第一篇:自然との出會(huì)い 讀后感
自然との出會(huì)い
自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。そのためには、竹がためてきたことを聞いてやる時(shí)間が必要で、學(xué)知よりも、そっちの方に美しさがある、と思う。
竹を切って、紙に漉いたり、人形面にしたりして、二十年たつが、ものも言わぬ竹ながら、何やかや教わるものが多い。
手をかけないでほうっておくと、竹藪はジャングルになって竹が泣いているし、竹を切り殺して造成するので、竹が號(hào)泣している気がする。
自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。竹から教わるものは、學(xué)知世界よりも美しい。たまには竹がためてきたことを聞いてやる時(shí)間が必要である。
第二篇:論文と作文_レポー卜の違いとは
論文と作文?レポー卜の違いとは?
では、論文と作文の區(qū)別はどこにあるかといいますと、作文にはなくて、論文には絶対になければならないものがあります。それは「問(wèn)い」、クエスチョンマークです。論文は必ず?jiǎn)枻い槭激蓼椁胜堡欷肖い堡蓼护?。そして、その答えをこれこれこういう理由だから、こうなんだとはっきり証明するかたちで結(jié)論へと導(dǎo)く、これが論文というものです。ですか5 ら、問(wèn)いのない論文というのは存在しない。ということは、問(wèn)いを立てずに出題しておいて、相手に論文を要求してはいけないということになりますし、また、問(wèn)いなしで論文を書(shū)くということも絶対矛盾となります。ここで思い浮かべるのが、日本の大學(xué)や高校でしばしば出されるレポートのことです。たとえば、これこれのことについてレポートを書(shū)けと言われることがあります。このレポー卜というのは、ごく暖味なものです。というのも、先生は「何々について書(shū)きなさい」と主題を示すだけで、それを問(wèn)いのかたちでは出していないことが多い。
おそらく、こうしたレポートの出し方をする先生は、実は、レポート、論文とは考えていないのでしょう。少なくともそう見(jiàn)なしていいと思います。場(chǎng)合によっては、自分でも論文とはなにかを理解していないことさえあります。ですから、そうしたレポートの出し方だったら、かならずしも 論文でなくてもかまわないということになります。
つまり、明確な問(wèn)いを立てずに、ある事柄について資料を調(diào)べて、そ
れを文字通り、レポート(報(bào)告)すればいいのです。この場(chǎng)合、要求される20 のは問(wèn)いを自分で立てたかということではなくて、しかるべき資料にちゃんと當(dāng)たったかということだけです。明確な問(wèn)いが要求されない以上、明確な答えも必要ではないことになります。
たとえば、「日本における人口減少問(wèn)題について」という課題で、レポートが出されたとします。先生が要求しているのは、本なルインター25 ネットなりで調(diào)べて、現(xiàn)在、日本の出生率がどんどん下がり、全國(guó)平均で1.
33、東京都は1.00になっていること、したがって、30年後には人口が減少に転ずる事実を明らかにし、それが多くの問(wèn)題を引き起こしている點(diǎn)を指摘することです。したがって、この程度のことを書(shū)いておけば、まず點(diǎn)はもらえるということになります。というよりも、これで點(diǎn)をくれなかったら、文句を言ってかまわないわけです。
ところが、課題が「日本における人口減少問(wèn)題に関し、その経済的影響を論ぜよ」と出されたとしたら、これは論文に近いものを要求しているこ5とになります。なぜなら、「経済的影響」ということでしたら、それがいつから、どのようなかたちで、またどんな分野で、どの程度のものとして現(xiàn)れているかという問(wèn)いを立てて、それに答えることが要求されるからです。そのため、資料に當(dāng)たるだけではなく、先人の立てた問(wèn)いと答えを比較し、推論をめぐらし、結(jié)論を?qū)Г匾訾皮蓼埂?/p>
しかし、レポートがこのようなかたちで出されていたとしても、まだ論文とは異なります。というのも、論文というのは、レポートのように、與えられた問(wèn)いに対して答えるだけではなく、問(wèn)いそのものを自分で見(jiàn)いだ
さなければならないという條件があるからです。
言い換えれば、レポート は課題に対する答えを見(jiàn)いだせば、それでいいのですが、論文は問(wèn)いそのものもまた自分で見(jiàn)つけてこなければならないということです。
つまり、レポートなら答えのオリジナリティーだけでいいが、論文は問(wèn)いのオリジナリティーも要求されるということになります。
この部分において、論文を書(shū)くということは、生活の場(chǎng)における思考と重なってきます。つまり論文でも、生活の中の思考でも、自分で問(wèn)いを発見(jiàn)しない限り、なにものもスタートしないということです。
鹿島茂『勝つための論文の書(shū)き方』より
第三篇:お暇ごいと送別會(huì)
お暇ごいと送別會(huì)/辭行與送別會(huì)
[句子]
1.今日はお暇ごいに上がりました。今天我特來(lái)辭行。
2.用事があって、一度帰國(guó)するつもりです。因?yàn)橛惺?,所以打算回?guó)一次。
3.二三日の中に出発したいんですが。我是想兩三天內(nèi)就動(dòng)身。
4.日本滯在中 いろいろお世話になりました。感謝在日本逗留期間您對(duì)我的多方關(guān)照。5.荷物はしっかり支度ができました。
行李一切都準(zhǔn)備好了。
6.またお會(huì)いできる日を楽しみにしております。我盼望著我們?cè)僖?jiàn)面的一天能早日到來(lái)。7.道中、ご無(wú)事を祈りします。
那么我祝您一路平安。
8.この機(jī)會(huì)を借りてひとことごあいさつさせていただきます。請(qǐng)?jiān)试S我借這個(gè)機(jī)會(huì)講幾句話。
9.チャンスがありましたら、ぜひ中國(guó)にいらっしてください。請(qǐng)有機(jī)會(huì)的話,一定來(lái)中國(guó)。
10.わざわざ送別會(huì)をもよおしていただき、誠(chéng)にありがとうございます。承蒙特意為我舉辦歡送會(huì),十分感謝。
(一)歸國(guó)辭行
A.今日はお暇ごいにまいりました。今天我特意來(lái)向您辭行。
B.そうですか。ご帰國(guó)なさるんですか。啊,你是要回國(guó)嗎?
A.用事があって、一度帰國(guó)するつもりです。因?yàn)橛惺?,所以打算回?guó)一次。B.いつご出発ですか。
什么時(shí)候動(dòng)身呢?
A.二三日中に出発するつもりです。我想兩三天內(nèi)就動(dòng)身。
B.では、お見(jiàn)送りいたしましょう。那么,我去送你吧
A.そんなご心配には及びません。今日お目にかかって、お話できれば、それでけっこうです。
請(qǐng)不必多禮。今天能見(jiàn)到您的面,談一談就滿足了。
B.お帰りになりましたら、ご両親 よろしくお伝えください。
請(qǐng)回去后,向你的父母轉(zhuǎn)達(dá)我的問(wèn)候。
A.有難うございます。必ずお伝えいたします。もし中國(guó)で何か買いたい物があれば、どうぞご遠(yuǎn)慮なくおっしゃってください。謝謝,一定轉(zhuǎn)達(dá)。您在中國(guó)要有什么想買的東西,請(qǐng)吩咐,不用客氣。
B.今、買いたいものはなにもありません。思いついたら手紙でお願(yuàn)いしましょう。ところで、お荷物の支度はできましたか。
現(xiàn)在沒(méi)什么要買的,等想起來(lái)再給你寫信吧。你的行李都準(zhǔn)備好了嗎? A.はい、もうできております。都準(zhǔn)備好了
B.では、道中のご無(wú)事を祈ります。那我祝你一路平安。
A.ありがとうございます。謝謝。
(二)送別會(huì)
A.今日、わざわざ私のために送別會(huì)を催していただき、まことにありがとうございます。今天,承蒙特意為我舉辦歡送會(huì),十分感激。
B.どういたしまして。さあ、どうぞ、お席にお著きください。哪里哪里,來(lái),請(qǐng)就坐。
A.はい、失禮します。那我就不客氣了。
B.では、皆さん揃いましたので、乾杯いたしましょう。諸位,現(xiàn)在大家都到齊了,我們開(kāi)始干杯吧。A.はい、乾杯。
好,干杯。
B.まず、私が學(xué)校に変わって一言ご挨拶させていただきます。首先,請(qǐng)?jiān)试S我代表學(xué)校講幾句話。
A.それでは、私も一言ご挨拶をさせていただきます。日本に來(lái)てから、皆様には、いろいろとお世話になりました。この機(jī)會(huì)を借りして、心から感謝の意を表いたします。
那么現(xiàn)在請(qǐng)?jiān)试S我我也講幾句話。我來(lái)到日本后,受到諸位多方關(guān)照。我借此機(jī)會(huì)向各位表示衷心的感謝
B.時(shí)間の都合もありますので、ここで最後の乾杯をして、お開(kāi)きにいたしましょう。因時(shí)間關(guān)系,讓我們最后干杯來(lái)結(jié)束今天的歡送會(huì)。
A.今後、機(jī)會(huì)がありましたら、ぜひ中國(guó)にいらっしゃってください。今后,如果有機(jī)會(huì)請(qǐng)一定來(lái)中國(guó)。
B.またお會(huì)いできる日を楽しみにしております。我盼望再會(huì)之日早一天到來(lái)。
第四篇:留學(xué)生と就職について
留學(xué)生と就職について
2012F843 朱イ
日本に留學(xué)した、たくさん日本語(yǔ)を勉強(qiáng)し、日本文化に慣れ親しんだ、日本で外國(guó)人留學(xué)生が今たくさんいる。私はこのレポートで『留學(xué)生と就職』に調(diào)査して、そして結(jié)果が発表始めます。
まず『デイスコの「外國(guó)人留學(xué)生の採(cǎi)用に関する企業(yè)調(diào)査」2011年8月外國(guó)留學(xué)生を?qū)澫螭诵肖盲俊噶魧W(xué)生に求める資質(zhì)」によると、文系と理系の共通點(diǎn)はコミュニケーション能力約50%である、半分ぐらいです。日本語(yǔ)は約45%である、理系は専門知識(shí)が需要である。
次はデイスコの「外國(guó)人留學(xué)生の採(cǎi)用に関する企業(yè)調(diào)査」2011年8月に外國(guó)留學(xué)生を?qū)澫螭诵肖盲俊噶魧W(xué)生を採(cǎi)用する目的」によると、文系と理系の共通點(diǎn)は優(yōu)秀な人材を確保するためは約80%である。相違點(diǎn)は日本では確保しにくくなった専門分野の人材を捕うために文系は4%、理系は8.6%である。
最後にバソナグルーブ『外國(guó)人留學(xué)生の日本企業(yè)への就職に関するアンケート』2012年3月に留學(xué)生を?qū)澫螭诵肖盲俊溉毡兢蔷吐殼筏郡だ碛伞工瑜毪?。母?guó)語(yǔ)や日本語(yǔ)などの語(yǔ)學(xué)カを生かしたいからは約62%。家庭の事情では5.1%だけである、毌國(guó)への日本企業(yè)の進(jìn)出が盛んだから。日本企業(yè)のブラントイメージがよいは約38%である。
以上、『留學(xué)生と就職』の問(wèn)題についてまとめる。日本に留學(xué)しで、自分の強(qiáng)みはなにかをもっと考えないといけませんね。自分でしっかに考えることが大切だとおもいました。
第五篇:中國(guó)と日本の絆 演講稿 日語(yǔ)
中國(guó)と日本の絆
——異文化交流の大切さ
大學(xué)に入ったばかりの頃、なぜ日本語(yǔ)を習(xí)うかとよく聞かれた。そういう時(shí)、私はいつもあやふやな返事をしていた。何度も一體何のために日本語(yǔ)を選ぶかと自問(wèn)したことがあった。正直に言えば、その前、いかにもこういうことはじっくり考えられていなっかたようだった。自分の將來(lái)を日本語(yǔ)を?qū)Wぶということに賭けて本當(dāng)にいいのかという問(wèn)題がずっと心に纏わり付いていた。しかし、日本語(yǔ)を習(xí)っているうちに、私は多分答案を見(jiàn)付けるようになろう。
日本語(yǔ)を?qū)熼Tとした前、日本というと、私は大部分の中國(guó)人のようにまず中日戦爭(zhēng)を思い出すかもしれない。さぞ中日戦爭(zhēng)を題材とするドラマや映畫なんか見(jiàn)ることが多いだろう。また、狹い日本は世界中に軽視されない國(guó)力を持っている。あるいは、まじめな日本人はいつもおじぎが好きだという印象だけを思い浮かべる。今思うに、なんと目が淺い。
さて、もし日本の発展歴史に溯るとしたら、日本が昔から世界の先進(jìn)的な外來(lái)文化を摂取しながら、消化し、融合し、自國(guó)の文化を発展させてきたと考えられている。このうちに、中國(guó)と日本の絆が深いということを明らかに分かる。例を挙げると、最初日本語(yǔ)は漢字を借用して表記されてきたということをよく知られている。今になっても,漢字で表記することは日本語(yǔ)で動(dòng)かさない地位を占めている。ここから見(jiàn)れば、漢字の伝來(lái)によって日本語(yǔ)は中國(guó)語(yǔ)に強(qiáng)く影響されているように見(jiàn)える。
それにしても、近代に入ると、漢字は真っ先に経済を発達(dá)させてきた日本から當(dāng)時(shí)遅れていた中國(guó)へバックされ始まった。例えば、中國(guó)で今まで広く使われている「経済」、「政治」、「法律」など言葉はその時(shí)こそ取り入られたらしい。さらには、今日社會(huì)學(xué)と人文科學(xué)においてこのような名詞と専門語(yǔ)は70%を占めているそうだ。數(shù)が本當(dāng)に驚くほど多い。こういう言葉返しの現(xiàn)象は、日本のアニメーションを見(jiàn)るとか、中國(guó)人に書(shū)かれた漫畫雑誌を読むとか、私がしみじみと感じられる。今日本語(yǔ)の中で「腹黒い」という言葉の漢字、すなわち「腹黒」は中國(guó)語(yǔ)で大きな人気がある言葉だ。その他、「次元」「寫真」「人気」「萌える」などがたくさん中國(guó)語(yǔ)に現(xiàn)われるようになる。その中、直接そのままに取り入られる言葉があるが、訳してから借用される言葉もある。
このような言葉はある程度から中國(guó)語(yǔ)を充実する。それに対して、悪くないのではないかような気がする。それは文化のぶつかりまたは融合だと言えよう。ここに言語(yǔ)は中日の文化交流にとってかけ橋の役割を果たしているのだ。知らずうちに、つながりがますます深くなってくる。一方、このような交流は各自既存の文化を富み、お互いの発展を促すと思う。それなのに、伝わられてくる文化はもとより、大體同じだが、ずれも生じるに違いない。だから、使う時(shí)、注意しなければならない。
実は、言語(yǔ)だけでなく、中國(guó)は日本と多面から交流することができる。先日、中國(guó)政府主催の「中日國(guó)民交流友好會(huì)」開(kāi)幕式が東京の渋谷に行われた。それは両國(guó)の友好関係の歴史に新しいページをめくり、世界と未來(lái)に目を向け、中日関係を扱う努力をする表現(xiàn)だように思える。中日の絆がさらに結(jié)ばれてうちに、それをきっかけに、我々日本語(yǔ)を勉強(qiáng)する人、両國(guó)が互いの文化を理解し、友好関係を築くことを目指してささげる。これからそのためにがんばる。
以上です。