神解乏,以茶養(yǎng)生,以茶自?shī)?,以茶敬客,以茶?zèng)友,以茶定親,以茶祭祀等等,均早已形成風(fēng)俗習(xí)慣,無(wú)需教導(dǎo),無(wú)需勸說(shuō),人們自然而然會(huì)遵守。整日里為生活忙碌奔波的勞苦大眾,不可能有更高層次的文化追求,不會(huì)自覺(jué)地去追求什么茶道精神。
有很高文化修養(yǎng)的文人雅士們則醉心于品茗技藝的探研,他們都具有詩(shī)人的浪漫氣質(zhì),品茶時(shí)追求詩(shī)意的審美境界,很少人會(huì)從社會(huì)學(xué)和哲學(xué)的角度去考慮茶道精神問(wèn)題。古代的官吏們都是典型的儒家子弟,歷來(lái)遵循儒家的處世原則,?達(dá)則兼濟(jì)天下,窮則獨(dú)善其身?。仕途得意時(shí)忙于政務(wù),自然無(wú)暇來(lái)過(guò)問(wèn)茗飲瑣事,倒霉失意時(shí)則隱退山林不問(wèn)政事,只以茶來(lái)排憂解悶,尋求解脫,不會(huì)過(guò)問(wèn)社會(huì)道德教化問(wèn)題。而中國(guó)的佛門僧侶向來(lái)不干預(yù)寺外塵俗世界的事務(wù),他們出來(lái)參加茶事活動(dòng),也都是以文人的身份出現(xiàn),除了個(gè)別像皎然那樣的大德高僧之外,很少有人會(huì)去考慮茶道問(wèn)題。
至于歷代最高統(tǒng)治者的皇帝們,似乎從來(lái)沒(méi)有考慮過(guò)要賦于茶事活動(dòng)以崇高使命,雖然他們也經(jīng)常以茶宴、賜茶的方式來(lái)招待群臣,但僅是作為宣揚(yáng)皇威籠絡(luò)臣下的宮廷禮儀而已,并未具有太多的道德教化色彩。在他們看來(lái),有博大精深的儒家學(xué)說(shuō)足以成為統(tǒng)一全國(guó)民眾思想的強(qiáng)大武器,區(qū)區(qū)茶道,實(shí)在是無(wú)足掛齒。這是豐臣秀吉們統(tǒng)治的日本所不可能具備的。儒道大于茶道,這可能就是中國(guó)茶道觀念不發(fā)達(dá)的最重要原因。
二、中國(guó)茶藝的發(fā)展歷程
對(duì)于中國(guó)的茶人來(lái)說(shuō),飲茶是一門生活藝術(shù),著重追求品茶時(shí)的藝術(shù)情趣,而不是缺乏詩(shī)意的清規(guī)戒律。即使是講究?禪茶一味?,也是側(cè)重以禪意來(lái)提升品茶的詩(shī)化境界,并不強(qiáng)化宗教色彩。
中國(guó)人飲茶飲了幾千年,開(kāi)始是將茶作為食物,然后作為藥物,后來(lái)成為飲料,至遲從西晉開(kāi)始,就將飲茶發(fā)展為一門生活藝術(shù)。作為飲料的茶湯,主要的功用是解渴、提神、解乏、保健,基本上是為了滿足人們生理上的需要。但是西晉詩(shī)人張載的《登成都白菟樓》中有?芳荼冠六清,滋味播九區(qū)?詩(shī)句,已經(jīng)在描寫(xiě)茶葉的芳香和滋味,可見(jiàn)當(dāng)時(shí)人們飲茶開(kāi)始講究欣賞香味,已經(jīng)不再是單純的滿足生理上的需要了。杜育的《拜賦》除了描寫(xiě)茶葉生長(zhǎng)環(huán)境、采摘情況之外,還涉及用水、茶具、茶湯泡沫以及飲茶功效等,可以看出當(dāng)時(shí)飲茶已經(jīng)有了一套技術(shù)要求。特別是其中描寫(xiě)茶湯泡沫的幾句:?惟茲初成,沫沉華浮。煥如積雪,嘩如春藪。?意思是剛煎點(diǎn)的茶湯,茶末下沉,泡沫上浮,其光彩白如積雪,亮麗像春天的花卉。如此重視欣賞茶湯泡沫的色彩和形狀,則當(dāng)時(shí)必有培育茶湯泡沫的技術(shù),據(jù)關(guān)劍平先生的研究,南北朝時(shí)期就已經(jīng)采用茶筅攪打茶湯使之產(chǎn)生泡沫。[1](p306)而對(duì)茶湯泡沫的欣賞則完全是為了滿足人們的審美要求,飲茶就具有藝術(shù)性了。至于《?F賦》的最后兩句:?調(diào)神和內(nèi),倦解慵除。?描寫(xiě)飲茶的功效,可視為中國(guó)茶道精神的萌芽。
中國(guó)茶藝的成熟是在唐代。這是因?yàn)橛幸淮笈娜私槿氩枋禄顒?dòng),撰寫(xiě)了眾多的茶詩(shī),提升了飲茶的文化品位,使品茗成為一種藝術(shù)享受。其中如孟浩然、王昌齡、李白、皎然、盧仝、白居易、元稹、杜牧、齊己、劉禹錫、皮日休、陸龜蒙等人,都留下許多膾炙人口的茶詩(shī),對(duì)唐代品茶藝術(shù)的發(fā)展產(chǎn)生了積極的影響。唐代詩(shī)人們品茶,已經(jīng)超越解渴、提神、解乏、保健等生理上的滿足,著重從審美的角度來(lái)品賞茶湯的色、香、味、形,強(qiáng)調(diào)心靈感受,追求達(dá)到天人合一的最高境界,這從他們的眾多茶詩(shī)中可以得到印證。[2](P252—254)除了前述皎然茶詩(shī)的?三飲?之外,盧仝在《走筆謝孟諫議寄新茶》中描寫(xiě)的?七碗茶?也很典型:?一碗喉吻潤(rùn),兩碗破孤悶。三碗搜枯腸,惟有文字五千卷。四碗發(fā)輕汗,平生不平事,盡向毛孔散。五碗肌骨輕,六碗通仙靈。七碗吃不得也,惟覺(jué)兩腋習(xí)習(xí)清風(fēng)生。?這樣的品茶已經(jīng)不再把茶湯當(dāng)做是一種飲料,而是成為藝術(shù)欣賞的對(duì)象或者是詩(shī)人們審美活動(dòng)的一種載體??梢?jiàn),我國(guó)的品茗藝術(shù)至少在唐代中期已進(jìn)入成熟的時(shí)期。因此,陸羽的《茶經(jīng)》對(duì)此進(jìn)行了全面總結(jié)。
陸羽將唐代的煮茶技藝總結(jié)為:?一曰造,二曰別,三曰器,四曰火,五曰水,六曰炙,七曰末,八曰煮,九曰飲?(《茶經(jīng)?六之飲》),就是茶葉采造、鑒別、茶具、用火、用水、炙茶、碾末、煮茶、飲用等九個(gè)方面。唐代盛行煮茶法,據(jù)《茶經(jīng)?五之煮》記載是先將茶餅放在炭火上烘炙,兩面都要烘到起小泡如蛤蟆背狀,然后趁熱用紙囊包起來(lái),不讓精華之氣散失。等茶餅冷卻后將它碾磨成茶末,再篩成茶粉。等水燒到冒起如魚(yú)眼大小的水珠同時(shí)微微發(fā)出聲響,稱為一沸,要放點(diǎn)食鹽進(jìn)去調(diào)味。等水燒到鍋邊如涌泉連珠時(shí)為二沸,先舀出一瓢滾水備用,再用竹笑環(huán)擊湯心,然后將茶粉從中間倒下去。過(guò)一會(huì)兒鍋里的水翻滾為三沸,將就剛才舀出的那瓢水倒下去,此時(shí)鍋里的茶湯會(huì)產(chǎn)生美麗的泡沫,稱為?湯華?。這時(shí)茶湯就算煮好,分別舀人茶碗中敬奉賓客。
陸羽提倡的這套煮茶程序是:炙茶、碾茶、羅(篩)茶、燒水、一沸時(shí)加鹽、二沸時(shí)舀水、環(huán)擊湯心、倒人茶粉、三沸點(diǎn)水、分茶人碗、敬奉賓客。整套程序是相當(dāng)完整的,其技術(shù)要求也是頗為明確、具體。陸羽特別重視煮茶時(shí)要培育出美麗的?沫餑?。稱之為?湯之華?,華者花也。指的是茶湯表面上浮泛的一層細(xì)密均勻的白色泡沫:?沫餑,湯之華也。華之薄者曰沫,厚者曰餑,細(xì)輕者曰花。如棗花漂漂然于環(huán)池之上,又如回潭曲渚青萍之始生,又如晴天爽朗有浮云鱗然。其沫者若綠錢浮于水湄,又如菊英墮于尊俎之中。餑者以滓煮之。及沸,則重華累沫,皤皤然若積雪耳?!?F賦》所謂‘煥如積雪,曄若春藪,有之’。?陸羽用了棗花、青萍、鱗云、綠錢、菊英、積雪、春藪等一連串美麗的名詞來(lái)形容茶湯的泡沫,可見(jiàn)他對(duì)此是何等的重視。其實(shí),唐代的詩(shī)人們也都很欣賞湯華的,常常用乳、花等美好字眼來(lái)形容:?沫下麴塵香,花浮魚(yú)眼沸?(白居易《睡后茶興憶楊同洲》)、?銚煎黃蕊色,碗轉(zhuǎn)麴塵花?(元稹《一字至七字詩(shī)?茶》)、?白云滿碗花徘徊?(劉禹錫《西山蘭若試茶歌》)、?白花浮光凝碗面?、?碧沉霞腳碎,香泛乳花輕?(曹鄴《故人寄茶》)、?惟憂碧粉散,常見(jiàn)綠花生?(鄭遨《茶詩(shī)》)……總之,唐代煮茶并不是只煮出一鍋普通的茶水,而是十分講究培育茶湯面上的沫餑(湯華)。可以想象一下,唐代流行用青綠色的秘色瓷茶碗,茶湯是金黃色(杜牧《茶山詩(shī)》:?泉嫩黃金涌?;元稹《一字至七字詩(shī)》:?銚煎黃蕊色?),湯華又是?煥如積雪?的白色,一碗在手,真是令人賞心悅目,難怪詩(shī)人們會(huì)產(chǎn)生那么多美麗的聯(lián)想。
不過(guò),在唐代茶藝發(fā)展進(jìn)程中,除了陸羽等人之外還有一位茶人的貢獻(xiàn)值得注意,這就是臨淮縣(今江蘇洪澤縣西)的常伯熊。據(jù)唐代封演《封氏聞見(jiàn)記》卷6記載:?楚人陸鴻漸為茶論,說(shuō)茶之功效,并煎茶、炙茶之法。造茶具二十四事,以都統(tǒng)籠貯之。遠(yuǎn)近傾慕,好事者家藏一副。有常伯熊者,又因鴻漸之論廣潤(rùn)色之,于是茶道大行。王公朝士無(wú)不飲者。御史大夫李季卿宣慰江南,至臨淮縣館。或言伯熊善茶者,李公為請(qǐng)之。伯熊著黃被衫烏紗帽。手執(zhí)茶器,口通茶名,區(qū)分指點(diǎn),左右刮目。茶熟,李公為啜兩杯而止。既到江外,又言鴻漸能茶者,李公復(fù)請(qǐng)之。鴻漸身衣野服,隨茶具而人。既坐,教攤?cè)绮芄适?,李公心鄙之。茶畢,命奴子取錢三十文酬茶博士。? 從這條史料可以看出:(1)早在唐代,茶藝的基本程式已經(jīng)形成,而且可以在客人面前進(jìn)行表演。(2)常伯熊在表演茶藝時(shí)已經(jīng)有一定的服飾、程式、講解,具有一定的藝術(shù)性和觀賞性,成為一項(xiàng)藝術(shù)形式。(3)茶藝的基本程式雖然是陸羽制定的,但卻是經(jīng)過(guò)常伯熊?廣潤(rùn)色之?后才?茶道大行?,即進(jìn)行很大(?廣?)加工(?潤(rùn)色?)之后才在社會(huì)上流行起來(lái)。(4)陸羽的表演效果不如常伯熊,故?李公心鄙之?。(5)既然陸羽的表演是?教攤?cè)绮芄适?,可見(jiàn)陸羽自己也接受了常伯熊已經(jīng)?廣潤(rùn)色之?后的茶藝程式,那么,現(xiàn)在看到的《茶經(jīng)?五之煮》中有關(guān)煮茶的記載,應(yīng)該是陸羽參考常伯熊的?潤(rùn)色?而修訂過(guò)的。因此,應(yīng)該承認(rèn)常伯熊是中國(guó)歷史上第一位茶藝表演藝術(shù)家,是現(xiàn)代茶藝師的祖師爺。
唐代茶人們對(duì)?湯華?的追求對(duì)宋代的影響很大,宋代的點(diǎn)茶法的最大特點(diǎn)正是對(duì)泡沫(湯華)的追求。斗茶時(shí)是以泡沫越多越白而取勝的,即所謂?斗浮斗色傾夷華?(梅堯臣《次韻和永叔嘗新茶雜言》)。當(dāng)宋代的茶人們發(fā)現(xiàn)將茶粉直接放在茶盞中沖點(diǎn)擊拂會(huì)產(chǎn)生更多、更美的泡沫時(shí),自然就會(huì)放棄唐代的煮茶方式。而是將早已存在民間的?閹茶法?加以改進(jìn)發(fā)揚(yáng)。早在三國(guó)時(shí),張揖《廣雅》就記載?荊巴間采茶作餅,成以米膏出之。若飲先炙令色赤,搗末臵瓷器中,以湯澆覆之。?這與《茶經(jīng)》所提倡的煮茶法并不相同,是將搗碎后的茶葉粉末放入瓷器中再用開(kāi)水沖泡,《茶經(jīng)?六之飲》中稱之為?癱茶?:?乃斫、乃熬、乃煬、乃舂,貯于瓶缶之中,以湯沃焉,謂之癱茶。?宋代的點(diǎn)茶法則是將?瓶缶?改為茶盞,將茶粉放人茶盞中用少量開(kāi)水調(diào)勻后再?zèng)_點(diǎn)開(kāi)水,然后用茶筅擊拂使之產(chǎn)生泡沫。顯然,用茶筅擊拂產(chǎn)生的泡沫肯定比煮茶法要多也更美觀。而茶筅是早在南北朝時(shí)期就已發(fā)明。由此可見(jiàn)宋代的點(diǎn)茶法并非突然憑空冒出來(lái)的,而是有悠久的歷史軌跡可尋。
從宋代的《茶錄》、《大觀茶論》等茶書(shū)記載中,可以了解到宋代點(diǎn)茶法的點(diǎn)茶技藝是:炙茶、碾茶、羅(篩)茶、候湯(燒水)、?菡?(烘茶盞)、調(diào)膏、注水、擊拂、奉茶。
宋代茶人們除了追求美麗的茶湯泡沫外,也講究茶湯的真味。陸羽在《茶經(jīng)》中雖然反對(duì)民間傳統(tǒng)煮茶加進(jìn)蔥、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷等佐料,但是他還是保留了加鹽的習(xí)慣。宋代的點(diǎn)茶則連鹽也不用,單純品嘗茶葉的芳香和滋味。宋代的詩(shī)人們也寫(xiě)了大量歌頌茶湯色、香、味的詩(shī)句,經(jīng)常三者并提,如?味觸色香當(dāng)幾塵?(黃庭堅(jiān)《送張子列茶》)、?色香味觸映眼來(lái)?(黃庭堅(jiān)《奉同六舅尚書(shū)詠茶碾煮茶》)、?色味新香各十分?(葛勝仲《謝通判惠茶用前韻》)、?色香味觸未離塵?(劉才邵《方景南出示館中諸公唱和分茶詩(shī)次韻》)。而且還將三者稱為?三絕?:?遂令色香味,一日備三絕?(蘇軾《到官病倦,未嘗會(huì)客,毛正仲惠茶,乃以端午小集石塔,戲作一詩(shī)為謝》)。
宋代的茶書(shū)就將色香味列為三大標(biāo)準(zhǔn)。如蔡襄《茶錄》指出:?茶色貴白……以青白勝黃白?;?茶有真香……民間試茶皆不入香,恐奪其真?;?茶味主于甘滑?。宋徽宗的《大觀茶論》則將?味?擺到第一位:?夫茶以味為上,香甘重滑為味之全?;?茶有真香,非龍麝可擬?;?點(diǎn)茶之色,以純白為上真?。
但是,宋代點(diǎn)茶所使用的茶葉仍與唐代一樣,是用蒸青餅茶,即茶葉采摘后要蒸熟、搗碎、榨汁、壓模、烘干成團(tuán)狀或餅狀的茶餅,特別是斗茶講究茶湯泡沫貴白,盡量將茶葉中的汁液榨干,?蒸芽必熟,去膏必盡?(宋子安《東溪試茶錄》)。致使茶葉的色、香、味都受到很大損失,有時(shí)會(huì)加進(jìn)一些香料作為彌補(bǔ),結(jié)果又使茶失去真香真味。而民間飲用的散茶,卻有不用蒸青而直接烘焙,其香氣和滋味自然勝過(guò)餅茶,于是逐漸傳播開(kāi)來(lái)。明代謝肇涮《五雜俎》引元代馬端臨《文獻(xiàn)通考》?茗有片有散。片者即龍團(tuán)舊法。散者則不蒸而干之,如今之茶也。?后說(shuō):?始知南渡之后,茶漸以不蒸為貴矣。?正如明代許次紓《茶疏》所指出:?名北苑試新者,乃雀舌冰芽所造,一挎之值至四十萬(wàn)錢,僅供數(shù)盂之啜,何其貴也。然冰芽先以水浸,已失真味,又和名香,益奪其氣,不知何以能佳?不若近時(shí)制法,旋摘旋焙,色香俱全,尤蘊(yùn)真味。?特別是明代發(fā)明了炒青、揉捻技術(shù)之后,增強(qiáng)了茶葉的香氣滋味。張?jiān)础恫桎洝酚涊d:?候鍋極熱,始下茶急炒?;鸩豢删?,待熟方退火,徹人篩中,輕團(tuán)數(shù)遍,復(fù)下鍋中,漸漸減火,焙干為度……火候均停,色香全美。?茶青炒后復(fù)加烘焙,更加芳香,葉色青綠可愛(ài),經(jīng)過(guò)揉捻滲出茶汁,易于溶解,滋味更加醇厚,人們就直接采用開(kāi)水沖泡,以品嘗茶葉的真香真味,于是在宋元時(shí)期就已在民間流傳的散茶沖泡法迅速發(fā)展起來(lái),特別是在明朝初年朱元璋廢除餅茶改進(jìn)貢芽茶之后,宋代的點(diǎn)茶法就被瀹茶法(散茶沖泡法)所淘汰了。自此之后直到今天,瀹茶法一直占據(jù)中國(guó)飲茶方式的主導(dǎo)地位。
瀹茶法是用條形散茶直接沖泡,杯中的茶湯就沒(méi)有?乳花?之類可欣賞,因此品嘗時(shí)更看重茶湯的滋味和香氣,對(duì)茶湯的顏色也從宋代的以白為貴變成以綠為貴。明代的茶書(shū)也開(kāi)始論述瀹茶法的品嘗問(wèn)題。如陸樹(shù)聲《茶寮記》的?煎茶七類?條目中首次設(shè)有?嘗茶?一則,談到品嘗茶湯的具體步驟:?茶入口,先灌漱,須徐咽。俟甘津潮舌,則得真味。雜他果,則香味俱奪。?要求茶湯人口先灌漱幾下,再慢慢下咽,讓舌上的味蕾充分接觸茶湯,感受茶中的各種滋味,此時(shí)會(huì)出現(xiàn)滿口甘津,齒頰生香,才算嘗到茶的真味。品茶時(shí)不要雜以其他有香味的水果和點(diǎn)心,因?yàn)樗鼈儠?huì)奪掉茶的香味。羅廩的《茶解》也專門談到品嘗問(wèn)題:?茶須徐啜,若一吸而盡,連進(jìn)數(shù)杯,全不辨味,何異傭作。盧仝七碗,亦興到之言,未是事實(shí)。山堂夜坐,手烹香茗,至水火相戰(zhàn),儼聽(tīng)松濤,傾瀉人甌,云光縹渺,一段幽趣,故難與俗人言。?主張品嘗茶湯要徐徐啜咽,細(xì)細(xì)品味,不能一飲而盡,連灌數(shù)杯,毫不辨別滋味如何,等于是傭人勞作牛飲解渴。真正的茶人品茶,最好是山堂夜坐,親自動(dòng)手,觀水火相戰(zhàn)之狀,聽(tīng)壺中沸水發(fā)出像松濤一般的聲音,香茗人杯,茶煙裊裊,恍若臵身于云光縹渺之仙境,這樣的幽人雅趣是難以和俗人講清楚的。明代的屠隆在《考??馀事》卷3?茶箋?中強(qiáng)調(diào)要識(shí)趣:?茶之為飲,最宜精行儉德之人,兼以白石清泉,烹煮得法,不時(shí)廢而或興,能熟習(xí)而深味,神融心醉,覺(jué)與醍醐甘露抗衡,斯善鑒者矣。使佳茗而飲非其人,猶汲泉以灌蒿萊,罪莫大焉。有其人而未識(shí)其趣,一吸而盡,不暇辨味,俗莫大焉。?品茶講究?幽趣?,是明清文人在品茗活動(dòng)中所追求的藝術(shù)情趣,也是中國(guó)茶藝的一大特色。
這樣的品茶最適合用小壺小杯來(lái)品啜,許次紓《茶疏》?飲啜?就主張:?一壺之茶,只堪再巡。初巡鮮美,再則甘醇,三巡意欲盡矣。??所以茶注欲小,小則再巡已終。寧使馀芬剩馥尚留葉中,猶堪飯后啜漱之用。?馮可賓的《?舨杓恪芬倉(cāng)髡龐瞇『?泡茶:?茶壺以小為貴。每一客,壺一把,任其自斟自飲,方為得趣。何也?壺小則香不渙散,味不耽擱。況茶中香味,不先不后,只有一時(shí),太早則未足,太遲則已過(guò)。的見(jiàn)得恰好一瀉而盡,化而裁之,存乎其人。?于是就逐漸形成了功夫茶藝。最早見(jiàn)于記載的是清初袁枚的《隨園食單?茶》:?余向不喜武夷茶,嫌其濃苦如飲藥。然丙午秋,余游武夷,到曼亭峰天游寺諸處,僧道爭(zhēng)以茶獻(xiàn)。杯小如胡桃,壺小如香櫞。每斟無(wú)一兩,上口不忍遽咽。先嗅其香,再試其味。徐徐咀嚼而體貼之,果然清芬撲鼻,舌有馀甘。一杯之后,再試一二杯。令人釋躁平矜,怡情悅性。?這是典型的小壺小杯沖泡法,是今天功夫茶藝的原型,至清代晚期,功夫茶藝就已經(jīng)很成熟了。
據(jù)寄泉《蝶階外史?功夫茶》記載,其具體沖泡程式如下:?壺皆宜興沙質(zhì)。龔春、時(shí)大彬不一式。每茶一壺,需爐銚三候湯。初沸蟹眼,再沸魚(yú)眼,至連珠沸則熟矣。水生湯嫩,過(guò)熟湯老,恰到好處頗不易。故謂天上一輪好月,人間中火候一甌。好茶亦關(guān)緣法,不可幸致也。第一銚水熟,注空壺中蕩之潑去;第二銚水已熟,預(yù)用器臵茗葉分兩若干立下壺中,注水,覆以蓋,臵壺銅盤內(nèi);第三銚水又熟,從壺頂灌之周四面,則茶香發(fā)矣。甌如黃酒卮,客至每人一甌,含其涓滴而玩味之。若一鼓而牛飲,即以為不知味,肅客出矣。?
由此可知,清代功夫茶藝的程式為:煮水、溫壺、臵茶、沖泡、淋壺、分茶、奉茶??腿嗽谄穱L茶湯時(shí)則要求?含其涓滴而玩味之?,徐珂《清稗類鈔》提到邱子明泡功夫茶時(shí)也說(shuō):?注茶以甌,甚小,餉一甌,含其涓滴而咀嚼之。?這?玩味??咀嚼?的是茶湯之色香味,至于如何?玩味??咀嚼??清代梁章鉅《歸田瑣記》?品茶?一節(jié)中提到福建泉州、廈門人的功夫茶時(shí)指出:?一日香,花香小種之類皆有之。今之品茶者以此為無(wú)上妙諦矣,不知等而上之則曰清,香而不清,猶凡品也。再等而上之則曰甘,香而不甘。則苦茗也。再等而上之則曰活,甘而不活,亦不過(guò)好茶而已?;钪蛔郑殢纳啾颈嬷?,微乎微矣,然亦必瀹以山中之水,方能悟此消息。?梁章鉅將茶之香味區(qū)分為香、清、甘、活四個(gè)品級(jí),要從舌頭上去細(xì)細(xì)辨析、體味,可見(jiàn)清代品茶是何等之精。
不僅如此,明清文人品茶還講究環(huán)境的幽雅。徐渭在《徐文長(zhǎng)秘集》中對(duì)品茗環(huán)境有概括的論述:?品茶宜精舍,宜云林……宜永夜清談,宜寒宵兀坐,宜松月下,宜花鳥(niǎo)間,宜清流白云,宜綠蘚蒼苔,宜素手汲泉,宜紅妝掃雪,宜船頭吹火,宜竹里飄煙。?許次紓《茶疏》對(duì)品茗環(huán)境談得更詳細(xì):?心手閑適,披詠疲倦,意緒棼亂,聽(tīng)歌拍曲,歌罷曲終,杜門避事,鼓琴看畫(huà),夜深共語(yǔ),明窗凈幾,洞房阿閣,賓主款狎,佳客小姬,訪友初歸,風(fēng)日晴和,輕陰微雨,小橋畫(huà)舫,茂林修竹,課花則鳥(niǎo),荷亭避暑,小院焚香,酒闌人散,兒輩齋館,清幽寺觀,名泉怪石。?其中?心手閑適?、?聽(tīng)歌拍曲?、?鼓琴看畫(huà)?、?賓主款狎?、?訪友初歸?等等是屬于品茗的人文環(huán)境,?明窗凈幾?、?洞房阿閣?、?兒輩齋館?、?清幽寺觀?等等是屬于品茗的室內(nèi)環(huán)境,而?風(fēng)日晴和、輕陰微雨、小橋畫(huà)舫、茂林修竹?、?荷亭避暑、小院焚香?、?名泉怪石?等等則是屬于室外的自然環(huán)境。品茶品到這種地步,完全變成一種充滿審美情趣的藝術(shù)行為,也標(biāo)志著中國(guó)的茶藝至此已經(jīng)高度成熟。
三、中日茶文化的不同發(fā)展方向
由此可見(jiàn),中國(guó)茶文化的發(fā)展方向是沿著茶藝軌道而與時(shí)俱進(jìn)的。對(duì)茶葉的色、香、味及藝術(shù)意境的追求一直是中國(guó)茶藝的重點(diǎn)。從唐代以前的夾雜他物的混煮法到唐代的煮茶法、宋代的點(diǎn)茶法和明清時(shí)期的瀹茶法,泡茶方式是朝著自然、簡(jiǎn)約、生活化的方向發(fā)展。與此同時(shí),茶葉的制造方法也從蒸青、壓汁、制餅發(fā)展為烘青、炒青以至搖青等方法,制造出能顯示茶葉自然形態(tài)、色澤、香味的綠茶、黃茶、白茶和青茶等產(chǎn)品,形成了千奇百態(tài)、異彩紛呈的茶的世界。而這一切都是隨著時(shí)代的更替,社會(huì)的發(fā)展,人們品茶口味的變化而向前演進(jìn)。這種變化的終極目標(biāo)是越來(lái)越追求茶葉本身天然的色香味形,賦于品茶以豐富審美情趣的藝術(shù)性,無(wú)疑,這是一種人性化的追求,它符合中國(guó)文人崇尚自然、追求天人合一的本性。應(yīng)該說(shuō),這是一種歷史的進(jìn)步。
反觀日本,他們將中國(guó)宋代的點(diǎn)茶法引進(jìn)本國(guó)后,卻發(fā)展為宗教色彩極濃的日本抹茶道。直到今天,他們飲用的是從宋代以來(lái)一成不變的蒸青綠茶粉,使用的也是宋代點(diǎn)茶法那一套點(diǎn)茶器具和方式,居然可以歷千年而不變。這是因?yàn)橐M(jìn)中國(guó)飲茶方法的都是日本高僧,他們是在中國(guó)寺廟中將佛門茶事學(xué)回去,并將它們作為佛門清規(guī)的組成部分一直在佛門中被嚴(yán)格地傳承下來(lái)。比如,最早將中國(guó)宋代寺廟中的飲茶禮儀引進(jìn)日本的是對(duì)日本茶道的創(chuàng)立產(chǎn)生重大影響的南浦紹明(1235—1309),他于南宋開(kāi)慶元年(1259)人宋遍參名師,師從杭州凈慈寺虛堂智愚禪師。咸淳元年(1265)秋,虛堂智愚奉旨為余杭徑山寺萬(wàn)壽禪寺住持,南浦紹明也跟著上山,一邊參禪,一邊學(xué)習(xí)徑山等寺院的茶禮。咸淳三年南浦紹明回國(guó),臨行前得到一套茶臺(tái)子。他將茶臺(tái)子連同七部中國(guó)茶典帶回了日本,一邊傳禪,一邊傳授禪院茶禮。南浦紹明回國(guó)后曾任崇福寺住持33年。其茶禮被弟子大德寺開(kāi)山宗峰妙超所繼承,帶回的茶臺(tái)子等茶道器具也轉(zhuǎn)移到大德寺。大德寺的茶禮后來(lái)就傳至對(duì)日本茶道的創(chuàng)立都有很大貢獻(xiàn)的一休宗純和村田珠光。由此可見(jiàn),日本所傳去的茶道實(shí)際上就是佛教茶道。不僅如此,就是連赫赫有名的日本茶道精神——茶道四規(guī)?和、靜、清、寂?也從是中國(guó)佛門典籍中學(xué)去的。據(jù)日本學(xué)者西部文凈在《禪與茶》一書(shū)中的考證,南浦紹明帶回日本的七部茶典中有一部是劉元甫所作的《茶堂清規(guī)》,其中的?茶道規(guī)章?和?四諦義章?兩部分被后世抄錄為《茶道經(jīng)》。從《茶道經(jīng)》中可知?jiǎng)⒃δ酥袊?guó)禪宗楊岐派二祖白云守端的弟子,與湖北黃梅五祖山法演(楊岐派三祖)為同門。他以成都大慈寺的茶禮為基礎(chǔ),在五祖山開(kāi)設(shè)茶禪道場(chǎng),名為松濤庵,并確立了?和、敬、清、寂?的茶道宗旨??梢?jiàn),日本的茶道四規(guī)本是來(lái)自中國(guó)五祖山的松濤庵,一直傳到千利休的手里,再次被發(fā)揚(yáng)光大,成為日本茶道信徒們頂禮膜拜的最高宗旨,從而名揚(yáng)世界。[3]
但是,劉元甫的《茶堂清規(guī)》連同他的?和、敬、清、寂?四諦在中國(guó)宋代以后卻失去蹤影,既沒(méi)有在佛門寺廟中得到傳承,更沒(méi)有被廣大茶人們所接受,以致中國(guó)茶文化界至今極少有人知道劉元甫的名字和他的茶道四諦。由此亦可反證,茶道觀念在中國(guó)確實(shí)是缺乏豐厚的土壤。
而在日本,學(xué)茶也就是在學(xué)佛,學(xué)佛必須學(xué)茶,在今天的日本寺院中,個(gè)個(gè)和尚都是茶道高手。日本茶道圣典《南方錄》卷首就記錄千利休的一段話:?草庵茶的第一要事為:以佛法修行得道。追求豪華住宅、美味珍饈是俗世之舉。家以不漏雨,飯以不餓肚為足。此佛之教誨,茶道之本意。?
千利休的高足山上宗二在《山上宗二記》中說(shuō)得更明白:?茶道是從禪宗而來(lái)的,同時(shí)以禪宗為依歸,專門作為禪僧的行為準(zhǔn)則,珠光、紹鷗都是禪宗的門徒。?
后來(lái)的《澤庵和尚禪茶錄》也記載另一位茶道大師澤庵宗彭的話:?茶意即禪意也。因此舍掉禪意之外就沒(méi)有茶意。不知道禪味的話,也就不知道茶味。?
既然茶道是作為修行佛法追求得道的一種手段,最重要的是它的教義和儀式以及信徒們的虔誠(chéng)與專一。他們可以為舉行一次茶道連續(xù)坐上幾個(gè)小時(shí),至于茶湯的色香味就不是首先要考慮的事情了。因此,盡管日本的茶道經(jīng)過(guò)歷代大師們的不懈努力,形成了完整、成熟、具有鮮明民族特色的茶道藝術(shù)文化體系,在國(guó)際上也產(chǎn)生過(guò)很大影響。但是與中國(guó)茶藝相比,它走的是另一條道路,對(duì)茶道形式和教義的重視遠(yuǎn)遠(yuǎn)勝過(guò)對(duì)茶湯香味的追求。新晨范文網(wǎng)
這是各自不同的歷史、文化背景造成的,我們無(wú)須強(qiáng)分軒輊。但是了解了這一區(qū)別,卻可以使我們正確認(rèn)識(shí)中國(guó)茶文化歷史的發(fā)展方向。日本人可以繼續(xù)為他們的茶道而驕傲,我們卻應(yīng)該為中國(guó)的茶藝而自豪。也正因如此,中國(guó)的茶藝今天又開(kāi)始走向世界,不但在西方有一大批的歐美人士在學(xué)習(xí)中國(guó)茶藝,驚嘆中國(guó)的茶葉會(huì)有如此美妙的香氣和滋味,像發(fā)現(xiàn)新大陸似地欽羨中國(guó)人把飲茶變成一門藝術(shù)。[4]就是在茶道王國(guó)的日本,現(xiàn)在也有越來(lái)越多的人士對(duì)自己的茶道失去興趣,而在學(xué)習(xí)芳香襲人充滿藝術(shù)情趣的中國(guó)茶藝。
植根于生活和人性土壤之中的中國(guó)茶藝,永遠(yuǎn)與時(shí)俱進(jìn),永遠(yuǎn)煥發(fā)青春!
[參考文獻(xiàn)]
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[2]陳文華.長(zhǎng)江流域茶文化[M].武漢:湖北教育出版社,2004.
[3]丁以壽.日本茶道草創(chuàng)與中日禪宗流派關(guān)系[J].農(nóng)業(yè)考古,1997,(2).
[4]汊漢.西歐觀眾為東方茶藝喝彩[J].農(nóng)業(yè)考古,2003,(4).
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第五篇:中日詠梅詩(shī)歌之比較
中日詠梅詩(shī)歌之比較
摘要:“詠梅”是中日古典詩(shī)歌共同出現(xiàn)的主題。文章以比較文學(xué)的視點(diǎn)出發(fā),從二者體現(xiàn)在內(nèi)容方面的異同點(diǎn)入手,從“梅香”這個(gè)共同主題、以及中國(guó)詠梅詩(shī)的“個(gè)性”與日本詠梅和歌的“交流性”等方面,分析二者在反映意境方面的分歧。日本文學(xué)對(duì)中國(guó)文學(xué)有借鑒與受容,但前者更傾向于以“物哀”、“為藝術(shù)而藝術(shù)”的純文學(xué);而中國(guó)文學(xué)則以“詩(shī)言志”、強(qiáng)調(diào)詩(shī)歌的教化功用見(jiàn)長(zhǎng)。
關(guān)鍵字:詠梅;梅香;萬(wàn)葉集;個(gè)性;交流性;詩(shī)言志
梅,果樹(shù),薔薇科。早春開(kāi)花,色有紅白兩種。中國(guó)是梅花的原產(chǎn)地,梅在中國(guó)已有三千多年的栽培史。在中國(guó),梅花進(jìn)入人們的審美領(lǐng)域,最初被引為詩(shī)歌意象是在魏晉時(shí)期,在宋代時(shí)達(dá)到了詠梅詩(shī)的高潮。日本于奈良時(shí)代作為觀賞從中國(guó)引進(jìn)了梅花,從此梅就在日本列島生根開(kāi)花。在日本最早的史書(shū)《古事記》及《日本書(shū)紀(jì)》里均無(wú)有關(guān)梅花的記載。“梅”作為一種文學(xué)意象被人們關(guān)注則最早出現(xiàn)在奈良時(shí)代的《萬(wàn)葉集》,以及與之同時(shí)代的漢詩(shī)集《懷風(fēng)藻》中。
古代日本同朝鮮、越南等國(guó)家一樣,都同屬于漢文化圈的國(guó)家。因此,有著許多共同的欣賞習(xí)慣和文化習(xí)俗。然而,由于文學(xué)觀、自然觀等方面的差異,面對(duì)同種事物、同樣景象,表現(xiàn)在中日文人詩(shī)學(xué)作品中的情感與意境往往又大相徑庭。就中日兩國(guó)的詠梅詩(shī)來(lái)講,亦存在著
許多異同點(diǎn)。
一、關(guān)于“梅香”
梅花香味清幽,沁人心脾,非它花可比。因之,不少詩(shī)人在其詠梅詩(shī)中,均是針對(duì)梅花的香味而詠的。
牆角數(shù)枝梅,凌寒獨(dú)自開(kāi)。
遙知不是雪,為有暗香來(lái)。(北宋 王安石《梅花》)在這首詩(shī)中,既寫(xiě)了梅之色,更寫(xiě)了梅之香。詩(shī)人緊緊抓住梅花凌寒開(kāi)放“為有暗香來(lái)”這一特點(diǎn),用以表現(xiàn)一種倔強(qiáng)的風(fēng)骨精神。梅花不僅凌寒吐豔,而且還在嚴(yán)寒中播送“暗香”,嚴(yán)寒既壓不倒其色,亦擋不住其香。詩(shī)言志,歌詠言。在中國(guó)詩(shī)歌中,梅花的香是一種人格與風(fēng)骨的暗喻,一種精神的體現(xiàn)。中國(guó)歷代詩(shī)人都頗為注意梅花的香。如楊炯詠梅云:“影隨朝日遠(yuǎn),香逐便風(fēng)來(lái)”(《梅花落》);柳宗元詩(shī)說(shuō):“朔風(fēng)飄夜香,繁霜滋曉白”(《早梅》);更有陸游的名句:“一春花信二十四,縱有此香無(wú)此格”(《芳華樓賞梅》)等等,都有著一種深刻的寓意,體現(xiàn)作者忠貞不屈的愛(ài)國(guó)主義精神與思想。
日本詠梅詩(shī)中的“詠香”之作則與此大不同。春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見(jiàn)えね香りやは隠るる(《古今和歌集》 卷一春歌上0041凡河內(nèi)躬恒)譯詩(shī)曰:春夜亦何愚,妄圖暗四隅,梅花雖不見(jiàn),香氣豈能無(wú)。梅花盛開(kāi),花香彌漫。而春天的夜色,又是何等的嬌憨,企圖以夜色來(lái)加以掩蓋,豈不知即使夜色彌漫辨不見(jiàn)花色,但那撲鼻的清香豈是可
擋之物? 沒(méi)有高風(fēng)亮節(jié)的風(fēng)骨,只是單純的描寫(xiě)梅花的香味。甚至為了描寫(xiě)梅香,居然將梅花本身也棄掉了。《萬(wàn)葉集》和《古今和歌集》之間的約兩百年,當(dāng)時(shí)日本詩(shī)人無(wú)比講究、偏重審美,表現(xiàn)在詩(shī)中的也多單純的審美感動(dòng),與中國(guó)詠梅之作的厚重、尖銳相比,就顯得輕快而單純?cè)S多。
二、中國(guó)詠梅詩(shī)的“個(gè)性”與日本詠梅和歌的“交流性”
在中國(guó)古典文學(xué)中,梅花有著各種各樣的別稱: 疏影:吳可《探梅》“噴月清香猶吝惜,印溪疏影咨橫斜?!?/p>
孤根:李新《次韻任吏君詠梅二首》“堂上高人解賞音,孤根未放草來(lái)侵?!?/p>
孤芳:林埔《梅花三首》“幾回山腳又江頭,繞著孤芳看不休?!?/p>
寒顏:張峰 《梅》“一枝寒顏映窗光,蕊氣侵衣斷客腸?!? 擅長(zhǎng)借物抒情、托物言志是中國(guó)文學(xué)的一大特色。文風(fēng)是作者心靈的自然流露,詩(shī)詞的風(fēng)格就是作家個(gè)性的體現(xiàn)。梅樹(shù)本身是毫無(wú)靈性的植物,可一旦進(jìn)入藝術(shù)領(lǐng)域,成為審美對(duì)象,它就成了充滿感情的生靈。中國(guó)詩(shī)人們借用梅花來(lái)盡情抒發(fā)個(gè)人情感。
眾芳搖落獨(dú)暄研, 占盡風(fēng)情向小園。
疏影橫斜水清淺,暗香浮動(dòng)月黃昏。
霜禽欲下先偷眼,粉蝶如知合斷魂。
幸有微吟可相狎, 不須檀板共金尊。(宋 林埔 《山園小梅》)
本詩(shī)中的梅花孤高冷峻,成了淡泊出世思想的化身。林埔是北宋頗具代表性的詠梅詩(shī)作者之一。他長(zhǎng)住杭州西湖的孤山,性情清靜淡泊,每日以賞梅養(yǎng)鶴為樂(lè),過(guò)著“梅妻鶴子”的生活,他把賞梅作為一種清高的標(biāo)志,其筆下的詠梅詩(shī)境界清幽,突出了梅花清高絕塵的品格。蘇軾的詠梅詩(shī)也同樣,不是重在描寫(xiě),而是借助梅花抒發(fā)個(gè)人感受。
怕愁貪睡獨(dú)開(kāi)遲,自恐冰容不入時(shí)。
故作小紅桃杏色,尚馀孤瘦雪霜姿。
寒心未肯隨春態(tài),酒暈無(wú)端上玉肌。
詩(shī)老不知梅格在,更看綠葉與青枝。
(宋 蘇軾 《紅梅》)
他讚美梅花的耐寒與多情,把梅花當(dāng)成知己,表達(dá)自己屢遭挫折亦不以為意的胸襟。
在“詠梅”這個(gè)題材詩(shī)中,無(wú)關(guān)乎科舉,無(wú)關(guān)乎諂媚,無(wú)關(guān)乎交際,中國(guó)詩(shī)人們借助梅花來(lái)寄寓自己的“情”抒發(fā)自己各種各樣不同的“志”,通過(guò)形形色色的詠梅詩(shī),我們也感受到了詩(shī)人們充滿魅力的個(gè)性風(fēng)采。
于此處,日本古典和歌又表現(xiàn)出極大的不同。如果說(shuō)中國(guó)詩(shī)人在詠梅詩(shī)中盡情表現(xiàn)了自己的“個(gè)性”的話,那麼日本古典詠梅詩(shī)則彰顯了一種有別于此的“交流性”。
梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐいす鳴くも
(《萬(wàn)葉集》卷五——八二四少監(jiān)阿氏奧島)
譯詩(shī)曰:梅花飄零散落,痛惜豈無(wú)聲。我苑竹林里,黃鶯正亂鳴。
梅の花咲きたる園の青柳をつるにしつつ游び暮らすさな
(《萬(wàn)葉集》卷五——八二五少監(jiān)土氏百村)
譯詩(shī)曰:梅花開(kāi)滿苑,柳色正青青,青柳猶人發(fā),歡游且莫停。
收錄在《萬(wàn)葉集》的一一二首詠梅和歌中,有相當(dāng)一部分是創(chuàng)作于宮廷貴族舉辦的各式各樣的“詩(shī)宴”之上的。天平二年正月十三日,在大宰府帥大伴旅人的官邸舉行了史上有名的梅花詩(shī)宴,又包括他本人在內(nèi)的三十二位官員出席。席間,人們飲酒作詩(shī),觥籌交錯(cuò)間,互相抒發(fā)著對(duì)早春梅開(kāi)的喜悅,以及面對(duì)梅落花散的惋惜,亦或類似于之類的情緒。人們通過(guò)詠梅來(lái)達(dá)到一種交流,應(yīng)酬的目的。這樣活潑歡快,略帶寒暄性質(zhì)的詠梅和歌,顯然與中國(guó)詠梅詩(shī)的深刻意境有著巨大的不同。
三、小結(jié)
由一種花卉的流行而引起一類詠花詩(shī)的流行,其中花卉的生物特性及觀賞活動(dòng)的舉行,都構(gòu)成其流行的基本條件。梅花在我國(guó)已有了三千多年的栽培史,由于梅花的成活率高,在中國(guó)古代上至皇室王宮,下至文人百姓,種植梅花非常普遍。梅花的普及為詠梅詩(shī)的興起提供了最基本條件。梅越多,賞玩之風(fēng)越盛,詩(shī)作也越多。作為一種抒情言志的對(duì)象,梅被賦予了各種高尚品格,中國(guó)文人們?cè)趯?duì)梅花的欣賞過(guò)程中獲得了精神源泉和力量。
日本對(duì)中國(guó)文明積極而系統(tǒng)的吸收,始于7世紀(jì)大和王朝的飛鳥(niǎo)時(shí)代。到了8世紀(jì)的奈良時(shí)代,因遣唐使的不斷派遣而日見(jiàn)其盛。中國(guó)詩(shī)學(xué)對(duì)日本也有影響?!度f(wàn)葉集》的詠梅詩(shī)作者,大多是漢學(xué)家或遣
唐使僧,漢學(xué)造詣得天獨(dú)厚。梅花以及賞梅之風(fēng)在奈良時(shí)代傳入日本后,在宮廷士大夫之間迅速掀起一股新的風(fēng)雅熱潮。但與中國(guó)的梅花庶民性相比,在日本,植梅,賞梅,詠梅作為一種流行風(fēng)雅只為上層的宮廷貴族所津津樂(lè)道??梢哉f(shuō),梅作為審美對(duì)象為日本人所認(rèn)識(shí)也是通過(guò)漢詩(shī)中的詠梅詩(shī)而實(shí)現(xiàn)的。
在通過(guò)對(duì)兩國(guó)詠梅詩(shī)歌的對(duì)比中,我們可以看到日本文學(xué)對(duì)中國(guó)文學(xué)的繼承性。但是,日本在吸收外來(lái)文化時(shí)不是全盤地接受而是借鑒地部分吸收,在日本人心底有一種扎根于本土的底層的文化淵源。從萬(wàn)葉時(shí)代的和歌理念(真情,男子漢氣概),到古今集推崇的(優(yōu)雅、高貴的女性美),日本本身具有自己獨(dú)特的文藝?yán)砟?。與此不同,“詩(shī)者,在心為志,發(fā)言為詩(shī)”,即所謂的“詩(shī)言志”是中國(guó)詩(shī)歌史上最具代表性的理念特徵。就詠梅題材詩(shī)來(lái)說(shuō),日本文學(xué)也僅僅是從中國(guó)借鑒了“詠梅”這種“形”,歌人們沒(méi)有托物言志的意識(shí),只是習(xí)慣于欣賞自然之美,為賞花而賞花,或真實(shí),或優(yōu)美高貴,形成了與中國(guó)“詩(shī)言志”特徵大不同的日本詠梅和歌。參考文獻(xiàn): [1]繆鉞.宋詩(shī)鑒賞辭典[M].上海:上海辭書(shū)出版社,1987.[2][清]厲鶚輯.宋詩(shī)紀(jì)事[M].上海:上海古籍出版社,1983.[3]楊烈.古今和歌集[M].上海:復(fù)旦大學(xué)出版社,1983.[4]孫映逵.中國(guó)歷代詠花詩(shī)鑒賞辭典[M].蘇州:江蘇科技出版社,1989.[5]王國(guó)維.人間詞話[M].上海:上海古籍出版社,2000.[6]程杰.一個(gè)詠梅模式的發(fā)展[J].文學(xué)研究, 2003,(4):113-118.